05 10月3日 “Someone To Watch Over Me” (その1)
のっけから研究室の掲示板にボクの名前があった。
『後期のゼミ発表の順番について』。
ご厄介になっているK教授の名前で。
でも、この掲示そのものをワープロで作っているのは助手のAさんらしい。
── うちの教授は機械に弱い。
ボクはAさんからそう聞いたことがあった。
教授は還暦が近いはずだから、今更自分でワープロを覚える気はないのだろう。
忙しいようだし、助手さんがいるなら任せてしまえばいいのだから。
『後期の発表は、先日提出してもらったレポートの内容に基づいて実施する。発表順は、レポートを提出した順番とする。ただし、逆順で。』
逆順、ということは……。
『10月4日は休講。10月11日、最初の発表者と2番目の発表者である以下の者はすぐに発表できるように準備をしておくこと。なお、レジュメを必ず用意すること。』
さらに。
『レジュメの内容も評価の対象にする。
研究室のコピー機を使用してもよい。
※レポートを返却してほしいものは研究室、助手のAさんへ。』
Aさんはゼミの先輩でもあるのだと、先ほどタマキから聞いたばかりだった。
それで他の助手さんよりもフランクに接してくれるのか。
ボクはそう思いながら、やむを得ず研究室のAさんのところに行った。
「Aさん、こんにちは」
「お。来たね」
Aさんは今回もにやにやしていた。
「はい、レポートをお返しします」
Aさんは丁寧にボクに渡してくれた。
「発表の一番手、頑張ってください」
「そう言われるとプレッシャーなんですけど」
にやにやしたままのAさんをあとにして、ボクは研究室を出た。
自然にため息が漏れた。
「自業自得ですね、先輩」
ボクにとってかわいい後輩であるタマキは言った。
「参ったなあ……ここまでは読み切れなかった」
タマキはくすくす笑っていた。
「レポートに呪いがかけられていたとはなあ」
かけられるのなら呪いよりは魔法の方がはるかにいいとボクは思った。
*
── レポートがたいへんなことになってますよ、先輩。
今回の件について、タマキは留守電に残しておいてくれた。
── 詳細はご自分で確認してくださいね。
今日はボクにしてはありえないくらい迅速に研究室の掲示板を見に来たのだ。
レポートは単位に直結するという教授の言葉を前期の終わりに聞いていたからだった。
そして現在、くすくすと笑うタマキの前に、ボクがいた。
タマキとは正門で行き会った。
帰るところだったのに、ボクが研究室の掲示板を見に行くと言うと、タマキは「保護者」としてついてきてくれたのだ。
*
掲示板の内容を確認したあと、ボクは今回もタマキに助けられたことが分かった。
さすが「保護者」だった。
「今日のタマキは女神に見えるよ」
「それはギャグのつもりですか?」
ちっとも笑えません。
タマキのダメだしだった。
ボクのギャグはキレもコクもないらしかった。
気持ちの余裕が足りないからだな。
ボクは思った。
「やれやれ。なんとかするしかないな」
「そうですよ。なんとかすればいいんです、先輩」
考え方によっては、一番手というのはラッキーなことかもしれない。
レポートの内容を忘れないうちに発表できるのだから。
それに、発表は全員に絶対まわってくることになっているのだから、早く終わりにできれば、あとは高みの見物のようなものだ。
ボクはいつになくポジティヴな思考をすることができた。
「先輩って、実はすごいんですね」
タマキはボクの手元を見ているようだった。
「なんだよ、そのセリフは?」
「“A+(エー・プラス)”ですよ」
「ん?」
ボクは返ってきたレポートの表紙に赤ペンで書かれている文字を見た。
A+。
ボクにもそう読めた。
「嘘だろ」
思わず声に出てしまった。
研究室の扉が開いて、Aさんが出てきた。
こんにちは、とタマキが挨拶をした。
Aさんも、こんにちは、とタマキに返した。
「評価が“A+”の土井くん、何が嘘だって?」
Aさんにボクの驚きのセリフが聞こえたらしい。
うちの教授は比較的優しくて、学生間で人気がある方だけれども、評価は決して甘くしてくれないはず。
Aさんはそう言った。
「ぼくも土井くんのレポートを読ませてもらったけど、とてもよくできてると思った。教授が高く評価してくれたのも分かるよ」
「ホントですか?」
「もちろん」
「“A+”なんて、私はいただいたことないです」
タマキが言った。
「でも大川さんはプラスこそついてないかもしれないけど、いつも“A”をとっているよね」
タマキはAさんにそう言われて少しもじもじしていた。
「ふたりとも研究室では有名人だから、機会があればぼくも提出物を見せてもらっているんだよ」
おっと、こうしてはいられないんだった。
Aさんはそう言い残すと、急いだ様子で階段を下りていった。
「タマキ」
「はい」
「Aさん、今ヘンなこと言わなかった?」
「変、ですか?」
「うん」
「ああ、私が研究室で有名人、てところですか。そうですよね、おかしいです」
「いや、タマキは人気者だと思うからそこじゃなくて」
「どこですか?」
「真面目に、分かんない? フリしてるだけだよな」
「え? 分かんないです。教えてください」
「ボクが研究室で有名人、てとこだよ」
「そのことの、何が変なんですか?」
ちっとも変じゃないですよ。
タマキは真顔でそう言った。
「前にも言ったと思うんですけど、先輩はすごく目立っているんですよ」
「それは聞き捨てならないぞ」
「ゼミの行事に全然いらっしゃらなかったり、掲示板止まりで研究室の中にはほとんど入られないとか」
「存在感を消しているつもりなのに?」
「いつもいらっしゃらないので、たまに来られると逆に目立つんですよ」
タマキにそう言われて、ボクは愕然とした。
「教室の最前列、向かって右隅の席に座ってらっしゃることとか」
「これまでの努力は逆効果だったなんて……」
タマキがくすくす笑っているのが分かった。
「先輩」
「なんだい、後輩」
ボクはしょんぼりと応じた。
「私、学内にいるときは、以前と同じかわいいかわいい後輩ですので、少しくらいならお手伝いしてもいいですよ」
「タマキ、今日は一段と美しく見えるよ。まさしく女神だ」
ボクはショックに打ちひしがれながらも、そうタマキに伝えた。
「心が込もってない言葉は届かないんですよ、先輩」
前にも同じようなセリフを言われた気がする。
「現実を受け入れてくださいね、先輩」
「そう言われてもなあ……」
「先輩は、本気でやればすごいんですから。“A+”ですよ。教授がくださる評価のうち、最高のものです」
きっと研究室でも話題になってますよ。
そうタマキに言われたけれど、居心地の悪さはどうにもならなかった。
「さあ、先輩」
「ん?」
「そんながっかりしたような顔、してちゃダメ。最高の評価をしていただけたんですから」
「あのときタマキが監督してくれたおかげだよ」
「でしたら」
タマキはボクの右手を取った。
「第2学習室でよだれを垂らしてたときに借りていた本を、また借りに行きましょう」
「よだれのことは忘れてほしいんだけど……」
タマキはまたくすくすと笑っていた。
ご機嫌なんだなと思った。
くすくす笑いはその証拠だ。




