13 10月22日~23日 “My Melancholy Baby” (その5)
キミの鼓動が聞こえる気がした。
音楽が聞こえない状態が続くのは、キミとボクには珍しいことだった。
「いいの」
キミは言った。
「今はあなたの声だけ聞いていたい」
気の効いた言葉が浮かんでこない。
カッコ悪い自分が恨めしい。
「なんでもいいから、話してほしい」
「・・・我が国の国民総生産と貿易収支の関連性について」
キミはフフッと笑ってくれた。
キミらしさが戻りつつあるように思えた。
「どうしてこんなときまで、漢字が多い言葉を使うのかな」
「頭に浮かぶんだ」
気の効いた言葉は浮かばないのに。
「あなたらしさなんだって、知ってるよ」
キミの涙がまたこぼれ出す。
「キミはやっぱり泣きすぎだ」
「・・・名前で呼んでくれなかった」
ボクはうっかりキミを名前で呼ぶことを忘れていた。
「今は、許してあげる」
「助かります」
「さっきの・・・いつもと、おんなじ言葉だった」
涙をこぼしながら、微笑むキミ。
「いつものことが、嬉しい」
キミはしばらく目を閉じていた。
「海を見ながら苺を食べたときのこと、思い出してた」
目を開けて、手の甲で涙を拭った後、キミは言った。
「いつものことを、いつもとおんなじって言えるのは、きっと幸せなこと」
「ん?」
「あなたが言ってくれたことを、参考にしているの」
「それって、喜んでいいのかな?」
「是非そうして」
キミは満足そうに見えた。
「どうして、かな」
「何が?」
「あなたの前なら、裸の自分になれる。物理的にも、精神的にも」
「なるほど」
「またぎゅっとしてほしい」
「了解」
「今度は、うしろからがいいな」
キミの指示に従った。
「私の背中と、お尻はどう?」
「は?」
「あなたがいちばんよく知ってるんだよ」
「・・・妙なことを言うなあ」
「だって、鏡に映して見たことはあるけど、いくら自分でも直接は見られないから」
「まあ、そうか」
「あなたの背中とお尻はね」
「言わなくていいです」
フフッといたずらっぽく笑う声が聞こえた。
「頭、撫でてほしいな」
キミはボクの方に向き直った。
だいぶ落ち着いてきたように見えた。
「ただの甘えん坊だな」
「あなたの前でだけなんだから、いいでしょ」
「いいよ」
「いつもと同じ」が、またひとつ。
「あの、ね」
目を伏せたキミの言い方がかわいいと思っていたら、キミは嗚咽を漏らし始めた。
ボクに何かを伝えようとしてくれているのは分かった。
「無理に言わなくていいよ」
「無理じゃない」
「泣きながらだと、話しにくいだろうし」
「泣いてない」
「・・・大あくび?」
「うん」
いつか聞いたことがある会話になっていた。
「洟、かみたい」
ボクはティッシュをとってキミに渡した。
洟をかむと、キミはひと息ついた。
深呼吸して、落ち着こうと思ったらしかった。
「先輩が」
キミは言った。
「先輩?」
「元婚約者の」
「なるほど」
「セン、パイが・・・」
キミの目から再び涙がこぼれ落ちていた。
「結婚・・・したんだって」
そういうことだったのか。
ボクは思った。
印哲の仲間が、キミに教えてくれたのだ。
キミは顔を伏せた。
嗚咽が止まらない。
それでも、キミはまだボクに伝えたいことがあるようだった。
しゃくり上げながら、かすれる声で、ひとことずつ・・・。
ボクはキミの言葉をつないだ。
勤め先の女の人と。
そう言ったのが分かった。
「よかったな」
ボクがそう言うと、キミは泣きながら何度もうなずいた。
「うん・・・・・・うん・・・」
ボクはキミをそっと抱き寄せた。
そして、キミの心中を思った。
キミはひとことも口に出さなかったけど、婚約を解消してからも、どうにも処理しきれない重くて大きな荷物が残っていたのだ。たぶん、巨大な足枷のように。
キミはその重さに耐えながら、いつも頑張っていたのだ。
ボクはそこまでキミをフォローできていなかった。
申し訳ない気持ちになっていた。
「突然のお願いをきいてくれて、ありがとう」
「お礼なんて、いいよ」
「すぐに飛んできてくれた」
「キミだって、ボクが入院してたとき、何度も飛んできてくれた。もっともっと、ずっと遠い距離を」
顔を上げると、キミは少しだけ微笑んだ。
「あなたがいないと私はダメなんだって、よく分かった」
ボクはくすぐったい気がした。
「距離を置いて、見つめ直してみようと思ってたのに」
「それで近頃は・・・」
「もう、できなくなっちゃった」
キミの涙が一筋こぼれて、落ちた。
それが最後のようだった。
「タマキちゃんに、嘘ついちゃったかな」
タマキのことを意識しているのは、ボクよりもキミの方なんだと思った。
* * * *
あなたはとても優しく微笑んでくれた。
こんなにひどく泣いてしまったなんて、自分では思いも寄らないことだった。
なのに、どうして私が泣いたのか、あなたは分かってくれている。
そう感じることができた。
私は、安らかな気持ちになっていた。
「・・・眠くなってきた」
「なるほど。自然の摂理だな」
「眠っても、いい?」
「それはもちろん」
「ここにいてね」
「了解」
「離れたら、イヤだよ」
「それはちょっと」
「ダメなの?」
「トイレのときは、勘弁してくれ」
「・・・せっかくいい雰囲気だったのに、いじわるなんだから」
「知ってただろ」
「知ってた」
「ボクについての専門家だもんな」
「うん。そのつもり」
「いつまで?」
「いつまでも」
「それはご苦労さま」
「誉めて」
「すごいなあ」
「心が込もってない。そんな言い方じゃ、お客さんに伝わらない・・・」
「今は目の前にいるひとりに伝われば、それでいいよ」
ずるい。
そう言えたかどうか、私にはもう分からなかった。
うすれてゆく意識のうちに、ひとつだけ、覚えていること。
あなたの、温もり。




