序 十六羅漢
「この坂には参るの。雨ではより滑りやすい」
西芳寺へと続く、比較的大きな道を、少し左へそれた山道である。
将軍御所のある京は三条坊門より西へ。急な坂になるその道のふもとで 馬を乗り捨て、徒歩で地面を踏みながら、頼之は年の離れた弟、頼元を振り返った。
「ですが兄上。ご覧なされませ」
細かい雨は降り続けている。泥にぬかるむ急坂を踏みしめ踏みしめ、ようよう平らに開けた場所へたどり着いて、頼元は東を指した。
「よき眺めにござりまする」
眼下には、春雨に煙る京の町並みが広がっている。それを懐に抱く緑の山々には、そこかしこに気の早い桜が咲いており、
「まこと、よき所じゃ」
頼之が言うと、頼元は兄の顔を見て微笑む。 その場所から、頼之が建立を願い出た寺の厨へはもうすぐである。再び歩き始めて、
(大方様も能や狂言など、くだらぬ芝居を眺めておるより、たまにはこういった景色を眺められて、心を洗われたらよいものを)
大きく膨らませた鼻の穴から息を吐き出し、三条坊門の「さる御方」を思い浮かべて、彼がほろ苦く笑うと、
「禅師はおいででしょうか」
「ああ」
頼元が横に並んで問いかけてきて、頼之はわずかに顎を引いた。
「後は庭じゃ、と、そうお聞きしておる」
「庭」
頼元も、口の中で兄の言葉を復唱して、同じように頷く。
兄、頼之が三代将軍義満の許を得て創建しようとしている寺は、後に地蔵院と呼ばれることになるそれである。
周囲を涼やかな音を立てる竹で囲まれた、京は西の果ての「辺鄙な」山を彼が選んだ時、(兄上らしい)頼元はしみじみとそう思ったものだ。
門、というよりも二本の木が立っている、というに相応しいそれを通り抜け、厨につくと、その窓からはほのかに煙が立ち昇っている。
「ごめん」
そこにはもう、だれぞ人が住んでいるらしい。人夫の小屋は今や仕上げを待つばかりの伽藍の付近にあったというから、これはやがて寺の住職となる人が住むのであろうか。
「だれぞ、いらっしゃらぬか」
頼之が再び声をかけると、なにやら中でごそごそと動く気配がし、もう既に煤けている厨の窓からぬっと顔を出した者がある。
「これは」
「いやいや。貴方のおいでを待ちかねておりましたゆえ」
頼之が驚き、恐縮して首をすくめると、かの人物は白い歯を見せてにっこりと笑い、
「今、粗茶ではあるが用意しておるゆえ、どうぞ草鞋の紐をお解きなされて」
などと言いながら再び引っ込んだ。
「周皎師が御自らお出迎え、とは驚きました」
「うむ。もともと飾らぬお人柄ではあるのだが」
頼元がいうと、頼之も苦笑してかまちへ上がり、そこへ腰を下して草鞋の紐を解き始める。碧潭周皎すなわち宗鏡禅師という名で親しまれている禅僧は、
「…夢窓師父の縁故を持ちまして、私めのような小者に大事を頂きましたこと、まず御礼申し上げまする」
管領、細川頼之の前に両手をついて、深々と頭を下げた。
三条坊門の将軍邸や頼之の屋敷に比べれば、この厨は猫の額ほどに狭い。だが、通された四畳半の茶室には、貼られたばかりの新しい畳がすがすがしい香りを放っており、
「いや、こちらこそ…夢窓国師の高弟であられる貴方にお引き受け頂きました。まことに光栄に存じておりまする」
囲炉裏を中央に組み込んだその畳に、額をすりつけんばかりな宗鏡へ、頼之もまた襟を改めて頭を下げる。すると、
「ははは、私ごときへかくもご丁寧な礼は」時の管領へ屈託無く言って、年に不相応な白い歯の持ち主は笑った。「朝廷へ申し上げて、いずれはこの寺、勅願寺にして頂けるよう按配しておりまするゆえ、ご心配なく」
「いや、それほどまでは」
宗鏡が言うと、頼之は身を縮こまらせるようにして恐縮する。
「いやいや、勅願寺となりますとな。我等の後に住職となられよう方々にも安心頂けるかと思いましただけのこと」
宗鏡は、そんな頼之の生真面目な顔を柔らかい微笑で持って見つつ、湧いた茶を大振りの素焼きの椀へ淹れて差し出して、
「開山一世は我が師夢想疎石。私は恐れながらその後を襲わせて頂くつもりにて」
「…お心遣い、まことにありがたく」
その椀を、節くれた両手で恭しく包んで、頼之は再び軽く頭を下げた。
勅願時というのは、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された寺のことである。主に上皇、天皇の発願によってから建てられたそれのことを言うが、実際には建てられてから勅許を与えられたものも多い。勅願寺ともなれば寺領が与えられるし、
「管領様の懐を煩わせることもございますまい」
「は…」
頼之は、宗鏡の心遣いにただ恐縮して椀の中を覗き込んでいる。そこには不惑の年に差しかかろうかという中年男の、いかにも頑固そうなしかめっ面が映っており、
「…まだまだ、春は遠いですかの」
不意に問いかけられて、その顔は苦笑した。
「ああ…遠いですな」
もちろん、宗鏡の言う「春」の意味が分からぬ頼之ではない。
持明院党と大覚寺党。その両派に分かれてしまった天皇家は、交互に天皇位につくことで対立を避けたはずであったが、
「初代も、真実のところは不本意であったと我等は思うております」
室町将軍初代、尊氏がときの天皇、後醍醐天皇を吉野へ「追う」てから、南朝、北朝と呼称される二つに別れた皇室の奇妙な対立は、幕府創立からほぼ三十年が経った今も続いて いるのである。
宗鏡の言葉に、再び頼之はほろ苦く笑った。
(せめて北朝側だけでも一枚岩であって欲しいものだが)
「いや、庶民だけではなくて、仏にお仕えなさる国師の方々にも不安を覚えさせているのには、何とも申し訳なく」
(…兄上は、生真面目すぎる)
嘆息しながら言う兄を、頼元は横目でちらりと見ながら、これも手にした椀の茶を一気にあおる。その時、襖がさらりと開いた。見れば、寺の下男として仕える予定になっている近所の男でである。宗鏡には、その気さくな人柄もあってかなり慣れたようだが、時の管領とその弟という、庶民にとっては雲の上にいる二人の前に出なければならぬとあって、
「大工どもが、お庭の指図を仰ぎたいと騒いでおります…へえ」
板の間に額をすりつけるようにして告げた言葉の語尾は震えている。何とも純朴なその態度に、思わず微笑しながら、三人は立ち上がった。
…雨は、かなり小降りになっている。小さな玄関で番傘を二人へ渡しながら、
「参りましょうか」
宗鏡は言って、先に立った。
当時の庭は、流行っていた枯山水式である。水を使わない代わりに、白い石などで川の流れを表現するものであり、観応二年(一三五一)に亡くなった夢窓疎石が得意とする造園法のひとつでもあった。
「ささ、方丈へ。上がられませい」
涼やかな竹葉の音がする山門をくぐりぬけ、方丈へつくと、宗鏡は傘を閉じて兄弟を促す。並んで縁側へ腰を下すと、目と鼻の先では人夫が雨の中、一抱えほどもある石を庭のあちこちへ動かしている。縁側からそれを指図する宗鏡と、掛け声勇ましく作業を続ける人夫の姿を見ながら、頼之は彼の幼い頃の師でもあった夢窓疎石を懐かしく思い出した。
夢窓疎石は、足利尊氏に命じられて天竜寺の建立も行った、今でも声望の高い禅僧で、
「その国師が、我が寺の開山一世をお担いくださる…光栄にござりまする」
「なに、管領家とてこの世を案じての開山でござりましょう。自身のお弟子でもあった方の寺なのじゃから、あの師父なれば、決してお怒りにはなりますまい」
頼之が言うと、宗鏡は振り向いて微笑んだ。 覚えずついた吐息はまだまだ白い。立ち上っていく先の軒先からは、たまった雨の雫が、造られたばかりの石の畳へ時折ぽたりぽたりと垂れており、
「あれは、このお山から出た石にござる」
宗鏡は、人夫が抱えて歩く石を目で追いながら話し続けた。
「羅漢に見立てて、お庭を飾らせていただくつもりにて」
「羅漢」
弟と顔を見合わせて頷いた頼之へ、宗鏡は体ごと向き直ってわずかに微笑む。
「左様。僭越ながら、初代が開かれた幕府…未だ羅刹どもが蠢いておりまするようで」「は…それもこれも全ては私の不徳の致すところ」
禅師の指摘に、頼之の顔は俯いた。
「ははは、管領家の不徳のせいばかりではございますまい」
そこで宗鏡はさらりと右袖を払い、
「せめて三代様の御世には春をと、我等御仏に仕えるものもなあ、祈念致しておりますのじゃが、皇家も二つに分かれて、民の心も一つにまとまらぬご時世…。管領家を責めるつもりは毛頭ござりませぬが、せめて幕府の中だけでも、二つに分かれて相争うことは避けたい。貴方もそうお考えであろ」「は…それは、左様にござりまするが」
頼之は、そこで口を厳しく結んで鼻から大きく息を吐いた。
「それゆえ、羅刹よりも羅漢の心で、と、我が師父なら貴方に申すはずじゃとなあ」
「羅漢の心で」
続く宗鏡の言葉を、頼之は口の中で呟くように繰り返す。
「そうじゃ。さすがに五百とまでは欲張れませなんだがの」
「五百…それは」
宗鏡の冗談に、綺麗に刈り込んである鼻髭の下の、気難しい唇がほころんだ。
「見つけた人を幸せにするという、天竺の仏…それに見立てたこの御山の、十六の石がきっと、人々を幸せにしてくださるようにと」
「…ありがたいことにござりまする」
羅漢とは、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を救う役割をもった人物の総称で、阿羅漢とも言う。主に十六人いたとされ(十八とする説もある)、釈迦の実子も含まれていたらしい。国師のいう「五百」とは、それらの弟子も入れると、実に五百を越えたところから来ている。
「…実りの多い話を伺えました」
国師宗鏡の言葉に、何を思ったのだろう。頼之はしばしの沈黙の後立ち上がり、
「止みましたなぁ」
左手を眉の上へかざして空を仰いだ。雨の止んだ空は、未だに雲に覆われてはいるが、明るさを取り戻している。
「今のうちに、お暇致しまする」
「…またいつなとおいでくだされ。ここは貴方の寺じゃ」
にっこりと笑う宗鏡へ頭を下げ、ずっと黙って彼らの話を聞いていた弟を促しながら、頼之は寺を後にした。
(羅刹よりも、羅漢の心で)
完成間近の寺をひっそりと抱く竹林の葉は、風に揺れて透明に光る雫を時折降り零す。
(ここに、ずっと居る事ができたなら…などと、のう)
己の周りは敵ばかりである。義満に何度も出家を言い出して、引きとめられるたびに、己に対する諸将の評判はさらに落ちていく。
(少々、いや、かなり疲れたか…否)
何もかもが清浄に見えるこの風景を見ながら、ふと弱くなった我と我が心をしかりつけ、来た時の急坂を兄弟は揃って下っていった。
雨上がりの後とて、普段は底まで手首を濡らすか濡らさぬかといった程度の流れである川は、西方寺の門前を横切り、濁流となってどうどうと流れている。
「待たせたの。これより我等が邸へ戻る」
その前で樹の下に雨を避けて、所在なげに座っていた従者達へ声をかけ、彼らから馬の手綱を受け取った頼之は、
(まだまだ、やらねばならぬ。管領のお役目にある限り、羅刹であらねばならぬ)
己に言い聞かせながら、馬上の人となったのである。