07 10月7日 “Like Someone In Love”
必修科目の講義後、ボクはタマキを研究棟のラウンジに誘った。
まともなアイス・コーヒーが飲みたかったのと、タマキに自己紹介の件を訊いてみようと思っていたからだ。
ラウンジのアイス・コーヒーの豆はホットと同じ「ラウンジ・ブレンド」を使用しているものの、アイス用はより深煎りにしており、「ラウンジ・ブレンド(アイス用)」と謳われていた。
ボクはここのアイス・コーヒーをブラックで飲むのが好きになっていた。
今月いっぱいはまだ楽しめる。
「……そのときのフィーリングで」
タマキは珍しく曖昧な言い方をした。
「フィーリング?」
「私、実は、自分の苗字が好きじゃないんです。なので、親しい人には『タマキ』と呼んでもらいたいなと、そう思っているんです」
「ん? 今の話、どこかおかしくないか?」
「どこがです?」
「親しい人には『タマキ』と呼んでもらいたい、というところが」
「私、土井先輩にも彼女さん……佐野先輩にも『タマキ』と呼んでいただいてます」
「タマキと初めて会ったとき、ボクに『タマキです』って自己紹介してくれたよな」
「はい……そう、でしたね」
「まだ親しくもなんともなかったのに」
「でも、土井先輩はすぐに私と仲よくしてくださいました」
「ああ、確かに」
ボクにしては珍しいことだったから、よく覚えている。
「ゼミの先輩方ひとりひとりにご挨拶させていただきましたけど」
「うん」
「挨拶の前にきちんと目を合わせてくださったのは、土井先輩だけでした」
「そうなの?」
「はい。それで、きっと仲よくしていただけるに違いないと、勝手に思ったんです」
「だから苗字ではなく、ファースト・ネームで挨拶してくれたのか」
「はい。勘が冴えていたんだと思います」
「なるほど」
「あと、内容はともかく、すぐに私とちゃんとした会話をしてくださったのも、土井先輩だけでした」
「そうだったのか……内容はともかく、ね」
ボクはタマキに対して失言していたことを思い出した。
もしかして、ボクは今日もなんらかの失言をしてしまったのだろうか。
タマキとの会話がいつもより硬く、重い。
そんな気がしていた。
「佐野先輩は、去年の『西洋音楽史』のとき……」
「うん」
「土井先輩に貸していただいた5枚のジャズのCDがきっかけで、佐野先輩の方から私に声をかけてくださったんです」
「それは知らなかった」
「すぐ気さくに話をしてくださって、初対面でしたけど、私は佐野先輩と仲よくなりたいって思ったんです。それで、そのときも私は」
「『タマキ』と名乗ったわけか」
「はい。そのとおりです」
「まだ前期が始まってからそんなに経ってない頃だったよな?」
「そうですね、5月に……土井先輩が5枚のCDを貸してくださったその日のうちです」
「ということは、ボクがあいつと知り合うより前に、タマキはあいつと知り合っていたのか」
「そうなりますね」
「不思議なもんだな」
ボクはまたキミの決めゼリフを連想していた。
「世界は不思議なことで満ちている」のだ。
何しろ、また新しい不思議にボクは気がついたから。
タマキが何故自分の苗字を好きではないのか。
ボクは気になっていた。
けれど、きっとやんごとない事情があるに違いないと思えたので、ボクは敢えて訊かないことにした。
「土井先輩は」
「ん、何?」
「……いえ。なんでもありません」
タマキは言いかけたことを引っ込めた。
どうもいつもと感じが違う。
「まだしばらくラウンジで過ごすんですか?」
「いや。飲み終わったし、帰ろうかと思ってるよ」
「そう、ですか」
タマキはうつむいて、何事か考えているようだった。
「では、出ましょうか?」
「そうだな」
タマキとボクは正門に向かって歩き出した。
「もしかしてタマキ、体調が悪いのか?」
ボクは率直にタマキに訊いた。
体調不良だとしたら、会話が硬くて重くなっても仕方ない。
「いえ……そんなこと、ないです」
「そうか。だったらいいんだけど」
「心配してくださって、ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことじゃないよ」
話をしているうちに正門まで来ていた。
「ではここで」
「ここで?」
「……私、これからデートなんです」
「ああ、そういうことか」
「ですので、先輩とはここで」
「帰るわけじゃなくて、上りの電車に乗るわけだな」
「はい」
「金曜日だしな」
タマキからの返答はなかった。
正門を出たら、タマキは右へ、ボクは左へと行くことになる。
「では失礼します」
タマキは今日も軽く会釈をしてくれた。
ボクはしばらくタマキを見送った。
ボクの目には、タマキがうつむきがちに遠ざかってゆくように見えた。
デートにしては、元気がない。
そう思った。
*
22時に近い頃、電話が鳴り出した。
コール3回で留守電が動いた。
── おーい。
キミの声が聞こえた。
ボクは受話器を取った。
今回は外からかけていると分かった。
「はーい」
── たまには留守電になる前に出てくれてもいいのよ。
「いやだ」
── 文字数が少ない。
「個性を重視してるんだ」
キミは学校のあとは劇団の方へ行くと言っていた。
稽古ではなく、しばらくは海外公演の後片付けだと聞いた。
── まだ稽古場の近所なの。
「お疲れさま」
── 部屋に帰ると真夜中になりそうだから、先に電話した。
「夜道で人を襲わないでくれよ」
キミは約5秒ほど無言になった。
こういうときはボクのボケをスルーしているつもりらしい。
── タマキちゃんとラウンジにいたでしょ。
「見てたのか?」
── ずっと見てたんじゃないよ。午後の2コマ目の教室に移動してるとき、見えたの。
「なるほど」
── どんな話してたの?
「気になりますか」
── なんとなく。
「なんとなく、ね」
── だって。
「だって、なんでしょうか?」
── 仲間はずれみたいに、思っちゃったから。
「そんなわけないだろ」
── ちらっと見ただけなんだけど。
「ん?」
── タマキちゃん、元気だった?
「元気……だったかな」
── 一緒にいたのに。分からなかったの?
「んー、まあ会話が硬くて重くなってたかな」
── そうなの?
「ああ。そう感じた」
── 一緒の電車で帰ってきたんじゃないの?
「タマキはデートだって言ってたから、正門の前で解散した」
── デート……か。
「その割には元気がなかったと思う」
── 大丈夫かな、タマキちゃん。
ガタッという音がして、ピーという電子音が何度か聞こえた。
── あ。カード終わっちゃった。
「それは残念」
── 明日の夜、そっちに行っていい?
「もちろんだよ」
── じゃあまたそのときにね。
電話が切れた。
ぎりぎりセーフという感じだった。




