06 10月5日 “How About You” (その1)
「……それで、だ」
「なんだよ」
「本当はどっちとつきあってんだ?」
「は?」
「は、じゃねえよ」
ボクの右側に座った田中は、10月だというのにアロハシャツを着ていた。
確かに今日は暑い日だ。
ボクでさえ長袖を3回ほどまくっていた。
ラテン系の田中にはさぞかし暑いことだろうと思った。
「どっち、というのは、何と何だ?」
「うわ。とぼけていらっしゃる」
後期が始まったばかりで休講が多いからか、第2学習室には誰もいなかった。
下の第1学習室にも誰もいなかったが、ボクは験を担いであのときと同じ左隅の席に座り、資料の棚にいちばん近い場所に陣取っていた。
幸いなことに、よだれの痕はついていなかった。
「佐野と大川に決まってんだろうが」
「どこで決まっているんだよ」
田中は他に誰もいないのをいいことに、遠慮なく攻め込んできた。
「土井」
「なんだ、田中」
「オレと土井は、何かのときには助け合う仲だよな」
「お、思い出してくれたのか。この前は聞こえなかったようだが」
だったらこの本を下で借りだしてきてくれよ。
ボクはレポート用紙を少し破って文献の名前を書くと、田中に渡そうとした。
「今はそれどころじゃなかろうが」
田中は受け取ってくれなかった。
「そもそも、田中は何しにここに来たんだよ?」
「もちろん、土井の話を聞くためだ」
なかなか捕まえられんから苦労したんだぞ。
田中は言った。
「たまたま図書館に土井が入っていくのが見えたんだよ」
「ほう、それで?」
「土井を捜して3階のここまで苦労して上がってきたってこった」
10月でもまだこんなに暑いってのに、空調ねえんだよな、この学習室って。
田中はそう言うと手うちわで顔を扇いだ。
なるほど、けっこう汗ばんでいるように見えた。
田中はボクより暑がりなのかもしれない。
「これでも空調は入ってるらしいぞ」
「なんだって! 本当か?」
田中は真顔で驚いていた。
「あそこにくっついている箱が、エアコンに見えないか?」
ボクは学習室の一角を指さした。
「はあ? あれがかよ?」
田中はエアコンの真下まで行った。
冷たい空気なら下に行けば涼しいのではないかと思ったのだろう。
「どう? 実感できたか?」
「そう言われてみるとだな……ちょっと冷たい空気が」
「涼しいだろ」
ボクはそう言ってはみたものの、田中の上に見えるあのエアコンという名の箱をまったく信じていなかった。
「もっと離れた方がいいのだろうか」
田中はそう言うとエアコンの方を向いたままで2、3歩後退した。
「いかがですか、田中様」
「なんか動いていんのは分かった。しかしだな」
あれから出てくんのは冷えた空気なんかじゃねえぞ、雑音だけだ。
田中はそう言いながらボクの隣まで来たが、席には着かずそのまま中庭が見える窓辺まで行った。
田中が窓を開けると、日よけにしておいたカーテンがわずかに揺れだした。
「生暖けえそよ風なのに、あれのそばより涼しいじゃねえか」
田中は中断していた手うちわを再度稼働した。
「あれで『エアコン』だなんて、オレは認めんぞ」
どうやら田中とボクの意見は一致したらしい。
学食の扇風機の偉大さが実によく分かる。
田中は窓を開けたまま戻ってくると、今度は席に着いた。
動いたせいで、田中はまた汗ばんでいた。
「ハンカチくらいないのかよ」
「忘れた」
田中はアロハの袖を使って顔を拭った。
「この暑さでは、オレは長時間耐えるのは無理だ」
「だったら早く出て行けばいいだろ」
「さらに冷たくなった土井のおかげで、汗がひくかもしれんが」
「ほう。今のはわりかしうまいセリフだな」
「そうだろう?」
手うちわのまま、田中は自画自賛した。
「だから、オレの質問に答えてくれよ、土井」
田中はこういう話では粘り強いのをボクは知っていた。
しばらく会っていないけれど、同盟関係のもうひとり、広瀬が田中に攻め込まれていたのを目の当たりにしたからだった。
そのとき広瀬はあっさり折れて、今つきあっているという香苗ちゃんのことを田中とボクに話してくれた。
素直ないいやつなのだ、広瀬は。
その点ボクは、広瀬の分までねじれた性格と言える。
田中に至ってはさらに倍、という感じだった。
「で、なんの質問だっけ?」
レジュメが進まないので、ボクの方から切り出した。
「ようやく答える気になってくれたか」
田中は言った。
「佐野なのか、大川なのか、それとも」
「それとも? どういう意味だ?」
「二股か?」
ボクはプッと吹き出してしまった。
「タナカってさ」
ボクは言った。
「熱心なのは女の話だけだな」
「バカを言うな。アルコールの話とか、ギャンブルの話とか」
「分かった。もういい。黙ってくれ」
「だいたいだな、オレたちは若くて健康な青年なんだぞ」
「『青年』とは恐れ入った。そろそろ死語じゃないか」
それに、今のボクは健康に自信がなかった。
「二度とない若き日のこの時期にだ、女の話をしないでいつすんだよ?」
「してどうすんだよ?」
「今後の人生に役立てんのさ」
「おまえの人生って……」
「生涯の伴侶を探すのもヨシ、遊び相手を探すのもヨシ」
「まさか、恵子ちゃんとは遊びじゃないだろな?」
恵子ちゃんとは、やはりゼミの同僚で、何故か田中の彼女だった。
恵子ちゃんはボクから見ると、おとなしめのなかなかキュートな女の子なのだが、田中のどこに惹かれたのだろうか。
ボクには不思議だった。
── 世界は不思議で満ちている。
この件に関しては、キミの言うとおりだと思った。
「土井」
「なんだよ」
「いくら他に誰もいねえからってだな、そんなことを大声で言わんでくれ」
「おや? 大声だったか?」
「いつ階段を上がって恵子が来てもおかしくなかろうが」
「そうなのか? 約束でもしてるのか」
「鋭いじぇねえか、土井」
実は田中は、14時に恵子ちゃんと2階の第1学習室で待ち合わせをしている、とのことだった。
そうか。
ボクは研究室の掲示板のことを思い出した。
ボクの次に発表するのは、恵子ちゃんだった。
*
恵子ちゃんの方が田中よりレポートの提出が遅かったなんて、余程の事情があってのことなのだろうとボクは思っている。
例えば、田中の分を優先して手伝っていたから、なんてこともありそうだ。
*
ボクは左手首の腕時計を見た。
現在、13時30分をまわったところだ。
「もうあんまり時間がねえぞ」
田中が言った。
「そうだな。これなら余計なことを言わずにすみそうだ」
「オイ、そりゃあねえだろう」
「田中にかかると広瀬の二の舞になりそうだからな」
「広瀬のマイナスになるようなことはしてねえぞ」
「どうだかな?」
ボクは田中に攻め込まれて赤面していた広瀬の顔を思い出した。
「オレはだな」
「田中は、なんだ?」
「土井の二股じゃねえのかと思うわけだよ」
「は? 田中はアホか?」
「失敬なヤツめ。土井の今のひとことはだな、恵子も侮辱したことになるんだぞ」
なるほど。
ボクはしばし考えてみて、田中の言う解釈もできると分かった。
「ごめんよ、恵子ちゃん。こんな男とは早くおさらばした方が」
「しっ」
田中は少し焦ったようだった。
右手の人差し指だけ立てて鼻の頭につけていた。
「オイオイ勘弁してくれ、大声だけは」
「恵子ちゃんなら、約束の時間より早く来てくれそうだよな」
「そのとおりだから、シャレにならんのだ」
「そのとおり、なんだな。やっぱり」
ボクはAさんのようににやにやしてしまった。




