表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢寐の水銀  作者:
6/8

6.女王と赤

 私の名前。呼び声だ。今度は何処へ流れついたのだろう。

 重い瞼をゆっくり開くと、ぼやけた視界に黒い影が飛び込んできた。焦点が次第に合わさり、ぼけていた影はイルマの笑顔に変わってゆく。


「みく! よかった……無事で」


 背中にちくちくと刺さる冷たい草の感触。薄暗い森の中私を見下ろすイルマ。私は勢いよく身体を起こし、自分の両手を見た。


「……生きてる」

「さあ、帰ろう」


 イルマが手を差し伸べてきたが、反射的にそれを払いのけた。彼の顔も見れない。まだ視点が、心が……ざわついてしまうのだ。


「帰りたくない」

「……じゃあ、元の世界へ帰るかい?」

「帰りたくない」


 違う。帰れない。


「じゃあ、何処へ行こうというんだ」

「……何処にも行けない。もう、疲れた。走り疲れた」


 イルマが私の頭を撫でて、優しい声色で言った。


「何処に行きたいんだ、そんなに走って」

「わからない」

「だから、それがわかるまでは僕のところで……」

「でも、侯爵夫人が!」

「夫人? 彼女が、何?」


 顔が上げられない。イルマが真っ直ぐに……私が見たこともないような顔でこちらを見ている気がする。


「彼女がどうしたというんだ。それが君の足を止めるのにどう関係している」

「……」


 私は、また。ぽろぽろと涙が溢れた。他人の顔色を伺って、自分で勝手に自分を責めて。


「……どこへ行っても、同じなんだ。私は自分で自分を殺すんだ」

「そんなことさせないよ」


 イルマの手が、涙をなぞるように私の頬を撫でる。


「君が君を殺そうとする前に、僕が君を殺す。君は僕に殺されない限り、死ぬことができないんだ」


 あんなに温かく感じた手はやはり、冷たい。


「……イルマは、私が人形だからそうして優しくするんだよね」

「そうだね」

「一方的な優しさが、私は寂しい」

「……」

「私は何もしてあげられないばかりか、迷惑ばかりかけて……イルマが私という"贈り物"を大事にしてくれるのは嬉しいけど、そんなの、私じゃなくてもいいんだから」


 嗚咽混じりになんてことを言ってるんだ私は。彼を困らせるだけだと、わかっているのに。抑えきれない。溢れる思いも、涙も。


「……みくは、僕の特別な存在になりたいの?」


 なりたい。いや、なりたくない。どう答えても……イルマは。黙り込んでいると、イルマの溜息が聞こえた。


「君はやはり、地上の人なんだね。とても人間臭くて、欲深い」


 軽蔑……違う。


「人間らしく、地上に帰った方がいいのかもしれない」


 どうして。どうしてそんなに切ない声で。イルマは私の頬から手を離し、言った。


「君はさっき寂しいと言った。僕だって、君を大事にしたいと思っているのに必要とされていないようで……寂しいよ」


 はっと顔を上げると、イルマは悲しそうに笑っていた。目が合うと、出会ったあの時のようににっこりと微笑み、森の暗がりを指差した。


「あちらへ行くと王宮がある。メアリ・アンを名乗って、地上へ出たいと女王陛下に願い出るんだ。そうすれば帰れるだろうから」

「……イルマ、」

「何も言わないでくれ」


 イルマはふっと笑って、私を見つめる。その黒い瞳は"さようなら"と、哀切な光を含んで艶めいていた。イルマの笑顔が、息もできなくなる程に私の胸を締め付ける。すると、イルマはふと目を閉じて顔を寄せてきた。私は少し身を引きながら、ぐっと目を瞑る。唇を撫でたのは、柔らかな風。目を開けると、そこにはもう誰もいなかった。夢でも見ていたかのような感覚。暗い森に一人残され、現実に帰ったかのような不思議な脱力感に包まれた。胸の痛みの、余韻と共に。


「一人になっちまったなぁ、お前」


 顔を上げると、木の上に寝そべるチェシャ猫がいた。


「野郎が珍しく女を連れてるかと思えば……片想いか」


 2本の尻尾を緩く波打たせ、ニヤニヤしながらこちらを見下ろすチェシャ猫。私は俯き、言った。


「そんなんじゃない。イルマにとって私は人形だから」

「だったらなおさら片想いじゃないか。どんなに愛でても人形は何も返してくれない。あいつはもともと見返りなんか期待しちゃいなかったんだよ。ただ一緒にいるだけで満たされてた。自己満足ってやつだ」

「そう。最初からそうだった。私じゃなくて、誰でもよかったんだ」

「それにお前も甘えようとしただろう。人形に成り下がろうとしただろう」

「うるさい!」


 声を荒げて睨みつける。チェシャ猫は楽しそうに笑うばかり。


「愛されることばかり望んで、強欲どころの話じゃないな。帽子屋の小僧もおかしな奴だよ、こんな拾いものして」

「ここの住人なんてみんな狂ってるじゃない……鼠も、白兎も、芋虫も、侯爵夫人も、あんただって!」

「……世界はな、鏡なんだよ。狂ってると思うってことはお前も狂ってるんだ」

「ここは私の世界じゃない!」

「だったら帰れ」


 チェシャ猫のにやけ面が一瞬にして凍りつく。その視線に、私の身体も凍りついた。


「さっさと人間臭くて面倒臭い世界へ帰れ。できなければ死ね。ここにいてもお前に行くところなんてない。野良犬に食われるか、三月兎に食われるか」

「……」

「このまま、イルマに捨てられた人形として」


 捨てられた人形……?



ーー君はさっき寂しいと言った。僕だって、君を大事にしたいと思っているのに必要とされていないようで……寂しいよ--



 違う。私が、私が突き放した。差し伸べられた手を……振り払った。


「……」

「ぐうの音もでないか?」


 チェシャ猫は退屈そうに耳を触っている。私は立ち上がり、言った。


「…侯爵夫人は、イルマのことをどう思ってるの」

「何だ、いっぱしに妬いてんのか。人間臭いったらねぇな」


 チェシャ猫の嘲笑めいた笑い。私は真っ直ぐにチェシャ猫を見据えた。


「私は人間なんだから。当たり前でしょ」

「開き直りか? 都合がいいなー」

「開き直るんじゃない。これから、生まれ変わるの。そのためにイルマと一緒にいる。本当に心から望んで誰かのために何かをできたならきっと……変われる気がするから」

「……へぇ。独りよがりなお前が、誰かのためにねー」


 チェシャ猫はそう言って身体を起こし、枝の上に座りこんだ。その尻尾はイルマが差した方向とは違う方を指している。


「あっちに行けば、帽子屋の小僧の家に帰れる」


 膝に肘をついて厭味ったらしく笑う猫の言うことを信じていいのだろうか。いや、今はもうこの手を引いてくれる人がいない。



ーー……世界はな、鏡なんだよーー



 私が信じれば、嘘だって誠に変わるかもしれない。


「……ありがとう」


 私は踵を翻した。そして走る。暗い森を、白兎を追いかけていたあの時のように。思えば、イルマに出会うまでずっと走り通しだった。今だってそうだ。もしかすると私は、手袋を届けるためなんかじゃなく、自分を変えるきっかけを探すために走っていたのかもしれない。小さくなったり大きくなったり、泣いたり怒ったりしながら……イルマに会うために。今はそう思えてならない。独りよがりな考えで自分を責めて、傷つくことから自分を守ろうとしてきた。でも、イルマのように純粋に誰かを大事にできたなら……新しい私に、なれる気がする。帰りたいか帰りたくないかが問題なんじゃない。私が、誰のために何をしたいのかが大事だったのだ。

 暫く走っていると、見覚えのある場所に出た。置時計に、細長いテーブル。


「お前は……」


 頬杖を解いてこちらを見る三月兎。その黒い瞳に射抜かれて先程の事が頭を過る。恐ろしい。しかし、もう……立ち止まりたくない。生唾を飲み込み、言った。


「……教えて。イルマの家はどこ」


 顔を見合わせる帽子屋と三月兎。ヤマネは突っ伏して眠りこけている。帽子屋が私を見て首を傾げた。


「イルマ?」

「帽子屋のせがれ! あなたの息子でしょ!」

「ああ。帽子屋の息子ね。うーん、あっち?」

「あっちだろ」


 あちらこちらを指差す2人。呆れて物も言えない。すると、帽子屋がカップを置いた。俯き加減になり、帽子のつばで目元が隠れる。唯一見える口元は、あの府抜けた面持ちが想像できない程に凛とした一文字を描いていた。見ているこっちまで背筋が伸びるような……そんな"一"が、ゆっくりと動き出す。


「何故、机と烏は似ていると思う?」

「……」


 誰に問うているのかわからない。三月兎は知らん顔で茶を啜り、ヤマネは相も変わらず寝息を立てている。私は意を決して、答えた。


「知らない。そもそも似てない」


 帽子屋は、口を固く閉じたまま。


「でも、あなた達は私を映す鏡なんでしょ? だったらあなたと私も似ているのだろうし、机と烏も似てるんじゃないの」

「…それが答か」

「知らない」


 淡々と、思いつくがままに言葉を並べた。帽子屋の口元が、緩んだ。


「何言ってんだお前は。食い気も失せる」


 三月兎が気疎いといわんばかりの視線を流してくる。すると、


「あの子はもともと、食い物じゃない」


 帽子屋が顔を上げ、言った。何処となく怪しげな雰囲気が漂う笑顔。楽しんでいるのか、嘲っているのか……わからない。


「あの子はお前で、お前はあの子なんだよ」


 三月兎はうんざりした顔でテーブルに肘をついた。


「お得意のなぞかけか? とんちでもきかせればお洒落か?」

「さあ。答えたそれが全てだ。終わり」

「……」


 一方的に話を締められ、三月兎は私に背を向けて不服そうに頬杖をつく。正誤などに関心はなかったはずなのに、帽子屋の言動にどうも興味が湧いてしまっていた。しかし、彼がもう言っていた。"答えたそれが全て"。

 帽子屋はカップを片手に、ステッキの先を森の方へ向けた。


「我が息子の家はあっちだ」

「……」

「そんなに遠くはない。もう少し、頑張りなさい」


 帽子屋はステッキで行く先を示したままに微笑んだ。その穏やかな笑顔に、イルマの面影が見えたような気がする。どうして最初から教えてくれなかったんだ、なんて憤りすら吹っ飛んでしまう程に、帽子屋にとってはなんの気も無いであろうその一言が私の心を勇気づけていた。涙が、出そうになる程に。


「ありがとう」


 声すら潤む。私は軽く頭を下げて、ステッキの先の向く方へと走った。帽子屋は笑っていた。その顔はやはり間が抜けていて、叱りつけたくなる。しかし、その時ばかりは私までつられて笑ってしまっていた。森の中を走りながら一人笑っている自分は、自分から見ても狂っていると思った。だからこの世界や目に映る何もかもが狂って見えるのだ。それは本当はとても素敵なことだったのだと、この世界で気付かされるなんて。

 帽子屋の言う通り、すぐに森を抜けた。帰ってきた。そうだ、帰ってきたのだ。私は私に帰るべく、私は私として生まれ変わるべく、ここへ……

 息を整え、扉へと歩み寄る。すっかり日は暮れた。白っぽくなった空の反対、迫りくる黒には点々と星が浮かび始めている。長かった。長い1日がようやく終わり、明日という新しい自分を迎える。イルマがいれば、イルマのためなら。私は、ゆっくりと扉を開いた。


「……誰、」


 暗闇に響く、子供の声。リビングの方を見るとテーブルの席に小さな影が見えた。イルマ、ではない。


「あなたこそ、誰?」


 私が聞くと、小さな影はテーブルを離れて薄明るい窓の下に立った。黒い髪に黒い瞳……片眼鏡の、少年。


「…あなたは確か、」


 オズマ。そう言いきる前に、少年は言った。


「帽子屋の孫」


 ……孫? 私が固まっていると、少年は続けざまに言った。


「父さんならいないよ。いや……もう、帰ってこないよ」

「……お父さんって、イルマのこと……だよね」

「アレしかいないでしょ」


 イルマが父親……いや、イルマの外見からして小学生程の子供がいるとは思えない。きっとこの少年も生まれた時から"帽子屋の孫"と言われて……

 無意識に考え耽っていた私ははっとして少年に視点を合わせた。少年はじっと色の無い目で私を見つめている。


「もう帰ってこないって、どういうこと」


 イルマの家族構成を考え込んでいる場合ではない。少年は身体ごと窓の方を向いた。その視線は、真っ直ぐ外の薔薇へと向けられている。


「……あんたのせいだよ」


 薔薇に向けて、少年は言った。


「あんたが来たから、父さんは女王の裁きにかけられることになった」


 裁判。私の、せいで。震える視界の中、少年が流し目でこちらを見た。片眼鏡が光を反射して白い硝子に変わる。しかしその黒い瞳は……冷たく、私を捕えるのだ。


「腐る人形が、父さんを腐らせた」


 足が震え、唇が震え、体中の血が沸々と泡立っているかのように感覚が痺れ、鈍ってゆく。私のせいで。私が、来たせいで。


「イルマは、どうあっても……」

「死刑だよ」


 ぴしゃりと言い放つ少年。悲しんでいる様子も何もない。しかしその目は確かに、怒っていた。


「どうにか、どうにかならないの?! 何で死刑なの?!」


 子供に声を大にして問いかける自分。見境がなくなり始めていると、私を見つめる私は感じていた。


「あんたを匿ったからだよ」

「匿ったって……じゃあ、私が帰ればいいんでしょ?! 元いた世界に!」

「……さあ、それで女王の気が収まるとも思えないけど」

「連れてって! イルマのところに!」


 苦しくなってゆく胸を抑え、私は叫んだ。少年は目を瞑って小さく溜息をつく。


「…本当に、帰る?」

「帰るよ! イルマが死刑にならずに済むなら、なんでもする!」

「……そう。じゃあ、行ってらっしゃい」


 思わずぎくりとしてしまう程に深く、威圧感のある声色。少年がゆっくりと瞼を開くと……その目は、暗がりで紫色に光っていた。淡くしっとりとした色味を放つ瞳。吸い込まれてしまいそうだ。不思議な少年の神秘的な光に、私の目は釘付けになる。

 ざわめく人混み。黄土色の厳かなホール。何が、起こったというのか。茫然と席に座ったまま辺りを見渡していると、人に混じって動物の姿もあった。中央には証言台のような物があり、その正面には大きな椅子が2つあった。まるで、法廷のようだ。……違う。"まるで"なんかじゃない! ここは、法廷!

 私は傍聴席から立ち上がり、前へと駆け出した。すると、衝立の近くで2人の兵士に抑え込まれた。鎧にはトランプの絵柄が彫り込まれている。思い出した……判決を下すのは、"ハートの女王"。


「下がれ! 裁判が始まるぞ!」

「邪魔しないで! たかがトランプの一組が!」


 ハートの4の兜を殴りつけると、ハートの9が槍を突きつけてきた。


「貴様……!」


 その時、何処からともなくラッパの音が響き、法廷内をこだました。それと共に傍聴席は静かになり、大きな椅子の間から一組の男女が現れた。金の冠をかぶり、赤い豪華な衣服を纏う二人。私の目は自然と女を追っていた。あれが、女王。貫禄に満ちた表情。肩にかかったトランプのように白い髪にはところどころ黒い髪が束になって流れている。二人が椅子に座ると、女王が大きくふんぞり返って、言った。


「被告人、入廷せよ」


 証言台の向こう。女王の真正面の扉が重い音を立てながら開いた。傍聴席の仕切りを握る手が、じわりと汗ばむ。ハートの6とハートの7に挟まれて入廷してきたのは、手枷をしたイルマだった。


「イルマ!」


 私が叫ぶと、イルマがこちらを向いた。それと共に兵士達が私を抑えつけて口を塞ぐ。暴れる私を、イルマは目を点にして見つめている。


「貴様、いい加減にしないと……!」

「つまみ出せ! 裁判が始まった!」


 慌てる兵士の肩越しに見えたイルマは、笑っていた。


「伝令士、起訴状を読み上げよ」


 女王の声。椅子の方を見ると、女王の隣に白兎が立っていた。白兎は手にした紙を読み上げる。


「この者、イルマ・ド・ランズダウン・ヴァピュラ……通称"帽子屋の息子"は人間を匿いました」


 ざわめく傍聴席。女王はにたにたと笑ってイルマを見つめている。そして、言った。


「……死刑だ。首を撥ねよ」

「待って!」


 兵士を振り払い、叫んだ。法廷内の視線が、集中する。


「これは裁判でしょ! 何で始まって早々に死刑なんか……!」

「……お主、帽子屋の息子が匿ったという人間か」


 女王はそう言って、すっと片手を上げた。すると、私の口を塞ごうとしていた兵士の手が引っ込んだ。後ろ手に拘束されたまま女王を睨むと、女王は鼻で笑い、言った。


「そうか。この者を助けるためにここまで来たか。感心感心、」

「私は元の世界に帰る。だからイルマを放して。彼は何も悪くない」

「帰る? お前が帰ればこやつの罪は消えるのか?」

「人を助けることの何がいけないの! あなた達は人助けを罪だとでも言うの?!」

「……愚かで無知な人の子よ。"人"を助けたこと自体が罪なのではない」


 女王はひじ掛けに頬杖をつき、見下ろすように私を見た。


「よく聞け人の子。ここでは地上の法など意味をなさぬ。いや……果たして、法や良識はそれに見合った機能をしているのか? 人は法を犯さぬか? 人は良識ある判断をするか? そうではないだろう。どんなに理で縛りつけようと、禁を破る者は後を絶たぬ」

「だから、何。それを抑制するための法律でしょ」

「そんな面倒で穴のあるものより、簡単に確実に裁きを下せるものがある」


 女王の口元が、怪しく歪んだ。


「わらわの"気分"だ」


 この、女!


「ふざけるな!」

「ふざけてなどいない。それがここでの唯一無二の"法律"なのだ」


 怒りのあまり顔が強張り、瞼や唇が意図せず震える。


「まあしかし。お主も大人しく帰るのであれば……考えてやらんこともないな」


 女王の意地悪い視線が証言台のイルマに向いた。イルマはこの期に及んでまだ笑っている。


「帽子屋の息子よ。我が内で燃え上がる憤怒を鎮めたければ白兎同様わらわに仕えるのだ」


 …それは、つまり。



ーーだって白兎が女王に召し上げられてからじゃねぇか。メアリ・アンがいなくなったのは。ま、帽子屋の小僧もいつ女王に目をつけられてもおかしくないしなーー



 それは、つまり。女王の隣、無表情で立っている白兎は横目に女王を見つめていた。どうして白兎が召し上げられたのか。どうしてメアリ・アンがいなくなったのか。白兎の家の内装を思い出し、頭の中で何かが繋がり始める。


「どうする? 帽子屋の息子よ」


 嫌だ。イルマが白兎のようになるのは嫌だ。私がメアリ・アンのようになるのも嫌だ。しかし、死刑を免れるためには……


「……女王陛下、」


 笑顔を保ったまま、イルマが話し始めた。


「お言葉ですが、僕は人間を匿ったつもりはありません」


 落ち着き払った、穏やかな声。


「僕は一人の特別な女性と出会った。それだけです」


 静かな法廷。女王は眉を顰め、白兎は驚いた顔をしている。私も、白兎と同じ顔をして……イルマを見つめていた。


「彼女は僕の名前を聞いてくれた。自分が誰かもわからず、自分の名前すらはっきりと口にできずにいたのに。そして……迷子になって泣いてばかりいた彼女は、僕の手をしっかりと握って歩き出そうとしてくれた。それがどんなに、嬉しかったか」



ーーでも、なんだか嬉しいね。名前を聞かれるのってーー



 イルマの笑顔や言葉が、涙と一緒になって溢れ出す。私の心の、空虚な穴から。何も言葉にできないまま立ち尽くしていると、イルマが優しく微笑んでこちらを向いた。


「心はどうも自由に動かない。僕は君の特別になりたいという気持ちを抑えようとして、君を人形にしてしまうところだった」

「イルマ……」

「そう。君がそうやって僕の名を呼んでくれたから、ようやく僕は自由になれたんだ。ありがとう、みく」


 イルマはそう言って、女王の方を向いた。笑顔は柔らかいのに、その目は鋭く女王を見据える。


「これが、僕の答です」

「……そうか」


 女王が手を上げると鎧を纏った兵士達がイルマを取り囲んだ。私は手を振り解こうともがき、叫んだ。


「やめて……やめてよ! 帰るから! 私が、イルマの代わりに死ぬから! 何でもするから!」

「みく!」


 首に槍を突きつけられながら、イルマは微笑む。時間が止まり、静寂が法廷を支配する。それでも涙は……頬を流れ落ちる。


「……また、君に会いたい」


 イルマの笑顔を最後に、目の前が真っ暗になった。真っ暗な視界で、イルマが映っていた場所から赤い何かが吹き上がるのが見えた。目に痛い、鮮明な赤。パラパラと、舞い上がっては散ってゆく。花弁のようなそれはふわりとこちらへ流れてきた。目に入ったのは、大きくて真っ赤なハートが一つだけ描かれたトランプ。ハートの……エースだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ