03 8月41日 “Footprints”
サイドシートにキミがいる。
待ち望んでいたことが、ようやく実現した。
けれども、それを手放しで喜ぶには、時間が経ちすぎていたのかもしれない。
嬉しいのは間違いないのに、キミもボクも静かすぎた。
「距離」という言葉がボクの中でちらついていた。
キミとボクとの距離。
タマキとボクとの距離。
キミとタマキとの距離。
手を伸ばせば届く距離だろうか。
キミとボクの間にあるカー・ステレオから、ジョン・コルトレーンのソプラノ・サックスが聞こえだした。
曲は“マイ・フェイヴァリット・シングス(My Favorite Things)”。
ボクが選曲した90分テープに録音してきた1曲だった。
「“私のお気に入り”、か……」
キミは独り言のようにつぶやくと、コルトレーンに合わせてメロディーを少しだけ歌った。
「身体の相性って、あるよね?」
「いきなり、だな」
交差点にかかる。信号は黄色。静かにブレーキを踏みながら、左折レーンに入る。
「私たち、かなりいいよね」
悪いとは思わないけれど、ボクは得意の苦笑いを浮かべていた。
「……そうですね」
「何? 今の間は? それに丁寧語」
信号は赤から緑。
左折して直進。
「星占いだと、恋愛面の相性は最悪だったじゃない? 私、けっこう落ち込んだのよ」
「占いなんて、当てにならないもんだろ」
まだしばらく直進。
「男の人って、わざと無口になるときが」
「照れくさいもんなのさ」
言わせずに返す。
「ずるい」
長く緩やかなカーブ。
「大きなケンカをすることもなく、まだ一緒にいるね」
「そうだな」
「よく会話をしているもんね」
「コミュニケーションがとれているわけだ」
「あなたほど私と話が続けられる人はいないし」
「たわいもないことばかりだけど」
「それがいいのよ。いつも何気なく言葉を交わせることが」
ゆっくりと右折。
「あれからときどきね、すごく不安になる。嫌われたんじゃないか、って。大丈夫って分かってるのに、本当に大丈夫なのかな、って」
「あれから」って、どれからなのだろう。
キミに尋ねようと思ったところで、インターチェンジが見えてきた。
「だからね、確かめたくなるんだ。つまんないことかもしれないけど、そういうときは、ちゃんと答えてほしいの」
高速道路を南へ、海が見える方へ。
「私、あなたを愛してる」
アクセルを踏み込む。
背景が加速してゆく。
「あなたは?」
*
夕焼けの中で、たくさんの人が家路につこうとしていた。
週末で暑い日だからか、想像以上に人出があった。
キミとボクは揺らめきながら水平線に沈んでゆく太陽を、車の中からしばらく見ていた。
ボクの予想どおり渋滞に巻き込まれてしまったけれど、日没にはなんとか間に合ったのだった。
疲労困憊したいなら、渋滞に参加すればいい。
ボクは思った。
精神修養にもいいかもしれない。
「せっかくだから、ね」
キミは言った。
ついさっきまで自分に怒っていたのに、気持ちの切り替えができたらしい。
キミはカメラを忘れてきたのだった。
ドアを開けると、身軽な様子でキミは車を降りた。
キミがドアを閉めたのを確かめて、ボクも車を降りた。
キミは人の流れに逆らうように、まっすぐ海へ向かった。
裸足になると、スニーカーを左手に持って波打ち際を歩き出した。
ボクが追いつくと、キミは言った。
「水着はまたあとで、だね」
セパレートのセクシーなやつなんだよ。
キミはそう言うと、いたずらっぽく笑った。
*
風が心地よくて、黙ったまま足跡を並べた。
(いつまでも、こんなふうに、どこまでも並べてゆければ……)
ボクは思った。
潮の満ち引きに消されるとしても。
*
辺りが静かになってきた。
どこからか、花火の音がした。
ボクは立ち止まってその音の方へ向いた。
星がちらほら見えてきた。
キミはまたボクの先を歩くことになった。
ふと立ち止まると、次の瞬間、おもむろに走り出した。
どのくらい離れただろう。
キミはふり向いてボクを呼んだ。
何か掌に載せている。
「見て、きれいな貝殻」
「よく分かったな」
ささやかな幸せを、うまく見つける人だと思った。
あのときもそうだった。
ボクは早春の鎌倉の海を見ながら、苺を食べたことを思い出した。
ボクに無いものを、キミがたくさん持っていた。
波が足元を少しずつ濡らしだした。
「ね、海に来てよかったでしょ」
「分かったよ、今回はキミの勝ちだ」
「おみやげも手に入ったし」
途中で寄り道をしながら、のんびり帰ることにした。
往きの道はあれだけ混んでいたのに、帰りの道は空いていた。
同じ距離のはずなのにずいぶん短く感じた。
キミは海外公演のエピソードを話してくれた。
ボクがあまり応答できなかったのは、運転にまだ余裕がないことと、夜道であることが原因だと思った。
ボクはタマキが録ってきてくれた46分テープの『ムーン・ビームス』をかけていた。
帰り道を走り出す前にきれいな月が見えたから。
それに、キミもボクも好きなアルバムだから。
沈黙があったとしても、ビル・エヴァンズのピアノが埋めてくれるから。
「なんか、しんみりしちゃったね」
“イン・ラヴ・イン・ヴェイン(In Love In Vain)”が終わろうとするタイミングで、キミは言った。
「運転に余裕がなくてごめん」
「それを言うなら、私が代わってあげられなくて、ごめんね」
「つらくなってきたらパーキングに入って休ませてもらうさ」
シルヴァー・ボディーのカローラワゴンはとても快調だった。
パーキング・エリアに入るのは1回だけですんだ。
少し仮眠を取った。
キミもボクも思いのほか疲れていた。
渋滞のせいだと思った。
高速を降りてから、最寄りのコンビニでも休んだ。
キミは板チョコを買った。
ボクに半分食べさせてくれた。
口づけるとお互いチョコレートの味がしたはずだった。
仕掛け人のキミと、これまでにいろいろ味わってきた気がする。
ボクがやっと夜道になじんできた頃、今も快調なカローラワゴンを借りたレンタカー店の近くまで来ていた。
慣れてくると終わる。
やはりそういうものだった。
*
ボクの部屋に帰ってくると、キミもボクもひとまずベッドに横たわった。
仰向けのまま、キミは大きく「伸び」をした。
ボクはキミの胸に顔を埋めた。
キミの鼓動を聞きたかった。
キミは何も言わずボクの頭を撫でてくれた。
キミがいてくれるからできること、キミだからできること。
ボクはずいぶん癒された。
「交替しようか?」
ボクは言った。
「まだしばらくこのままがいいよ」
キミはボクの代わりに言ってくれた。
「甘えてくれて、とても嬉しいから」
キミはボクに微笑んでくれた。




