第五章 いつもそばに (3)
突然の美佐子からの電話。美佐子の兄の死が意味したものは。突然の兄の死に翻弄される美佐子の運命。運命の神がほほ笑んだのは、美佐子へだったのか、優一へだったのか。
「優一、兄が」
「美佐子、どうした」
「兄が亡くなった」
「えーっ」
「あなたの家の病院、慈恵医大。お願いすぐに来て」
美佐子は、突然の出来事に混乱していた。朝、普通に出かけた兄が、仕事先で突然倒れた。駆けつけてみると、もう息を引き取っていた。そばで母親が鳴いているばかりだった。父が医師に問い詰めると心臓発作だと言っていた。
「分かったすぐに行く」
人事異動で優一の部署に来た美奈は、優一の態度に一抹の不安を覚えながらも正式にプロポーズされ、優一の両親からの了解も取れている以上、口を出す事はしなかった。周りの目もある。同僚には、まだ何も言っていない。
美奈が我が家に来てから六ヶ月。自分の優柔不断なままに時間が過ぎていた時であった。
優一が病院に着くと、美佐子の両親がいた。美佐子は優一の顔を見るなり、周りを気づかうこともなく胸に顔を埋めて泣いた。
「優一、どうしよう。私どうすれば」
答えを持たないままに美佐子の体を抱きしめながら
「美佐子、とにかく落ち着いて。今は目の前の事にしっかりとしないとお兄さんも心配する」
まるで美佐子の兄が生きているような言葉に少しの間、優一の腕の中にいた美佐子は
「そうね。しっかりしなきゃ」
美佐子の兄弟は兄一人だった。ゆえに、兄の死は色々な意味で大きかった。
優一は、担当医に自分の素姓を言うとすぐに院長のところに行った。院長は、優一の顔を知っていることもあり、世辞を言い始めたが、それを止めさせ、美佐子の兄の対応に十分な事をするように依頼すると美佐子のところに戻ってきた。
優一は、
「美佐子、院長には、十分な対応をとるように言った」
と言って美佐子の目を見た。
「優一」
そう言うとその後の言葉は言わず、ただ優一の目を見つめていた。美佐子は、自分自身がどうすればよいか分からなかった。
植村建設常務である兄の突然の死は、美佐子に大きな転機を迎えさせた。本来ならば、父親が健勝なうちに、兄が次期社長になり、父が会長職に退いた後、引退する。そして美佐子も何も問題なく優一の妻として迎えられるという、流れにあったはずだった。
しかし、次期社長の突然の死は、後継者を決められないという状況に陥った植村建設に戦慄が走った。社長と専務の表に見えない確執の争いとなった。この渦中に美佐子は巻き込まれたのだった。
状況不利を悟った父である社長が美佐子を持ち上げたのだ。最初は、猛反対した美佐子だが、父親が母親の説得に成功し、美佐子は仕方なく一従業員から副社長の座に就いた。社長が支えるという状況で。
「本当か、それは」
執務室で優一の父、葉月コンツェルン社長は、美佐子が植村建設の人事で副社長に就任したのを知った。従業員六〇〇名の中堅建設会社の副社長に二六歳の美佐子がなったのであった。
優一は、事の流れを知りながら、美佐子の会社の人事には何も言う立場ではなく、母の親友、三井財閥のかおるに頼もうにも財閥傘下の一会社の人事に口を出すことはできず、見守るだけであった。
「三井財閥傘下の会社の次期社長を優一の妻に迎えるわけにはいかない」
執務室で妻のカリンに一言だけ言うと妻の瞳を見た。カリンは、事の次第を優一から聞いた時点で、何かできないかと夫に相談したが、流石に口を出すことはできないと言った。
カリンは、美奈の件はあるにしろ美佐子の事が気がかりだったがゆえに、なんとかしたかったが、これが結局美佐子と別れさせる理由になると思うと心の中で消化しようと努めた。
副社長の一件で中々会うことのできなかった美佐子は、一カ月ぶりに優一と会った。美佐子の顔を見ながら“少しやつれたかな”と思いながら声をかけると
「優一、どうすればいいかわからない。ごめんなさい。でも父と母の事を思うと断れなかった」
涙目になりながら言う美佐子を何も言わず抱きしめると
「優一、今日が最後」
そう言って、自分から洋服を脱ぎ始めた。
優一だけしか知らない体が、思い切り燃えた。ただ優一の名前だけを呼んでいた。
「優一、もっと・・」
それだけ言うと自分の大切な所に口づけをしてくれている優一の頭を思い切り掴んだ。抑えるように。体の喜びとは別に涙が止まらなかった。
「別れたくない。優一のお嫁さんになりたい」
今までの思いを思い切り出すように言いながら優一の愛撫を受けた。そして優一が入ってきた後も優一の体を思い切り、自分の細い腕で触りながら、涙だけが流れた。
「美佐子」
思い切り美佐子の中に自分の思いを出しながら自分の名前を呼ぶ優一が、体を自分の上に載せてくると思い切り抱きしめた。
「優一」
これが最後だと思うと美佐子は思い切り優一の唇に自分の唇を合わせた。
「優一、今日は明日の朝までこうしていたい。いいでしょう」
甘えた声を出しながら言う美佐子になにも言えず頷くと
「嬉しい」
そう言って優一の首に自分の腕を巻きつけた。
「優一、お嫁さんになりたかった」
優一の首に手を回しながら唇を合わせてくる美佐子に優一も思い切り体を抱きしめた。
「別れたくない」
自分の言葉に意味がないことを分かっていながら感情だけを口にしている美佐子を見ると優一は、たまらなかった。
「美佐子」
そう言って抱きしめながら、また美佐子の形の良い胸に唇を持って行った。今度は普通に感情を出しながら体に走る喜びに“もう七年も”そう思いながら美佐子は優一の愛撫を受けた。“他の人を受け入れることができるのだろうか”そんな思いを抱きながらも自分の体に走る刺激を今度は気持よく受け取っていた。
結局美佐子と別れたのは、翌日の一〇時を過ぎていた。
「優一、さよなら」
そう言って、自分のもとを去っていく美佐子の後ろ姿を見ながら“結局自分は何もできなかった。三咲の時もそうだった。今度も理由はどうあれ、美佐子が自ら身を引いた”どうしようもない心の重さに自分自身の体が重くのしかかってきた。
美佐子がタクシーを拾って走り去った後も優一は、その場を離れなかった。“どうしようもない男だ。俺は”その自戒だけが残っている。
周りの人間が“何をしているんだろう”という顔をして見ていく。そんなことはどうでもよかった。ゆっくりと足を動かし始めると目の前にあるタクシーに乗った。
自分の家の少し前で停めさすと表門まで歩いた。セキュリティが見ているのだろう、優一が表門の前に近付くと重く大きな門が内側に自動的に開いた。
玄関まで歩き、何も言わず二階に上がると窓を開けた。花音の部屋のような素晴らしい景色は見えないが、南側に広がる家並みが目に入った。
「優一、帰ったのなら声をかけなさい。連絡もしないで一晩開けるなんて。子供ではないから良いですが、連絡ぐらい入れなさい」
少し厳しく言う母親の声を背中に聞くと振り返りながら
「お母さん」
と言葉だけ言って膝が落ちた。後は記憶がなかった。
「優一、優一」
「どうしたんだ。三咲。急に」
「何言っているの約束したでしょう。海に行くって」
「えっ」
急に海水浴場の場面になった。三咲が素敵な水着を着ながらどんどん海の方へ走っていく。自分も行くがいつのまにか三咲が見えなくなった。“どこに行ったんだろう”と思っていると急に渋谷になった。
なぜか自分だけ水着のままでいる。美佐子が近付いてくる。“まずい”と思いながら上半身が裸の自分が“なんでこうなってるんだ”と思いながら、いつの間にか目が開いた。
真っ暗な部屋の中に誰かがいる。しっかりと目を開けて体を起こすと壁に人間の顔をしていない何者かが五つ並んでいた。気持悪いままに左腕を“さっ”左に振ると窓の方へ二つ程行った。出て行ったかどうかわからない。あと三つ残っている。“いいか”と思いながらいつのまにかまた、意識を失った。
頭の中に鉛が入っているように重かった。頭がふらふらしているのが分かった。ゆっくりと目を開けようとするが開かない。なんとか開けようとしたが駄目だった。また少し意識がなくなった。
頭の中が霧の中にいるような感じに自分の腕を動かすと
「優一」
「お兄様」
声の方向に目だけを開けると心配そうな顔をして母親のカリンと花音が自分の顔を見ていた。
「ここは」
「病院です。二日前に昼ぐらいに帰ってきたと思ったらいきなり二階に上がったので、声をかけたら、あなたが倒れたのです。すぐに救急車を呼んで緊急入院させました。人の顔色をしていませんでしたから」
なぜか、いつもより厳しい口調でいう母親の顔を見ながら何も言わないで見ていると
「お父様に連絡を入れてきます。心配なさっているでしょうから。花音いてあげて」
「はい」
と返事をすると母親が出て行くのを待って優一は、
「花音、お母さんは、なぜあんなに厳しい口調で言ったんだ」
「お兄様。理由を知りたいですか」
少し、微笑みながらいう妹に
「なんだ、笑いながら。お母さんは怒っている感じだったが」
「ふふっ、お兄様、気を失われている間、三咲様と美佐子様のお名前ばかり呼んでいましたわ」
また“ふふっ”と笑うと
「美奈様が、“お見舞いに行きたい”と言っておられましたが、“この状態では会わすわけにはいかない”とお断りになっていました。お兄様、どんな夢を見られていたのですか。花音は知りたいです」
可愛い妹の花音に言われた事にショックを受けながら
「忘れた」
と言うと
「ひどいですわ。二日半も付き添っていたのに」
少しふざけて怒った顔をするととても可愛く見えた。
「わかったよ」
そう言って、母親がいないことで気が緩んだのか、可愛い妹に気が緩んだのか、夢で見たことを話した。
「そうっだたのですか。大変でしたわね。多分、お兄様の心の中で整理しなければいけない事とお兄様の気持がぶつかり合ってそのような夢になったのでしょう」
そう言って真面目な顔をする妹に
「花音」
とだけ言うとまた、目をつむった。
結局、病院を出たのは四日目の朝だった。家に戻り、携帯の着信を見ると美奈から連絡が入っていた。
“優一、お母様から聞いた。退院したら、連絡ほしい”
三日前の留守電だった。“心配させたかな”と思うとすぐにかけようと思ったが止めることにした。自分の心を整理したかったからだ。
結局、一週間、会社を休んだ。“自分の気持の整理ができるまで”そう考えての事だった。
土曜日の朝、朝食のテーブルに着くと父と母がいた。花音も座っている。
「お父さん、後でお話があるですが」
息子の言葉に視線を投げると
「何だ、ここでは話せないことなのか。ここにいるのは家族だけだ」
父の言葉に“ちらっ”と花音を見ると
「私は席をはずします」
「いや、花音も居てくれ」
そう言って、花音が席をはずすのを止めると
「お父さん、お母さん、石原美奈さんと正式に婚約を整えたいと思います」
花音は目を丸くした。母親は、鋭く息子を見ると父親が
「優一、いいんだな」
「はい」
「分かった」
それだけ言うと妻のカリンに視線を投げた。
「良いのですね。優一」
「はい、お母さん」
「分かりました」
そう言うと今度は微笑みながら“ふふっ”と笑って
「心の整理がついたのですね」
そう言うと
「では、美奈さんに自分の口からその事を告げなさい」
そう言って微笑んだ。朝食を済ませた優一は、二階の自分の部屋に戻ると携帯の美奈からかかってきている電話番号にタップした。少しの後、
「優一」
という声とともに
「心配したんだから」
そう言って本当に心配そうな声を出すと
「美奈、大事な話がある。今から会えないか」
優一の言葉に不安がよぎりながら
「いいわよ。どこで」
「今から迎えに行く。僕の車で」
「うん」
優一との電話の内容に悪い話ではないと思いながら、数日間母親から会うことを許されなかった事が、心に不安の種を残していた。
優一は、母親に事の次第を告げると
「今から連れてきます。お母さんとお父さんの前で正式に言いたい」
息子の真剣な言葉に
「分かりました。お父様には言っておきます」
その言葉に優一は、車庫に向かった。
久々にエンジンを駆けると少しの間待った。油温が上がらないうちは、走り出すのか危険だ。いつ止まるか分からない。ゆっくりとエンジンをアイドリングしながら、湯温計が少しずつ上がり始めるとゆっくりと車を動かした。
普通の乗用車なら、弦巻まで直線的に走る道もあるが、車には良い事を考えると少し大回りするが、環七を走った。
途中から弦巻通りに入りT字路になる前で左に折れると車を止めた。スマホの美奈の電話番号にタップするとすぐに出た。
「美奈、迎えに来た。表にいる」
「分かった」
少し待つと普段着姿の美奈が玄関から出てきた。一人だ。
車から降りて微笑むと
「乗って」
そう言って、ドアを開けた。美奈は、初めてではないが、“ストン”と腰を落とすように座ると“きゃっ”と声を上げたが、優一は微笑みながら
「閉めるよ」
と言ってドアを閉めた。
エンジンをかけて車を動かし始めると
「優一、どこに行くの」
「僕の家。お父さんとお母さんに会ってもらう」
「えっ、もう何回か会ったけど。それに思いっきり普段着だよ」
「いいよ、素敵だよ。それに両親の前で言うことができた」
その言葉に美奈は、何となく分かりながらやはり不安だった。
表門につくと車をそのままに
「美奈、来て」
と言ってドアを開けると手を引いて車から降ろした。明らかにいつもの優一と違う。
“どうしたんだろう”と思いながら付いていくといつもなら居るはずの母親の姿がなかった。
「お父さん、お母さん、来て頂きました」
そう言って、応接に行くとすでに両親は座っていた。
「美奈、座って」
そう言われて座ると優一が隣りに腰をおろしてから
「朝も言いましたが、本人の前でもう一度言います。石原美奈さんと正式に婚約します」
美奈は頭の中が真っ白になった。いきなりだった。少しの間の後、母親のカリンが
「美奈さん、受けて頂けますか」
美奈に取っては驚きでしかなかった。こんな形で優一から言われるとは思っていなかった。まして、優一の両親の前で。優一からプロポーズされてからすでに七ヶ月。いずれはと思っていても優一の後ろにいる女性の姿が見えている間は、ないだろうと思っていた。それだけに五日間の休みの後の突然の出来事に少し困惑した。美奈が黙っていると
「美奈、駄目なのか」
優一が心配そうに声を出すとやっと声を出すことができた美奈は、
「ううん、とても嬉しい。でも、でも・・長かったから・・」
美奈の言葉に優一は、
「待たせて、ごめん。心の整理は付けた。美奈しか、もう見ない」
その言葉に美奈は、目元に涙が溜まっていた。
両親が応接を出て行った後、美奈が
「優一、本当に私しか見ないのね。一生私を守ってくれるのね」
そう言って優一の目を見た。美奈の真剣な目に
「うん」
優一は、三咲と美佐子に言った言葉一瞬だけよぎった。そして改めて“必ずこの人を幸せにする”と思って美奈の目を見た。その視線に美奈が目を閉じると静かに優一は唇を合わせた。
それから一ヶ月後、正式に婚約をした。平岡にだけは、事情を話した。ただ、周りは自然と雰囲気が分かるもので、いつのまにか知れ渡った。
結局婚約までは長かったが、葉月家の長男、次期葉月コンツェルンの社長の結婚式を挙げるとなると招待する人の調整もあり、六ヶ月後になった。
なぜか優一は、美奈と食事をした後、体を合わせる事をしなかった。美奈は、優一の気持が決まった以上、誘われたら断らないつもりでいただけに、なぜ誘わないのか分からなかった。
優一自身は、三咲と美佐子の事は整理できても美奈に対して同じような流れで行くのが嫌だった。もちろん美奈と体を合わせたい。“だが、でも”という気持ちも有った。その理由は、自分が犯した二人の女性に対する自戒の念がそうさせていた。
結婚式も後一ヶ月に迫った時、
「優一」
いつも食事をした後に行くバーのカウンターで隣に座る彼を見ながら美奈は
「もういいよ」
あえて自分から言って、そしてそれだけ言うと顔を下に向けた。
「なんのこと」
わざと知らないふりをする優一に、美奈は少しだけいたずらっぽく
「じゃあ、いいわ。結婚式までお預けね」
「えーっ、そんな」
と言いながら自然と視線が美奈の顔から喉にそして胸元に泳いだ。
「エッチ」
と言っていたずらっぽい目をすると
「本当は、・・」
言葉が続かない優一に
「じゃあ、素直になりなさい」
「はい」
“なんでこうなるの”と思いながら
「美奈、行こうか」
「うん」
そう言って少し赤くなったのが、お酒のせいだけはない事が分かった。美奈は、優一の腕を掴みながら少しだけ微笑んだ。
美佐子の兄の死は、優一と美佐子を劇的な形で別れさせました。そして、優一の心は、思い切り流されました。しかし、結果として美奈との恋が実ります。
恋は、濃いほどに熱いほどに運命の神は、ほほ笑みます。
今回でこの物語は完了です。皆様お楽しみ頂けたでしょうか。




