01 9月4日 “It Had To Be You” (その1)
「ごめんね、もっといろいろ買ってこられたらよかったんだけど」
「いいさ。充分嬉しいよ。キミはおみやげを買うために行ってきたんじゃないし」
「言い訳をしておくとね、全般的に予想以上の忙しさだった。ただ演目をやればいいってことはなくて、場合によっては会場の設営とか、照明のお手伝いとか、スタッフ的なこともやったわ」
「そうだったんだ」
「そう。人手が足りないというのもあったみたいだし。いつも設備の整ったホールで、ということはないし。でも劇団の先輩方にやっていただくのはよくないと思ったし」
「うん」
「屋外でやることもあったしね。それに、ホールといっても、日本のホールとはやっぱり違うから。そのときどきの会場にあわせて演出を変えてみることもあって、そういうときはある程度、稽古をやり直す必要があったし」
「なるほど。内側にいなければ分からない貴重な体験だったな」
「そうなの。いつものことだけど、ただ自分の役をこなせばそれでいい、ということはないのよ」
「深い言葉だ」
「でしょ」
海外公演での経験は、キミにとって大きな財産になったようだった。
キミは楽しそうに言葉を続けた。
「それとね、ほとんどは各会場で1公演ずつだったんだけど、ときには2公演、3公演ということもあったの。それで、割と毎日くたくたになっちゃって。ホテルに入ってもぐっすりと眠れなかったり、移動があったり、うまく休息がとれなかった。だから、比較的自由な時間がとれても、なんだか横になってることが多かった」
「ずいぶん頑張ってきたんだな」
「とか言って、せっかく行ったから地元ならではの服は見逃さなかったわ」
「……それを言っちゃダメだろ」
「へへっ」
キミはぺろっと舌を出した。
「それでも、ようやくそんなペースに慣れてきた頃、もう最後の公演地である台湾まで来てたのよね」
「まあそういうもんだよな。たいてい、慣れてくると終わりなんだ」
「で、結局おみやげは台湾で買ったんだけど、もしかして日本でも手に入るものばかりかもしれないわ」
キミはおみやげを広げて見せてくれた。
マンゴー・ビール、天然ハーブ石けん、金魚型ティー・バッグ、カヴァラン(ウイスキー)、はちみつ、歯磨き粉、その他。
「あなたと、タマキちゃんにしかあげないけどね」
「あれ? 親御さんには?」
「直接送っちゃった。お茶の葉。ウーロンとか、ジャスミンとか、いくつか詰めて」
「へえ、それなら喜んでもらえそうだ」
「うん。おかあさんからのリクエストだし」
キミはにこにこしながら言った。
「それでね、タマキちゃんにはこの石けんと、ティー・バッグがいいなって思ってるんだ」
「うん、いいと思うな。……金魚型ティー・バッグって、けっこう強烈な気もするけど」
かわいい、と言うよりは、「こわいい」。
「で、自分用にビールとウイスキーってわけですな」
「あ、ひどい。これとこれはあなたにと思って買ったのよ」
「ほう、それはどうもありがとうございます」
ボクはキミの次のセリフを想像してニヤニヤしていた。
「で、私はあなたからもらうの」
「やっぱり、な」
フフッと、キミもニヤリ。
「でも、あなたには特別に、現地で人気のこの歯磨き粉があるのよ」
「ん? 『黒人』て名前なのか、これ」
「外箱に描かれている黒人らしき人の顔が、あなたっぽいよね」
「あ、そ」
ボクは、シルク・ハットをかぶってニマっとしているその絵を見て、ちょっとデューク・エリントンに似てると思った。
せっかくなので、『極東組曲(Far East Suite)』のCDを出して、“エスファハーン(Isfahan)”でも聞こうかと思った。
けれども……。
見つからなかった。
きっと奥に積んである山の中にあるのだろう。
おみやげを整理しているキミはボクの様子に気づくと、手を止めてこちらに来た。
「んー? 探しているものが見つからないって顔ね」
「どんな顔だよ」
「鏡を見れば分かるわよ」
「……分からなくていいや」
今はこれ以上探索したくなかった。
この前90分テープに録音していった曲が収録されているCDが手の届くところに置いたままだった。
いちばん手前の山だ。
タマキとドライヴしたときの90分テープはタマキに引き取ってもらったので、ボクは同じ選曲でもう1本録音していた。
もちろん、キミとのドライブを想定してのことだった。
ボクは『極東組曲』のかわりに、いちばん手前の山に積まれたままの『ザ・ポピュラー』をかけることにした。
1曲目はもちろん、ボクの好きな“A列車で行こう(Take The "A" Train)”だ。
「あ、これって、3拍子で始まって4拍子になる演奏だっけ?」
「キミはどこでそういう情報を仕入れているんだ?」
「これはだいぶ前に地元の図書館で借りたかな」
「なるほど」
「今はあなたがいるから、もう図書館に行かなくてもいいよね」
エリントンがワルツ・タイムでピアノを弾き始めた。
「図書館の所蔵量には負けてると思うけどな」
「そうでもないと思うよ。私の地元のローカル図書館には勝ってると思うし。それに、あなたには知識があるから、私が探す必要ないし」
「まあ、ボクが役に立つとしたらそれくらいか」
「私、あなたが作ってるCDの山脈には手を出さないから、自分で片付けてね」
自分で片付けないと、どこにあるか忘れちゃうもんね。
キミは言った。
自分で片付けたところで、何がどこにあるかもはや覚えきれないということは内緒にした。
ワルツ・タイムをブレイクして、エリントンのピアノに続き、やる気満々のホーン・セクションが唸った。
“ハーレムにあるシュガー・ヒルに行くなら、A列車に乗りな”。
「あ、そうそう、地元と言えば、私、実家からレコード持ってきたから、今度一緒に聴こうね」
「あれ? いつ行ったのさ」
「タマキちゃんとあなたがドライヴに行った日。急に時間ができたから」
聖子ちゃんのドーナツ盤から聞こうかな……。
キミがそうシングル盤のことをつぶやくように言ってる間、ボクはドライヴのときにタマキに泣かれたことを思い出していた。
── 私、先輩のすぐそばにいるのに、なんの役にも立ちません。
タマキはだいぶ思い詰めてたんだな。
だから8月はあんなに大胆にするしかなかったんだろう。
ボクは思った。
── 私、先輩に魔法をかけちゃいますよ。
タマキの華奢な身体まで思い出してしまった……。
「タマキちゃんのこと、考えてる?」
キミはいつの間にかボクの顔をのぞき込んでいた。
なんでボクの考えていることが分かるのか。
── あなたのことなら、世界でいちばんよく知ってるわ。
ボクはキミのこの言葉を、これまでに何度も聞いていた。
「ぼうっとしてて気づかなかった」
「私がすぐ目の前にいるのに、タマキちゃんのことで夢中なわけね」
キミはいたずらっぽく言った。
「やっぱり……ちょっと妬けちゃうかな」
キミはそう言うと、ボクに全身を預けてきた。
「私が今、何を考えているか分かる?」
「キミのことなら何処の誰よりも詳しいはずだからね」
キミはボクから身体を離した。
もう一度のぞき込むようにボクを見た。
「じゃあ、言ってみて」
ボクはキミを抱き寄せて口づけた。
「ずるい……」
キミの瞳が潤んでいるのが分かった。
*
ボクはディスクを替えずに、そのままエリントンを再生すると、ベッドに戻った。
A列車が再び動きだした。
キミはボクの左にいた。
ベッドに寝そべって部屋の天井を見ながら、キミは何げなく言った。
「私が留守の間、タマキちゃんと会ってたの?」
ボクはドキッとした。
よく考えれば、別にドキッとする必要なんてないのに。
会ってないというのはヘンなので、ボクは答えた。
「会ってた日もあるよ」
「タマキちゃんに、告白された?」
「えっ?」
急にそう言われて、ボクは驚いた。
まるでキミに見透かされているのではないかと思った。
キミは体ごとボクの方を向いた。
「だって、私がもしタマキちゃんなら、こんな好機は逃がしたくないと思うもん」
「……」
「邪魔が入ることは、万にひとつもないのよ」
「そうとも考えられる、と」
「はぐらかさないでよ」
キミは叱責するような口調ではなく、ごく普通の口調で言った。
却ってすごみを感じた気がする。
ボクは正直に答えた。
「告白、されたよ」
キミは首を傾げながら、次にこう訊いた。
「ねた?」
ボクは言葉に詰まった。
何もないのなら、ここで言いよどむのはおかしいと思った。
それとも、あまりに妙な質問に驚いたと言うべきか。
「もう答えなくていいよ。分かったから」
ボクは一瞬閉口した。
でも、すぐに答えた。
嘘はつけなかった。
「……ねたよ。キミの読みどおり」
「そう」
キミはあっさりと納得している様子を見せた。
「そうだよね。私がタマキちゃんなら、この好機を逃がしたくないもん」
さっきと同じようなことを言った。
「あなたも素直だよね。丸分かりだわ」
「そうかな」
「あなたは基本的に正直者で、嘘や隠しごとは致命的にヘタクソ。だから、私に嘘をつかなかったこと、隠さないでいてくれたことは、嬉しい」
キミはなんだかしょんぼりしているに見えた。
「とぼけられちゃったら、どうしていいか分からなくなるところだった」
キミは仰向けに戻って、天井を見つめているようだった。
両手を胸の上で組んでいた。
「私、タマキちゃんを試しちゃったのかなぁ。それに、あなたのことも」
キミはそう言うと、しばらく目蓋を閉じた。
目蓋を開けると、またボクに向き直った。
そしてボクの左手を捜して、両手でそっと握った。
「あなたは、ときどきひどくさみしがりやさんだもんね」
「そう見えるかな?」
「実際、さみしかったでしょ」
「まあ、それなりに」
「結果的に私は、あなたといることよりも公演に出ることを選んだわけだし」
「そうとも考えられる、と」
「あなたには海外に行くこと、ぎりぎりまで言わなかったし……」
「言わなかった、じゃなくて、言えなかったんだと思ってるよ」
キミはベッドから降りた。
「しゃべりすぎて、のど渇いちゃった」
そう言って、冷やしておいたミネラル・ウォーターをキミは冷蔵庫から出した。
キミがよく使っているグラスいっぱいに注いだ。
半分くらいをひと息で飲み干すと、ボクにグラスを渡した。
「あなたも飲んだ方がいいよ。汗、けっこうかいてたみたいだし」
ボクは指示に従った。
キミはエアコンが嫌いだったから、ボクがひとりでいるときにつけているよりも設定温度は高めに、風量は弱めにしていた。
「あなたのことだから、自分からタマキちゃんに手を出すことはありえないと思ってた。でも、タマキちゃんに本気で迫られたら、あなたは拒めないとも思ってた」
キミは自分に言い聞かせるように、そう言った。
「いつか、大泣きしている私があなたの肩に顔を埋めたとき、あなたが拒否できなかったように」
ボクはあの踏切のそばの路地で、キミを拒めなかったことを思い出した。




