7.夢寐の水銀
私の名前。呼び声だ。今度は何処へ流れついたのだろう。
重い瞼をゆっくり開くと、ぼやけた視界に黒い影が飛び込んできた。焦点が合わさり、ぼやけていた影はイルマの笑顔へと―――――――
「美紅!」
私を見下ろす、今にも泣きそうな母。目だけで辺りを見渡すと、そこは……白い、コンクリの部屋だった。
「先生! 先生!」
母は涙声で叫びながらカーテンの向こうに消えた。
「美紅が目を覚ましました!」
目を、覚ました。私は夢を見ていたのか。布団から手を抜き出し、その平を見つめてみる。普通の大きさ。見知らぬ服。いつもの、私。私は、帰って来た。
どうやら、私は3日程眠っていたらしい。南町の路地裏、マンホールの真上で横たわる私を近くの住人が見つけたそうだ。通院歴からみて、精神的ショックが原因ではないかと医師は話していたそうだが……実際のところ、よくわかっていない。暫く検査入院をすることになった。
「身体が大きくなったり、小さくなったりして……それで」
「そうですか」
頭がぼんやりとして、寝ていた間のことを上手く話せなかった。ベッドの上で、ふと窓の外を見た。久しぶりに見上げた空は目に痛い程に眩しい。こんなにも、世界は綺麗だっただろうか。
「もしかしたら、"不思議の国のアリス症候群"かもしれませんね」
医師の言葉に、私は聞き耳を立てた。母が「一体どういったものなんですか」と野暮ったいことを聞いている。言ったままの意味ではないか。
「物が大きく見えたり、小さく見えたりするんです。原因は特定できていませんが、ウイルスによる脳炎だったり、精神疾患の前触れだったります」
夢かと思えば、病気のせいか。私は大きく溜息をついて耳を塞いだ。以前のような物悲しさも、胸がつかえるような苦しさもない。妙なだるさと漠然とした懐かしさだけが、私の中で息づいていた。帰ってきてしまった。夢でも病気でもいいからもう一度会いたい。あの笑顔を見たい。ありがとうもごめんねも言えなかったのだ。もう、一度だけ。
枕に何かが落ちる音がした。ぽたぽたと、枕を通じて耳に染みいる水の音。涙、なんだろうな、きっと。確認する気さえ、もう起きない。
夢の中の私は誰だったのか、結局わからないままだ。確かに私は私に帰ろうとした。私として生まれ変わろうとした。しかし、道半ばで夢から覚めた。目の前に返り咲く現実は神様が与えてくれたチャンスなのか。はたまた罰なのか。それすらも曖昧で、現実と夢の区別もはっきりしない。確かに生きている。ここは現実だとわかってもいる。ただ、実感が湧かないのだ。生きている実感が、湧かないのだ。そのせいだろうか。私は意味も無く院内をうろうろと歩いていた。白兎を追い、犬から逃げ、イルマに会うために走ったあの時間を思い返していた。歩みを止めてはならない。止めたら今度こそ、私は何もかも忘れて"美紅"という知らない誰かになってしまうような気がした。歩き続けたからといって、何処に辿りつくわけでもないのも……わかってはいるのだが。じっと下を向いて、白い廊下をゆっくりと進む。パネルの枚数を数えるわけでもなく、色の違うところを避けるわけでもなく、じっと、穴を探すように足を運ぶ。すると、目の前に何かが落ちてきた。ひらひらと……
「……」
足が、止まった。日も落ちた薄暗い病院。人通りも少ない廊下で立ち尽くし、それを見つめる。そっと手を伸ばし、拾い上げ……裏返す。そこには、ハートのエースが描かれていた。私は振り返り、辺りを見渡す。すると、廊下の向こう、階段の方へすっと消える黒い人影が見えた。階段の陰からひらひらと何かが落ちてきた。私は、走り出していた。懐かしい追いかける感覚。鼓動が速くなり、足が弾む。落ちたカードを拾い上げると、それもハートのエースだった。階段を見上げると、踊り場からまたひらひらとカードが落ちてきた。一枚、また一枚と、誘われるようにカードを拾い集める。違う。追っているのだ。私が私に帰るために。私が私に生まれ変わるために。結局、追いつくことなく屋上までやってきてしまった。屋上へ出る扉の下にカードが挟まっている。それを抜き取り、扉を見た。私はまた、夢を見ているのだろうか。それとも、病気で頭がおかしくなったのだろうか。それでも、どうしても……この扉の向こうが、見たい。
開けた瞬間、肌寒い風が頬を撫でた。
ーー君が君を殺そうとする前に、僕が君を殺す。君は僕に殺されない限り、死ぬことはできないんだーー
一歩、また、一歩。前に歩み出る。風が吹き抜ける薄暗い屋上。白っぽくなった空の反対、迫りくる黒には点々と星が浮かび始めている。ちょうど、私が夢から覚めたあたりの時間帯。
「綺麗だね、地上は」
聞き覚えのある、穏やかな声。心臓が激しく鼓動し、足が震える。振り返りたいのに……振り返れない。声を出したらば、その姿を見たらば……涙が、溢れそうで。
「震えているよ、寒いの? メアリ・アン」
「……美紅だよ、イルマ!」
勢いのままに振り返り、涙ながらに駆け出した。黒い髪、黒い瞳、優しい笑顔……滲んだ視界に浮かぶそれらは、私がずっと探し求めていた"それ"だった。私は大きく足を踏み出して、その胸に飛び込んだ。私を抱きしめる冷たい腕。しかし、確かに感じる温かな感覚。やっと追いついた。辿り着いた。風に舞ってバラバラと空へ舞い上がってゆくトランプ。私は、穏やかに微笑むイルマの目を見つめた。
「私、ずっとあなたに謝りたくて……お礼をしたくて、」
「ああ、いいんだそんなこと。美紅、それより……」
イルマは私の頬に手を当てて、そっと顔を寄せてきた。ごうごうと耳を掠めてゆく空気の裂ける音。イルマは伏し目がちに、囁いた。
「森での続き……いいかな」
私は小さく笑い、頷いた。涙が空へと溶けてゆく。冷たい唇が、空虚な"私"を満たしていく。私の身体からハートのエースが噴き上がるまであと何秒だろう。彼に手を引かれてここまで辿り着いた私は、彼の腕の中で今度は何処に辿りつくのだろう。いや、もう考えるまでもない。何処に向かおうと、私は彼と共に行く。
ーー君は一人じゃない。僕がいるよ、メアリ・アン……君が、"みく"に帰れる日までーー
迷子の私はようやく懐かしくて新しい"私"に出会えた。帰り道なんてもはや必要ない……夢だろうがなんだろうが、それが、私の世界なのだ!