三題小説第三十二弾『槍』『馬』『正義』タイトル『神馬ディルフォニスの三人目の主人』
誰もが知る伝説の通り、神馬ディルフォニスにはかつて二人の主人がいた。
最初の主人は正義と雷の神、あるいは油断と悲鳴の神イムシオン。彼の者は一度神馬に跨っては神々に仇をなす悪鬼怪物をその槍で誅した。神の恩寵を受けたディルフォニスもまた勇敢なる主人に応えるべく深遠なる森を踏み越え、険峻なる山を駆け抜け、広大なる海を飛び越えた。イムシオンはディルフォニスの最初の友人であり、ディルフォニスはイムシオンの最後の友人であった。
彼らは常世と現世の戦場を走り、世界の果ての星々を臨む断崖で幾星霜を共に語らった。
歳月が過ぎ、その槍にて現世に正義が満たされ、油断したイムシオンは死と嵐と強欲の神ペミドに殺された。
ペミドはディルフォニスの二人目の主人だった。ペミドは自らの娘と交換に鍛冶の神オミウスより魔法の蹄鉄を手に入れた。ペミドは早速ディルフォニスに蹄鉄を取りつけ三つの呪いを与えた。一つはペミドに逆らえなくなる呪い。一つはイムシオンの恩寵を失う呪い。一つは一つ所に留まれなくなる呪い。かくしてディルフォニスはペミドを乗せて昼も夜も走り続け、繁栄せし街を踏み越え、興隆する交易路を駆け抜け、再燃する戦場を飛び越えた。ペミドはディルフォニスの最後の敵であったが、ディルフォニスはペミドにとって何者でもなかった。
彼らは常世と現世の楽園を走り、世界の果ての星々を臨む断崖から生者を追放した。
歳月が過ぎ、その鎌にて現世に死が満たされてなお、ペミドはディルフォニスを駆って死を振りまいた。しかし長い歳月を走り続けた末に蹄鉄は擦り切れ、ディルフォニスは呪いを解かれた。
ディルフォニスはペミドから逃れ、イムシオンの亡き骸を求めて走った。呪いを解かれたにも関わらず一つところに留まる事は出来なかった。イムシオンの亡き骸を見つけ、寄り添うと決めたディルフォニスは主人もなしにひた走った。しかしそれが見つかる事はなかった。というのもイムシオンの恩寵を失ったディルフォニスの身体はとても小さくなり、また長い歳月をペミドに駆られ、イムシオンの亡き骸が何処にあるのか、最早分からなくなってしまったからだ。
彷徨う果てにペミドの目の届かないある森でディルフォニスは眠りについた。それからずっと槍を振るうイムシオンの夢を見ている。
エイバンという少年がいた。アルミム王国領シビ山麓にある小さな村に生まれ、後に吟遊詩人達の間では隠れもない男となる。少年は快活そのもので、どのような困難にも笑って立ち向かった。また別の伝説にある通り、少年は動物と話せるという秘密を持っていた。その秘密を知る両親は幼い頃に亡くなり、少年はその才でもって狩人として生活していたのである。旭光が故郷の山を照らす前に起き、迸る冷涼な川で心満たされるまで水を飲み、朝露に煌めく野を駆け、吹き渡る歓喜の風を一身に纏い、素早い兎や賢い狐を追った。そして時に語り合った。
ある日、些細な不注意で村の者にその秘密がばれると、瞬く間に王都にまで噂が渡り、王の耳に届いた。
その頃アルミムの王は民の陳情による家畜を襲う狼害について悩んでいた。王は少年の秘密を知り、これを利用する事に決めた。王は早速少年を呼び寄せて、狼との交渉を命じたのだった。
エイバンは何度も何度も狼と交渉の座につき折衝を重ねたが、王の納得する首尾は得られなかった。
王は少年を叱責し、何度でも狼との交渉を命じたが、とうとうそれが不可能だと知るや、少年こそが狼をけしかけた者として死刑に処そうとした。アルミムの王の父母もまた王の幼い頃に世を去った。しかしエイバンと違って王の父母は王に一つとて慈しみを残せなかった為に王は後世に無慈悲王として語り継がれる事となった。
エイバンは嘆く事も悲しむ事もせず、ただ一度神と父母に祈り、その秘密の力を使って動物達の協力を得て逃げ出した。
これから語るのはその少年の危険極まりない逃避行と老いてなお健脚衰えぬ神馬ディルフォニスとの出会いである。
エイバンは首尾よく逃げだしたが王がそれを許すはずもなく、選りすぐりの兵士達の中からさらに選りすぐった追手を差し向けた。その手勢の数は多く、またいずれも馬を駆っているのでとても速い。それは疫病よりも速く王国中に広がり、エイバンの逃げ道を塞いだ。
しかしエイバンは鳥達に頼んで常に追手の動向を探り、捜査網の網目を掻い潜った。また同情を寄せた狼達の協力も得、その遠吠えによって網目を広げる事も出来た。エイバン自身もまた馬の助けを借りて逃げ回っていたので捕まる事はなかった。
しかし伝え聞く通り王は戦に置いても決して諦める事を許さず、少年の捜索においてもそれは変わらなかった。
少年もまたその事を知っていたので、逃げ切る事よりも王が諦める方法を考えなくてはならなかった。逃避行の中で多くの動物の知恵を借り、少年は一つの伝説に思い当たった。世界を支える柱、ミルゴールの塔のある方向、つまり南に、かつてトイマーの森と呼ばれ、今はディルフォニスの森と呼ばれる巨大な森がある。そこにはディルフォニスという世界の端まで駆ける馬が眠っているという伝説だ。彼女に乗せてもらえば王の追手が追いつく事はない。そうすれば王も諦めがつくだろう、と。そうしてエイバンはミルゴールの塔のある方向へと急いだ。
二つの大河と三つの谷を越え、七つの冒険物語を生みつつ、エイバンは苦労しいしい森に辿り着いた。高きミルゴールの塔の姿は見えなくなり、日の光も届かず、星の恩恵にも預かれない程に鬱蒼と茂った森は迷宮にも等しく、多くの英雄や騎士団が木々の栄養分となり、獣達の食糧となっていた。しかし土地を知る獣と話す事の出来るエイバンにとっては勝手知ったる裏庭と同様に歩を進める事が出来た。またその知恵に従えば、ディルフォニスの塒に辿り着く事も容易だったのである。
最早驢馬にも等しい小ささになったディルフォニスは森で最も古くから生きている大樹の根を寝床にしていた。そして大樹の苗床となっていた。
深い眠りの底で大いなる夢に埋もれていたディルフォニスにエイバンは語りかける。「汝、偉大なりし正義の神の御許にて勤めし誇り、未だありや?」
すると神馬は深い眠りから目覚めて答えて曰く、「瞭然なり」
横たわるディルフォニスはその矮小な姿に反して荘重たる風格だった。
しかしエイバンは臆さず更に問いかける。「汝、偉大なりし死の神の御許にて立ち働きし恥じ、未だありや?」
すると神馬は深く重く嘶き、「忘れじ」と答えた。
「ならば」とエイバンは言った。「この地に留まる由あろうか? 我が忠実なる軍馬となるべし。倶に世界の果てに行かむ」
エイバンは短剣を使って根を切り崩し、死んだように横たわるディルフォニスを助け出した。
この時ディルフォニスは死んでも構わないと思っていたが、同時に永遠にイムシオンの夢を見続けていたいとも思っていた。だからエイバンに丁重に感謝し、未だ眠りについていた体を起こした。
しかし神馬は一度だけ首を振ると、地に伏せた。「我が主の亡き骸を訪ひたりき。されど疾うに気勢なし」
エイバンはそれ以上問う事はしなかった。その深い悲しみに触れ、父と母を失った時の気持ちを思い出したからだ。夜の帳が下り、月が皓々と輝く頃、エイバンはディルフォニスにことわり、焚火を熾した。その温もりが冷たく凍ったディルフォニスの悲しみを少しでも癒す事が出来れば、と思っての事だった。
エイバンとディルフォニスは幾晩も語り合った。神々の驚異の物語。英雄の過酷な物語。悪鬼の卑劣な物語。それはエイバンにとって父母との語り合いの如く知見を広げた。それはディルフォニスにとって友人との語り合いの如く心癒した。快活なエイバンは正義の神イムシオンを思わせ、貫禄のあるディルフォニスはエイバンの父母に似ていた。
アルミムの王の追手達もまたトイマーの森に侵入していた。その追手達の熱意の源流は王より約束された報奨、ルビー、サファイア、エメラルド、ダイヤモンド、金や銀とその細工物、それに対する強欲だった。それは七度の生を遊んで暮らせるだけの財であり、追手全員で分配しても残りの生を悠然と暮らせるだけのものだった。そして彼らがトイマーの森に侵入したのもまた強欲だった。彼らの中の誰一人としてエイバンが森に入った事を知らなかった。
しかし彼らの中のただ一人が他の追手を森に呼び寄せた。かねてより自然の迷宮として名を馳せていたトイマーの森で他の追手を惑わせ、殺し、その報奨の取り分を増やそうという画策だったのだ。やがて森にエイバンが入った痕跡が見つかり、追手達を招いた男は後悔する事となった。
そういう訳でエイバンにとっては不運にも追手達がトイマーの森に集ってしまった。エイバンは鳥や獣たちの報せを聞いてすぐさま旅立つ準備をした。
ディルフォニスは動こうとしなかったので、エイバンは忠告した。「王の追手は神をも恐れず。その血潮垂りし刃に汝を殺さむ」
するとディルフォニスは答えた。「我が死は畏からざるが、今や汝が死は畏こし。疾く逃げたまへ。汝ならば追いつかるる事なからめど、決して怠るなかれ」
ディルフォニスの言葉を受けてエイバンは振り向く事なく走り出した。鳥と獣の声に従い、まだ目に見えぬ塔のある方向へとひた走った。
ディルフォニスは離れゆくエイバンの足音に耳を傾けて、もう一度眠りにつこうと体を横たえた。イムシオンとエイバンの夢が立ち現れる少し前に、ディルフォニスは異変を察した。エイバンが走っていった方向とは反対から炎が森を灼く音を聞いて飛び起きた。そしてここでこうして寝ていれば、その炎はペミドの嵐の如くやがて我が身を滅ぼし、狂乱と共に森を駆け抜け、森を抜ける前にエイバンをも焼き尽くすだろう事を察した。ディルフォニスは幾星霜を越えたその身が再び気勢を上げるのを感じた。かつての神馬の身体は小さかったが、流星の如く森を駆け抜け、エイバンの元に向かった。
ディルフォニスは知らなかったが、その火は追手の一人、他の追手達を招いた男が放ったものだった。その火で以てエイバンとついでに仲間達をも焼き払う為だった。そしてディルフォニスの察した通り、その男は知らず知らずペミドに魅入られ、イムシオンの神馬とイムシオンに似た少年を焼き払おうとしたのだった。男はやがて己の放った火に呑み込まれたが、その事に気付いた者はなく、その蛮行が後世に語り継がれる事もなかった。
エイバンもまた鳥の報せによって森に火がついた事を知った。振り返ると遠くに赤い炎が揺らめき、大量の煙がもくもくとすぐ近くまで迫っている事に気付いた。獣たちの苦しみの声以外にも男達の野太い悲鳴が聞こえた。煙に巻かれながらも鳥達の声に励まされながらエイバンは走った。しかし方向も見定められず、息も苦しくなり、次第に頭が働かなくなり、体が痺れ、その場で動けなくなった。
ディルフォニスは走った。エイバンを背中に乗せて森の湿った土を蹴った。その火炎はペミドの鎌のように森を刈り、ディルフォニスの喉元目がけて振り下ろそうとする。イムシオンの恩寵を失っていたディルフォニスだが、その誇りにかけて突き進んだ。
森は苦しみにのた打ち回り、幾つもの大木が倒れ、岩が砕け、ディルフォニスの行く手を阻んだが、これをことごとく踏み越え、飛び越え、駆け抜けた。やがてトイマーの森を横切るように滔々と流れる大河オドイに辿り着き、一息に飛び越えた。ペミドの火がこれを越える事は出来なかった。
エイバンは気がつくとディルフォニスの背で揺られていた。未だ森の中だが火から遠く離れていた。エイバンは神に祈りを捧げ、ディルフォニスに感謝した。
「汝、これより如何に生くるつもりなりや?」とエイバンは問うた。
「今一度我が主の亡き骸を訪はむ」とディルフォニスは答えた。
するとエイバンは「ならばよし。手伝はせたまへ」と言い、ディルフォニスは「よからむ」と答えた。
さらに一昼夜を走り抜け、エイバンとディルフォニスはトイマーの森を抜けた。眼前にはいっぱいの荒野が広がり、地平線の向こうには空を二分するミルゴールの塔が高く聳え立っている。
するとディルフォニスは涙を流して曰く「まさに槍なり。イムシオンの槍なり」
エイバンは黙ってディルフォニスの鬣を撫でた。
ディルフォニスがエイバンを三人目の主人と認めるのはまだ少し後の話だ。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
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神話風を書きたくなったので書いた。古語風も頑張った。
いつものとは違い過ぎるし、こんなの何度も書けないけどたまには良いものだ。