01 9月4日 “It Had To Be You” (その3)
「ところで」
ボクは思い出して、キミに言った。
「キミは“イット・ハッド・トゥ・ビー・ユー(It Had To Be You)”、知ってるよね?」
「ん? ああ、曲の名前よね」
「うん」
「そうだ。ほら、あの、メグ・ライアンが出てた映画……なんだっけ?」
「第1ヒントだけだと厳しいな」
「コメディーで、ニューヨークで、ええっと」
「第3ヒントでも難しいよ」
「ハリー・コニック・ジュニアが歌ってた」
「お」
「どう、第4ヒントで映画の名前、出てくる?」
「『恋人たちの予感』、だっけ」
「そう、そうよ。それ」
確か、原題と邦題がだいぶ違うと思った記憶が。
オリジナルのタイトルは「ハリーがサリーに会ったとき」、だったろうか。
「ああ、すっきりできてよかった。危ないとこだったわ」
キミは言った。
「“イット・ハッド・トゥ・ビー・ユー”は主題歌だったよね。確か、サントラ盤買ったよ」
「あれ?」
「何よ」
「……なんでもないです」
「あなたがそう言うときは、いつもうしろめたいと思っているときなのよねえ」
もうすっかり読まれていた。
「私と一緒に見に行ったこと、忘れてたでしょ」
「すみません」
ボクはちょこんと頭を下げた。
「ボクにはダイナ・ショアのヴォーカルの印象が強くてさ、アンドレ・プレヴィンのピアノと。ハリー・コニックもよかったけどね。だから買ったんだし」
「そうよ、サントラ買うって決めたのはあなた。映画館で買うのはこらえて、帰りにタワーに寄ったじゃない」
「ハイ、全部思い出しました。サントラというか、ジャズのレコードとして、よくできていると思いました」
「素敵な映画だったから、また見てもいいな」
「だったら、キミの部屋に行かなくちゃ、だな」
「うん。あなたの部屋では再生できないもんね」
ボクの部屋にはヴィデオ・デッキがなかった。
「ねえ、なんで“イット・ハッド・トゥ・ビー・ユー”なの?」
「キミのテーマ曲にどうかな、って」
「テーマ曲?」
「ボクが選んだんだ。キミがリングに上がるときに流すとか」
「リングって、どういう意味かしら」
「軽いジョークです」
「そ。あ、確か『もし、あなただったら』っていう邦題がついてなかったっけ?」
「サントラはそうだったかも」
「探して確認すればいいんじゃない。そこの膨大な山の中にあるんでしょ」
キミはいくつもある重なったCDの山を指さした。
「あると思うけど、今は勘弁してください」
「んー? なんでかなあ?」
「エネルギーが足りません。キミにあげてしまったので」
「じゃあ仕方ないか」
「キミはつやつやして見えるよ、こういうとき、いつも」
「そうかもね。ありがと、貴重なエネルギーをくれて。ストレス解消よ。大満足」
「それはよかった。頑張ったかいがあるってもんだ」
「なんか、お疲れね」
「漢字で書いてみれば、理由がよく分かるよ」
「私、あなたに会うまでは、こんなの大嫌いって思ってた。つらいばかりで。それなのに、なんであなたは……物理的なことは、ほとんど同じだと思うのに」
「物理的なものではないなら、あとは精神的なものだろ」
「うん。あなたが上手だろうが下手だろうが、私はあなたとならすごく嬉しいんだ、って。あなたを本気で好きなんだ、って実感できる」
「身も蓋もない言い方だ」
「あなたと約束したとおり、全部片をつけたとき、まず思ったことは『あなたに会いたい』だった。それは自分でも納得。でもそれと同時に『あなたに抱かれたい』だった」
「生々しいヤツだな」
「あんなにイヤでイヤでどうにもならないことだったのに」
「まあ確かに、キミはものすごい状態だったし」
「そこは省略よ」
「では……精神的な結論として、心でつながる、ですか」
「うん、そう思った。身体じゃない、心がまずないとダメなんだって。私、すごく不思議で、切なくて、けど、何よりも愛しく感じて。言葉がいらなくなるときがあるんだなあって」
「さっきからキミは熱く語っているなあ」
「昔の私みたいに知らない人がいたら、教えてあげたいくらいだもん」
「まるで神秘体験だ」
「そうよ。神々しいと思うな。そこから新しい命が生まれてくるかもしれないのよ」
「……あの、そろそろ話を戻したいんですけど」
ボクはこれ以上語られても困ってしまうと思った。
「ん? なんの話だった?」
「キミのテーマ曲の話。“イット・ハッド・トゥ・ビー・ユー”」
「ああ、そうだったわね。で、もう一度訊くけど、なんで私に“イット・ハッド・トゥ・ビー・ユー”なの?」
「この曲は、ボクがひとことで言うと」
「言うと?」
「“キミじゃないとダメなんだ”っていう曲さ」
「おや?」
キミは眉を上げて両目をぱちくりした。
そしてゆっくりとボクへ顔を寄せてから、言った。
「そっか。つまり、あなたは私に首ったけってことね」
「首ったけ……そうですね」
「照れると丁寧語になるのよね」
「そうですか?」
「そうですよ。私、あなたのことなら世界でいちばんよく知ってるんだもん」
「マニアですね」
「マニアと言うよりは、専門家の方が近いと思うな」
「専門家、オーソリティー、か」
「あなたのことなら私に任せて」
「既にお任せしております」
「でも、嬉しいな。『キミじゃないとダメなんだ』、だって。あなたがそんなこと言うなんて」
「ボクは曲を選んだだけで、直接言ったわけじゃないよ」
「なら、間接的には言ったわけだよね」
「……そうですね」
ボクは認めるしかなかった。照れくさくってむずむずする。
「心でつながってる気がするよ。ありがと」
キミはとても嬉しそうに微笑んだ。
気を取り直して、ボクは言った。
「ダイナ・ショアのヴォーカルでよければ、すぐに見つかると思うよ」
「では、リクエストします」
「了解。プレイします」
ボクはダイナ・ショアとアンドレ・プレヴィンが共演した“イット・ハッド・トゥ・ビー・ユー”を、キミのためにかけた。
アルバムの名前は『Dinah Sings, Previn Plays』、1960年の録音だ。
キミにCDのブックレットを渡すと、間もなくプレヴィンの心地よいピアノが流れ始めた。
(本当に素晴らしい音楽家だよな)
ダイナがこの曲のヴァース(verse)を歌う前に、ボクはそう思った。
レナード・バーンスタインとジョージ・ガーシュウィンの名前が、プレヴィンに釣られて頭に浮かんだ。




