3の刻印
男の住んでいる家はそれはそれは豪華な家だ。外観は洋館のような作りとなっており、本館と別館の二つに別れている。壁はしみ一つ無い白壁と清潔感漂っている。建築技術の発達しているミストルティアの職人たちが見れば10人中、10人が感嘆の声を漏らすだろう。洋館から離れたところには離れの小さな小屋もある。また、本館と別館の間には世界各国から集められた色鮮やかな花の数々が植えられた花壇がある。さらには、敷地を囲むように鉄柵が四方に並べられており、唯一北側にのみ高さ数十mの巨大な鉄製の門が侵入者を拒むように立っている。
ただし、この門から外側は50m程しか地面が無い。何故ならこの土地は地続きではなく、空に浮かんでいるからである。
「ご主人様、また悠莉様が地上へ落ちて行きました」
男は目の前の少女、確か整備部長のアリエスだったか。赤髪をボブカットにした少女は身につけているメイド服の裾を弄りながら、主人である男にそう告げた。身長は平均的で痩せ過ぎずかと言って太っているわけでもない。少し垂れ目な彼女は柔らかな雰囲気を纏っている。そして、彼女の右手の甲には、やはりあせびの『奴隷の刻印』が刻まれている。
「今月に入って悠莉が落ちたのは何回目だ?」
男はアリエスの報告を聞き、呆れ気味に尋ねた。
「4回目になりますね」
男の溜息が室内に響き渡った。そう、悠莉は何故かいつも門から一歩外へ出れば、足を踏み外して地上へとダイビングするのだ。地上からの高さはおよそ4000mであり、悠莉は富士山よりも高いと言っていたから高いのだろうと男は思う。ってか、富士山って何だ? と男は未だに疑問に思っている。
それはそれとしてだ、悠莉が落ちるのはいつものことで、それなりの耐久魔法を施して置いたので問題はないだろうが、やはり男は心ここにあらずといったようで指で忙しなくテーブルを叩いている。
そんなご主人様の様子を見ていたアリエスは心にモヤモヤとしたものを抱いていた。ご主人様が悠莉様に施した耐久魔法は世界トップクラスの防御力を誇り、たかが4000mの高さから落ちた程度では痣の一つも出来ない。何をそんなに心配してるんだ、という思いと悠莉様にだけ見せるご主人様の態度に対してモヤモヤしている。この気持ちは嫉妬だろうか。奴隷の分際でこの様な罪を犯すなど、とアリエスは反省する。
「どうした? アリエス。何か怖い顔してるぞ」
異変に気付いた男は、アリエスの顔を覗き込む。それを受けたアリエスの顔はみるみる真っ赤に変わっていく。男はそんなアリエスを不思議に思い、首を傾けるがアリエスは更に悪化していく。
(な、な、な、何をしていらっしゃるのですか!? ご主人様! あぁ、なんてお顔をしていらっしゃるのですぅ!? 可愛過ぎます。うはっ、そんな首を傾けられて純真無垢な顔で見られたら、うぅ、今すぐぎゅっと抱き締めたい。あぁ、ご主人様なんですから、エッチな命令の一つや二つしてくださってもいいのに。いっそ、この屋敷からご主人様を拉致りましょうか)
そんなアリエスの暴走に、鈍感な男は気付くことは無い。背中に寒いものが走れば、風邪かな、などと言い出す始末だ。嫉妬、強欲、色欲、怠惰、憤怒、暴食、高慢の七つの大罪の中に鈍感もいれて八つの大罪にして欲しいものだ。
「何でもないです。気にしないで下さい」
寧ろ、もっと気にして下さい、と心の中でアリエスは呟く。そ、そうか、と男は言った後、
「それにしても悠莉は落ちすぎだよな。柵建てたりしてるんだが効果は薄いみたいだし、何かいい案はないか?」
困り顔で尋ねる。
「そうですね~。門をご主人様の認証なしでは開閉できないような仕組みにしてはいかがですか? ご主人様ならそれくらい2,3日も掛からないと思うのですけど」
アリエスは普通の職人なら数か月はかかるような作業を、男は2,3日で終わらせられると思われている。いや、実際に終わるのだから凄いのだが。実際、門の認証システムは、魔力を流してその魔力から認証するものがこの世界の主流だが、それでもそんな仕掛けを作れるのは世界中を探しても少ないぐらいだ。
「あー、それな、考えたんだがそれにすると他の奴らが出入り出来なくなるだろ。俺だって常にここにいるわけじゃ無いしな」
「では、いっそ地上に引っ越しますか? それなら落ちる云々は考える必要はなくなりますけど」
そのまま地上でご主人様と愛の巣を、なんて余計な思考を飛び交わせているアリエス。
「それは駄目だ。この場所は変えない。勝手に捨てたりするといろいろと不味いことになりそうだしな」
男はこの土地をくれたあの女のことを思い出す。何を狂ったのか、ストーカー気味の求婚を迫ってくるあいつは今はどのあたりにいるのだろうか。三年ほど前に会って以来、顔を合わせていない。
「そうですか。……というよりですね、ご主人様。悠莉様が落ちるのはいつものことですので、今更どうのこうの対策を施そうと効果は得られないのではないでしょうか? 幸い、いまだに怪我もしていらっしゃらないですし。それとですね、報告遅れましたが悠莉様はどうやら北側から落ちられたみたいでですね。あそこは人攫いがよく起こる無法地帯と噂されるスラム街のあたりではないでしょうか」
「おい、それを早く言え!! スラム街だと……いますぐ俺も出る。警備部から二人、連れてきてくれ」
アリエスの言葉を聞き、急に慌てだす男。その表情には焦りが浮かんでいる。
「はい、かしこまりました」
アリエスが言い終わる前に、男の姿は部屋から消えていた。アリエスも男に言われた通り、警備部の人間を呼びに行く。その道中、
(ご主人様もあそこまで慌てなくても。あの『奴隷の刻印』がある限り、悠莉様に手を出す物好きな方はいらっしゃいませんのに)
それでも、男に心配される悠莉のことを少し羨ましく思うアリエスであった。