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『宮沢賢治と坂口安吾』

宮沢賢治『眼にて言う』

====


だめでしょう

とまりませんな

がぶがぶ湧いているからですな

ゆうべからねむらず

血も出つづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にそうです

けれどもなんといい風でしょう

もう清明が近いので

もみじの嫩芽と毛のような花に

秋草のような波を立て

あんなに青空から

もりあがって湧くように

きれいな風がくるですな

あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば

これで死んでもまずは文句もありません

血がでているにもかかわらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

ただどうも血のために

それを言えないのがひどいです

あなたの方から見たら

ずいぶんさんたんたるけしきでしょうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいなぞらと

すきとおった風ばかりです


====


坂口安吾は『教祖の文学』の中で小林秀雄(私はこの人物についてほとんど見識がない)を表題の様に批判し、この文章をビックアップして「西行か実朝の歌、徒然草よりもはるかに好きだ」と評した。


坂口安吾『教祖の文学』より一部抜粋

====


 文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるということは必ずしも行うということでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉じこもっていてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚ずつはぎとって行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌いだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。


〜中略〜


 小説なんて、たかが商品であるし、オモチャでもあるし、そして、又、夢を書くことなんだ。第二の人生というようなものだ。有るものを書くのじゃなくて、無いもの、今ある限界を踏みこし、小説はいつも背のびをし、駆けだし、そして跳びあがる。だから堕落もするし、尻もちもつくのだ。

 美というものは物に即したもの、物そのものであり、生きぬく人間の生きゆく先々に支えとなるもので、よく見える目というものによって見えるものではない。

 美は悲しいものだ、孤独なものだ。無慙なものだ。人間がそういうものだから。


====


 こんな二人の文章はとても生々しくて、自分の中心まで肉薄してくる力強さと鋭さがある。それでいてどこか清々しい。

 訴えかける不思議な力で、こっちを引っ張るのは、つい駆け込みたくなる、彼らの魅力的な世界だ。

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