04 8月41日、29時 “Night And Day”
*
夜が明ける頃、部屋の窓辺に、キミは貝殻を置いた。
いくつもの棘が生えている、いや、角というべきか。
掌サイズで、ボクから見ると貝らしさがあふれる巻き貝だった。
名前は分からない。
けれど、分からなくていい。
これが世界でたったひとつしかない貝殻であることは明白だ。
今年のボクの誕生日である8月41日にキミが見つけた唯一の貝殻なのだから。
ボクはキミに言った。
「あれがいいな」
「ん? なんのこと?」
ボクは窓辺の貝殻を指さした。
この貝殻を目にするなら、ボクは8月41日を忘れることはない。
「ボクの誕生日プレゼントにしてほしいものが、さ」
キミは驚いていた。
「そういうつもりじゃないのに」
「これは世界でひとつしかない、尊いものだよ。値段がつかないくらいだ」
「お金で買えるものではないって分かるけど、本当にそれでいいの?」
「ダメかな?」
「ダメってことはないけど……」
ちゃんとケーキを買って、ロウソクを立てて、ボクがそれを吹き消して、プレゼントらしい包装をした秘密の何かをキミがボクにくれるような、そういうスタンダードな「ザ・誕生日」がこのあとにあるはずだったらしい。
「私がドタバタしちゃって、あらかじめ用意できてなかったからなあ」
いささか残念そうな表情のキミがいた。
計画は来年に持ち越しということだった。
「あなたにとって今まででいちばん素敵な誕生日に……忘れられない誕生日にしようと思っていたのに」
「もう充分に忘れられない日だよ」
「……ごめんね」
「何が?」
「9月が短くなっちゃって」
「昨日が誕生日だったから、今はもう9月でいいのかな?」
「今日も誕生日の続きがいいな」
8月41日、29時。
そうキミは言った。
明日はいきなり9月12日になるけれど、それもいい。
タイムマシンで「現在」に戻る感覚は、今こうして感じているものに近いのかもしれない。
「キミからそう言われると、不思議な気がするな」
「世界は不思議で満ちているからよ」
「なるほど」
「お互い、口癖を言ってるね」
「口癖だと分かるくらい一緒にいるってことだ」
「そう言われると、けっこう長いつきあいのような気になっちゃうよ」
「まだ長いとは言えない?」
「1年にもなってないもん」
「しかも、キミはひとつきほど留守だったし」
キミはちょっとうつむいてしまった。
「責めてるわけじゃないよ。そんな表情はなしにしてくれよ」
「いじわるなんだから……知ってたけど」
キミは不満そうだった。
「私、まだやり足りないのよね。いろいろ作戦を練ってたのに」
「来年のお楽しみにしといてよ」
「来年までこのムラムラを保留にするのはいや」
「ムラムラ、なのか」
「ムラムラよ」
「じゃあ、背中でも流してもらおうかな」
そろそろシャワーを浴びたい。
ボクは言った。
「この世界でボクの背中についていちばんよく知っているキミに任せれば、さぞきれいになるだろ」
「まあ、それはもちろんだけど」
「まだ不満があるみたいだな」
「だったら背中だけじゃなくてもっとこう」
「背中だけで許してください」
「まだまだ足りない」
「では」
「では?」
「シャワーから出たら、コーヒーを淹れてほしいな」
「あ。そうだった」
キミはベッドを降りて冷蔵庫をのぞいた。
「当初の計画どおりのイヴェントをひとつ実施するわ」
キミはオレンジを両手にひとつずつ持っていた。
「シャワーを浴びたら、あなたはおとなしく座って待っていること」
*
キミはボクより先に出た。
髪をきちんと乾かさないうちに、バスタオルだけ羽織ったままで。
「風邪ひくぞ、髪をちゃんと乾かさないと」
キミはCDラックの前でキョロキョロしながら応えた。
「ねえ、フレッド・アステアの2枚組、どこ? 赤いイラストの」
「ああ、あれか。お待ちくださいませ」
ボクはラックの前にあるいくつかの山のひとつから『The Astaire Story』と題された2枚組を抜き出し、キミに手渡した。
「そうそう、これよ。赤い地に水色のアステアさんのシルエット」
「なかなかカッコいい」
「私が自分で探そうとしなければよかったわね、こんなにすぐあなたに見つかるなら。急に聴きたくなっちゃったから慌ててた」
「片づいてないように見えてもこれはこれで……」
「その話には乗らないわよ」
「ダメか」
キミの前髪から雫が落ちた。
「ひとまず髪を乾かさないとさ」
「これをかけてから、ね」
キミは2枚目をケースから取り出すと、6曲目を選曲した。
アステアによるコメントに続いて、バーニー・ケッセルのしっとりしたギターが流れてくる。
アステアは“ナイト・アンド・デイ(Night and Day)”をヴァースから丁寧に歌い始めた。
“夜も昼も、あなたひとりを……”。
キミの好きな曲のひとつだった。
*
髪を乾かしたあと、キミは言った。
「じゃあ、あなたは座って待っててね」
「了解」
ボクはキミがどうするのか、じっと見ていることにした。
キミはオレンジを切る。
果汁を搾る。
砕いた氷。
グラスに水滴。
ドリップしたばかりのフレンチ・ロースト。
オレンジの果肉。
マーマレード。
ベランダのプランターから摘みたてのミントの葉。
オレンジ・コーヒー。
夏の匂いがするような。
「はい、どうぞ」
キミは満足げにボクにグラスを差し出す。
「氷、溶けないうちに」
オレンジの酸味とコーヒーの苦味。
「うん。うまいよ」
「そうでしょ。上出来なの」
けっこう研究したんだから。
キミは言った。
フレッド・アステアのバックからは名手オスカー・ピーターソンのピアノが聴こえていた。
アステアはヴォーカルだけではなく、ときどきタップ・ダンスでソロを取った。
それもまた素晴らしいジャズだった。
さすがとしか言いようがない「ジ・エンターテイナー」の技だ。
しかもアステアが初演したミュージカルからはたくさんの曲がジャズ・スタンダードになっている。
キミの好きな“ナイト・アンド・デイ”もコール・ポーターによるそうした曲のひとつだ。
全盛期は過ぎて確か還暦に近い頃のレコーディングだけれども、アステアの歌がこうしてステレオ録音で残っているのはラッキーなことに違いない。
窓を抜けて光が少しずつ部屋に差し込んできた。
カーテンを開けると、朝焼けの空が見えた。
オレンジからブルーへのグラデーション。
少しグレイに色づいた雲がゆっくりと動いている。
キミとボクはグラスを持ったまま、しばらくの間並んで空を見ていた。
ボクの部屋から見える街並みは、逆光になって霞むようだった。
「雨が降るかもな」
「おなかすいたね」
キミとボクのセリフは意表を突いた組み合わせになっていたけれど、悪くない。
お互いに顔を見合わせて、微笑んでいた。
キミは飲み干したグラスを軽く振った。
氷がグラスをカラカランと鳴らした。
アステアの歌でガーシュウィン兄弟による“霧深き日(A Foggy Day)”がさっき聴こえていたけど、キミは気がついていただろうか。
* * *
キミもボクも、9月はほぼアルバイトにいそしむうちに過ぎていった。
ということでかまわないと思う。
どうやら秋がやってきたようだった。




