05 10月3日 “Someone To Watch Over Me” (その2)
ゼミでの発表まで約1週間。
レポートは返してもらったし、出来がいいことが分かった。
だから、基本的にはレポートから要点を絞り出して整理すれば、レジュメは大丈夫なはずだ。
整理しているうちに内容も思い出すはずだから、併せて発表の段取りもつけられるだろう。
そう思うと、レポート作成時にものすごく苦労したことが、少しは報われるのだと感じた。
同時に、あらためてタマキへ感謝の気持ちを伝えようと思った。
ところが。
「おや?」
声の主はゼミの同僚、田中だった。
「おや、とはなんだ」
ボクは返した。
「土井がこんなとこにいるなんて、珍しいからだ」
田中先輩、こんにちは。
タマキが挨拶をした。
律儀な後輩だ。
田中は左手に例によって青いバッグを持っていたので、空いている右手を挙げてタマキに返した。
「今日もまた大川と一緒なんだな」
ボクはそんなにタマキと一緒にいるつもりはないのだけど。
「大川も物好きだねえ」
田中がタマキにそう言うと、タマキは少し顔を赤らめたように見えた。
「今日は奥さんはいないのか?」
「誰が奥さんだって?」
「佐野幸美に決まってるだろう」
キミのことまで突っ込まれるとは思いも寄らなかった。
田中にこんなことを言われるなんて、ボクは本当に目立っているのだろうか。
目立っているのはキミの服装ではないのか。
「もしかして、レポートを返してもらいに来たのか?」
「おお。そのとおりだ」
「Aさんなら、さっきどこかへ行っちゃったぞ」
「そうか。じゃあどうすっかな」
「出直すか?」
「イヤ、きっと別の誰かが対応してくれるだろう。ダメなら出直す」
「せっかくここまで来たからか」
「てなこった」
田中はここでひと呼吸入れた。
「じゃあ、せーぜー発表の準備、頑張れよ」
田中はそう言って研究室に入ろうとしていた。
掲示板の件は分かっているはずだから、ボクは田中を止めた。
「ちょっと待て」
「なんだ?」
田中はこちらに向き直った。
「ボクとおまえは何かのときに助け合う同盟関係のはずだよな」
「なんにも聞こえんのだが」
田中はそのひとことだけ残すと、ニヤリとして研究室に入っていった。
ボクは思わず舌打ちをしてしまった。
ふと隣にいるタマキを見ると、驚いた表情をしているのが分かった。
「どうした、タマキ」
「土井先輩が佐野先輩以外のどなたかと普通に話をするの、初めて見ました」
タマキは驚いたというよりも、どうやら感動しているようだった。
「ボクが誰かと話をするだけでそんな表情にならなくてもいいのに」
「『世界は不思議で満ちている』って、本当ですね。先輩」
タマキはキミの決めゼリフを使った。
「タマキまでそんな言葉を使うなんて」
「使用許可はいただいてありますからね」
タマキはボクの後輩と言うより、事実上キミの後輩、あるいは弟子と言った方が現状に近いと思った。
* * *
そう言えばキミは、今日、明日と、印哲の友人のところへ泊まりにいくとのことだった。
── ときどきはきちんと旧交を温めないとね。
旧交はおおげさだろ、とボクは言った。
── あなたよりも長いつきあいだもん。
なるほど。
そういうことなら。
* * *
まあ、慌てても仕方ない。
今日のところはこれで帰ろうとボクは思った。
「えっ? 先輩?」
「なんだい、後輩」
「図書館に寄らないんですか?」
「今日はおとなしく帰って、英気を養うんだ」
タマキはひとつため息をついた。
「そんなことでいいんですか? またよだれを垂らすことになりますよ」
「そのことは早く忘れてくれよ」
*
タマキとボクは帰途についた。
いつもの最寄り駅までの道を、並んで歩いていた。
── 電車で見かけても、先輩にはわざと声をかけないと思います。
そうタマキから聞いていたけれど、それはタマキが「背の高い彼氏」と一緒にいる場合のことだと、ボクは理解していた。
おそらく今日は彼氏と会わない日なのだろう。
「コンパで知り合った背の高い彼氏とはうまくいってんの?」
ボクは歩きながらタマキに訊いた。
タマキはどういうわけか複雑な表情をしていた。
……しまった。
やらかしたのは間違いない。
彼氏は背が高いということを、ボクはタマキから聞いていなかった。
「当然です。先輩とは違って、とてもいい人なんですから」
ボクは苦笑するしかないようだった。
うまくいっているのなら、それでいいはずなのだけれど。
* * *
実は10日くらい前に、ボクはタマキが彼氏といるところを偶然見かけていた。
バイト帰りのボクが乗ろうとした電車に、先客としてふたりがいることに気がついたのだった。
もちろんボクは彼氏と面識はないけれど、彼氏であることはふたりの様子からうかがい知れた。
ふたりはホームと反対側のドアの前に立っており、彼氏は背が高い人なのだとボクは思った。
ボクは電車を1本遅らせることにした。
別の車両に、とも思ったけれど、何かの拍子に出くわす可能性もある。
だったら、次の電車に乗った方がいい。
* * *
「彼氏はボクと違って紳士なんだな」
「あたりまえのことを何度おっしゃられても、そうですね、としか返せないです」
タマキは冷静に答えた。
「地球は青かった、とか、太陽は東から昇る、とか」
「そうですね」
タマキはやはり有言実行する人だと分かった。
「そうですね」のひとことしか返って来なかったから。
*
いつもの最寄り駅につくと、通過待ちをする各駅停車が端のホームに停まっていた。
ほどなく、快速電車がホームに滑り込んできた。
「ではお先に失礼します」
タマキは軽く会釈をしてから、混み始めていた快速に乗り込んだ。
田中のようなボク以外の先輩と接するときはこんなふうにするのだろう。
ボクはそう思った。
タマキのこんな態度はボクには初めてだった。
快速電車が動き出した。
ボクは各駅停車に乗り込み発車を待った。
快速に乗ってもよかったのだけれど、タマキはイヤだったはずだから。




