10 10月11日 “Who Can I Turn To” (その1)
「・・・以上で発表を終わります。ご静聴いただき、ありがとうございました」
拍手がぱらぱらと聞こえる中、ボクは軽くお辞儀をした。
20人程度でいっぱいになる小教室の後方、出入口のそばでパイプ椅子に座ったAさんも拍手してくれていた。
タマキはにこにこしながら拍手をくれた。
ボクの発表がうまくいったのはタマキの尽力があったからこそなのに、タマキ自身はそうとは気付いてないようだった。
広瀬は普段と変わらない様子だった。
田中は右手の拳骨の親指を立てて見せた。
その隣の恵子ちゃんは、控えめな拍手をくれた。
何しろ、ボクの次に発表をするのだから、そろそろ緊張していたのかもしれない。
持ち時間としては、発表が30分、質疑応答が15分という目安だった。
けれど、ボクに対する質問は出なかった。
代わりに、ということでもないと思うけど、K教授がコメントを出してくれた。
「土井くんの発表は、要点をうまくまとめた見事なものでした。レジュメだけではなく、ホワイト・ボードを使ったのも分かりやすかったですね。私から付け足すことは特にありません。大事なことは全部説明されていましたね」
ボクは無事に試練を乗り越えたようだった。
田中のうしろに陣取った席に戻ると、ボクはふうっとひとつ息を吐いた。
安心したせいか、急に眠気が襲ってきた。
「では次の発表、小野さん、お願いします」
教授の言葉に続くように、恵子ちゃんは「はい」と返事をすると、前へ出て行った。
田中は小声でボクに言った。
「教授があんなに誉めてくれるなんて、すごいな、土井」
「きっと今日の乙女座は運勢が第1位なんだろうさ」
「だったら、恵子の発表も成功するな」
恵子ちゃんも乙女座だったとは知らなかった。
レジュメが全員に回ったのを確認すると、恵子ちゃんの発表が始まった。
恵子ちゃんには申し訳ないけれど、ボクはきちんと聞いていられる自信がなかった。
狭い小教室で、前にいる教授からも、うしろにいるAさんからもまる見えだというのに、ボクは泥の舟に乗って舟唄を奏でるかのごとく、轟沈しそうになっていた。
でも、ボクの右に席を取っていたタマキがときどき突っついてくれたおかげで、轟沈だけは免れたのだった。
恵子ちゃんの発表もつつがなく終わり、教授は本日の総評を話してくれた。
今日はたいへん有意義な時間になった。
来週以降の発表も、今日のふたりに負けないように頑張ってください。
そういう要旨だった。
タマキに続いて小教室を出ると、Aさんに声をかけられた。
「土井くん、このあと時間ある?」
「ええ、大丈夫ですけど」
「じゃあ、ぼくと一緒に研究室へ」
Aさんは研究室へ向けて歩き出した。
「きっと教授からの呼び出しですよ」
タマキは言った。
「そうなのかな?」
「先輩がなかなか捕まらないので、待ちかまえていたんだと思います」
「どうしてそう思うんだ?」
「教授は、ゼミ生ひとりひとりと話をしたいからって、おっしゃってました」
「・・・ということは、タマキも面談を」
「はい。前期のうちに」
「そうだったとは」
「たぶん、先輩が最後ですよ。あとひとりがなかなか捕まらないって、前期の終わりに聞きましたから」
「ということは」
「ええ。先輩以外の人は、みんな終了しているんです」
行ってらっしゃい、先輩。
タマキはそう言い残すと、階段を下りていこうとした。
「そうだタマキ、ちょっと待って」
ボクはタマキを呼び止めた。
「これ、持っていって。遅くなっちゃったけど」
ボクはエラ・フィッツジェラルドがエリス・ラーキンスのピアノだけをバックに歌ったアルバム、『ソングス・イン・ナ・メロー・ムード(Songs in a mellow mood)』のCDをタマキに渡した。
「これが、そうなんですか」
「うん。“アイム・グラッド・ゼア・イズ・ユー(I'm Glad There Is You)”が1曲目に入ってる」
他の曲も素晴らしいよ。
ボクは付け加えた。
「それからこれ。“コートにすみれを(Violets For Your Furs)”が入ってるアルバム、と言っても男性視点から女性視点に変えているけどね。ともあれ、ビリー・ホリデイ晩年の超傑作、『レディ・イン・サテン(Lady In Satin)』。きっと、涙なしでは聴けないぞ」
「いつもありがとうございます、先輩」
タマキはくすっと笑ってくれた。
「Aさんが、お待ちかねですよ」
「おっと、やばい」
ボクはタマキに軽く手を挙げると、Aさんのあとを追った。
「K教授、土井くんが来てくれました」
Aさんは壁に立てかけてあったパイプ椅子を持ち出して、教授の机の正面に置いた。
「まあ、かけてください」
教授はボクに座るよう促した。ボクは遠慮なく腰を下ろした。Aさんは自分の席に戻っていった。
「土井くんは」
「はい」
「学校の外にとても楽しいことがあるのかな」
思いがけない教授の言葉に、ボクは驚いてしまった。
「土井くんの出席状況は、うまい具合にぎりぎり過半数を超えている。過半数を超えていれば、評価の対象だ。単位を落とすことはまずない。時間の使い方は人それぞれだし、単位を取るのが目的なら、とても理にかなっている」
教授は緑茶を飲んでいた。
「土井くんも飲むかい?」
ボクは遠慮した。
「普段はなかなか土井くんの顔を見ることができないのだが、事あるごとにはしっかり出席している」
それは100%タマキのフォローのおかげだとボクは思った。
「レポートやさっきの発表など、いざというところできちんと結果を出してくる」
それもタマキの尽力あればこそだ。
「実は土井くんに出した課題は、Aくんが学生のときにやった課題でもあるんだが」
それを知っていればよだれを垂らすことはなかったのに・・・。
「もしかしたらAくんがなんらかのアドヴァイスを土井くんにしたのかと思いきや、Aくんはそのようなことはしていないと言う。今の土井くんの表情を見ても、どこか悔しそうだから、Aくんのサポートはなかったのだと分かる」
教授はにこっとしたあと、湯飲みを口に運んだ。
「土井くんは私から見ると、とても面白い人だね」
教授はキミのような表現を使った。
「3年生なら、この時期、そろそろ就職のことも視野に入れていることと思うのだが」
ボクの視野にはまったく入っていなかった。
「土井くんは将来のことについて何か決めてあるの?」
「いいえ。まだ具体的にこれといったものはないです」
漠然としたイメージすら、今のボクにはなかった。
「そうですか。では、もしやりたいことが見つからないようなら、しばらく研究室に残ってみるのも、いいかもしれませんね」
またしても思いがけない教授の言葉に、ボクは面食らってしまった。
「そんなに驚かなくてもよさそうなものだが」
教授はまたにこっとした後、湯飲みを口に運んだ。
「時間をとってくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「次からは、もっと気楽に研究室にいらっしゃい」
「できるなら、そうしたいと思います」
ボクは教授に一礼すると、研究室を出た。
Aさんはやはりにやにやしていた。




