5.夫人と猫
迷子の私はやはり悶々と自分という深い森の中で彷徨うばかり。しかし、安心して彷徨えるのもこの手を引いてくれるイルマがいるからだ。この手を放さずにいれば頭の中では出口に辿りつけずとも、私の視界は確かに開けてゆくのだから。
「ついたついた」
イルマが小さく息を吐く。テレビでしか見たことがないような、まさしくお伽話のお城。綺麗な白い壁に、屋根や柱の細かい装飾。
「口、開いてるよ」
イルマにくすくすと笑われた。私はぱくっと口を閉じ、城を見上げていた。ことことと籠った足音が響く木製の橋を渡り、門の前までやってきた。見上げる程に大きな門。その脇にある小さな扉の近くに、鎧を着た兵士が一人立っていた。
「やあ門番、お疲れ様」
イルマが挨拶すると、兜の下から溜息が洩れた。
「帽子屋の息子、また来たのか」
声からして、若い男のようだ。
「急用でね。侯爵夫人にお目通り願いたい」
「会う約束をしていたのか?」
「いや? 約束はしてないよ」
「なら通すことはできないな。明後日来い」
「そう、わかった」
え、いいの? 私が横目に見ると、イルマは門番の横を通って小さな扉を開いた。私の手を引き、当たり前のように中へ入ろうとするイルマ。
「ね、ねぇ。駄目って言われたのに……いいの?」
「あいつはいつもああなんだ。僕が入ったところで問題を起こすわけでもないし、別に構わないだろう?」
理由になっているのか、それは。不安のあまり門番に目をやるが、彼は気付いていないのか気付かないフリをしているのか。真っ直ぐに橋の向こうを見つめていた。
少し屈んで扉を潜り、城内へと足を踏み入れる。城の扉は開け放たれていて、涼しい風が吹き抜ける。広くて豪華な玄関ホールだ。鼻につんと刺さる石の匂いが建物の歴史を物語る。
「こっちだよ」
広すぎる玄関を歩いて左側の階段を上り、玄関を見下ろせる廊下をひたすらに歩く。入り組んだ廊下を暫く歩くと、何やらがっちゃんがっちゃんと騒がしい部屋の前で立ち止まった。
「……ここ、何?」
「ああ、いつものことだから」
イルマは扉をノックした。
「ぁあ?! 誰だ!」
ドスの利いた叫び声。竦み上がっている私の手を握ったままに、イルマは扉を開いた。私は遠慮がちにその手を引いたが……入りたくない意を彼は汲んでくれない。いや、気付いてくれない。
「やあ、シェフ」
びくびくと怯えながら室内を見ると、カーテンで閉め切られた薄暗い部屋にぽつんとソファーが置いてある。そして何故か鍋やら食器やらが床に散らかり、包丁やフォークが壁に突き刺さっている。何だこれは。事件現場か何かか。
「あ?! またお前か!」
半分開いていた扉に何かがぶつかる音がした。すぐ近くにいた私は驚いてイルマの肩に頭をぶつけてしまった。イルマは扉を抑えたままびくつく私を見てにこりと笑い、部屋の中を顎で指した。私は恐る恐る、扉の裏を見ようと頭を出してみる。そこにいたのは、キッチンに立つ一人の男性。コック帽に白いエプロン。鍋やら食器を部屋のあちこちに投げ散らかしている。その行為を除けば、確かに……シェフだ。
「侯爵夫人は?」
「さっきここを出て書斎へ向かった! さっさと出て行け!」
「はいはい」
イルマが扉を閉めると、ドン、という音がして扉から包丁の先が飛び出してきた。それを見つめて、私は放心してしまう。
「いつもはここにいるのになぁ」
「あ、あんなやかましいシェフがいるのに?」
「ああ。部屋の中央にソファーが見えたろう。そこにいつも座っていて、怒るシェフを見て笑ってるんだ」
……やはり、ここの人はまともじゃないな。この世界はどうも心臓に悪い。私はげんなりしながらもイルマについて行った。すると、角を曲がってすぐの扉の前で立ち止まった。黒い浮彫の綺麗な扉。イルマがノックすると、「はい」と優しげな女性の声がした。イルマは扉を開けた。
「……あら、帽子屋の息子」
「こんにちは、侯爵夫人」
玄関やシェフの部屋とは違い、こじんまりとした部屋だ。天井から床まで、窓側の壁以外みっちりと本が詰まった棚で埋め尽くされている。中央のテーブルに本を重ね、ソファーに座って優雅に読書する女性。室内に入ると、イルマは帽子を取って頭を下げた。
「こんにちは。そちらは……」
侯爵夫人は優しく微笑んで首を傾げる。円らな茶色い瞳に、ふわりとまとめられた赤みがかった茶色い髪。華やかなドレスがよく似合う、イルマと同じ穏やかな雰囲気漂う夫人だ。
「彼女はみくです」
夫人の柔らかな空気と美貌に頭がぽーっとしてしまう。おそらく、また口が開いているであろう私を見て侯爵夫人は目を細めて笑った。
「帽子屋の息子の母です。ようこそ、私の城へ」
そうだ、この人はイルマのお母さん。しかし……帽子屋もそうだが、どう見ても若すぎる。それに、あまり似てないような。この世界の家族構造に疑問を抱きながらも、私は軽く会釈をした。
「お茶にしましょうか、チェシャ」
「なんだよ」
背後から突然声がした。振り返ると、扉に寄りかかって腕組をする生意気そうな少年がいた。年は、私と同じくらいだろうか。赤ストライプのベストとスーツ。短い金髪に青い三白眼、不機嫌そうな表情。どれを取っても生意気そうだ。そんな彼の耳に私の視線は自ずと向いた。普通耳があるであろう場所にぴくぴく動く白い猫の耳が生えていたのだ。よく見れば白い二本の尻尾がその背中で揺らいでいる。これくらいではもう、驚かなくなっていたわけだが。
「オズマにお茶の用意をするように言ってちょうだい」
侯爵夫人が本を閉じて積み上がった本の山の上に乗せた。
「もちろん、俺の分もあるんだろうな」
「あなたもおしゃべりしたいの? なら、いいわよ」
「おしゃべりには興味ないけどなー。行ってくる」
侯爵夫人から目を離して振り返るが……チェシャ猫の姿はもう無かった。扉が開いた音もしなかったのに何処へ消えたというのか。私がきょろきょろしていると、イルマがソファーに向かって歩き出した。
「相変わらずチェシャ贔屓ですね」
イルマは私の背に手を回してソファーに座らせると、その隣に自分も腰かけた。イルマの正面で侯爵夫人は小さく笑う。
「あの子が甘えん坊だからそう見えるだけよ。あなたのことも十分贔屓しているつもりなのだけれど……妬いてるの?」
「御冗談を」
「あらあら、寂しいわねぇ」
「そんなことをおっしゃるとチェシャがやきもちを妬きますよ」
これが、親子の会話? どこぞのドラマで見た男女の駆け引き現場のようにしか思えない。小さくなって二人を交互に見つめていた、その時。
「誰が妬くって?」
イルマの後ろからするりとチェシャ猫が現れた。突然視界に飛び込んでくるものだから心臓が跳ねあがり、私はソファーのひじ掛けに向かって身を引いてしまった。
「君だよ、チェシャ」
「俺が? はっ」
チェシャ猫は鼻で笑うと侯爵夫人の後ろに移動し、背もたれに手をついて寄りかかった。驚き過ぎて目を離せずにいた私の視線に気付き、チェシャ猫が眉を顰めた。視線をふと反らしてはみたものの、
「なんだよ、ガキ」
食いつかれた。見限り私と同じガキだろうに。
「みくだよ。そんな威嚇しないでくれ、女の子なんだから」
困って縮こまっていた私の肩に手を乗せるイルマ。チェシャ猫はにやにやと笑いながらソファーの背もたれに肘をつき、私を見据えた。あの目、嫌だ。
「なんだ、メアリ・アンが白兎からお前に鞍替えしたかと思ったのに。つまんねぇな」
チェシャ猫を横目で睨む侯爵夫人。
「滅多なことを言うもんじゃありませんよ」
「だって白兎が女王に召し上げられてからじゃねぇか。メアリ・アンがいなくなったのは。ま、帽子屋の小僧もいつ女王に目をつけられてもおかしくないしな。メアリ・アンが一緒にいるわけないか」
女王に目をつけられるとは……私がチラッとイルマを見ると、イルマは背もたれに寄りかかって余裕そうに笑っていた。
「僕のような一介の帽子屋が女王陛下の目を留められるわけがない。メアリ・アンとも親しくないしね。当分、浮いた話は聞かせられないと思うな」
「そうだな。お前はそうやって希望を振りまいては絶望させるのが得意だからな」
イルマの眉が、ぴくりと動いた。崩れぬ笑顔が、何処か恐ろしく感じる。空気が悪い。侯爵夫人もチェシャ猫をきつく睨みつけていた。
「公爵ってだけで女が寄ってくる。そのうえお前はその容姿だ。何人泣いただろうなぁ、お前の思わせぶりな態度に」
「チェシャ、いい加減にしないと……」
見兼ねた侯爵夫人が口を挟む。チェシャ猫はケラケラと笑った。
「はいはい、本当のことを言って悪かったよ。ちょっと褒めすぎたかな?」
チェシャ猫は俯いて大きく息を吐くと、上目遣いに私を見て笑った。前髪の影から鋭く光る青い瞳に、戦慄が走る。すると、隣でイルマの含み笑いが聞こえた。
「いや、いいんだ。本当のことだからね。嫌な期待を抱かせていまっている自覚もあるさ」
イルマの言葉に先程の自分を思い出し、目が泳ぐ。
「しかし当然、皆に応えてあげることはできない。かといって特別に思う人もいない。悪いね、チェシャには不愉快な思いをさせて」
にっこりと、いつもの笑顔を浮かべるイルマ。チェシャ猫はイルマを冷やかな視線で見つめている。明らかな憎悪。この2人、いや、この3人だろうか。一体どういう関係なのだろう。親子と、そのペットのはずなのに。妙にどろどろとしたものを感じる。そこに、私の中のどろどろとした思いが溶けあうように思える。私はやはり、イルマの事が……
ノックの音。緊張した空気が一気に解けた。皆が扉の方を見ると、銀の食器ワゴンがゆっくりと入ってきた。ケーキとティーセットが乗ったワゴン。それを押していたのは、片眼鏡をかけてシルクハットをかぶった少年だった。黒い髪に、黒い瞳。無表情で静かにテーブルへカップとケーキを並べる。
「オズマもお茶する?」
侯爵夫人が優しく問いかけると、オズマと呼ばれた少年は無言で首を横に振った。なんだか……可愛げのない子供だ。イルマは「ありがとう」と言ってカップに紅茶を注いでもらっている。チェシャ猫は大きく息を吐いてその様子を見ていた。無愛想な少年ではあるが、彼が来ただけで書斎の雰囲気がガラリと変わった。皆がこの少年を可愛く思っているのがなんとなく伝わる。少年はポットを持ち、私の隣へやって来た。テーブルに置かれた私のカップに紅茶を注ぐ少年。長く、黒く艶めく睫毛。子供とは思えない色気が漂う大人びた立ち振る舞い。これは……人気子役も目じゃないな。綺麗な伏目を見ていると、少年の目がきょろりと私に向いた。……可愛い。
「……ありがとう」
そう言うと、少年はぺこりと頭を下げて部屋から去って行った。イルマ達が少年を目の前にして穏やかになってしまう理由がわかった気がした。
「そういえば、」
カップを手に、侯爵夫人が話しだした。
「今日はみくさんを紹介しに来ただけなのかしら。他に用があるんじゃなくって?」
「ああ、そうだそうだ」
イルマは紅茶に砂糖を入れながら言った。
「実は女王陛下と謁見することになりまして……」
「ほらな」
カップを口元に寄せてにやりと笑うチェシャ猫。侯爵夫人がチェシャを睨むが、イルマは気にせず話を続けた。
「その献上品のことで相談に来たのです」
「そうだったの。今あるのは……堕天の烙印と、薔薇の化石と……あ、そういえば中庭で面白いものが見つかったわよ。チェシャ、持ってきてちょうだい」
チェシャ猫は嫌そうな顔をした。
「わざわざここに寄らなくてもお前が帽子作って献上したらいいだろう」
「以前女王陛下にはティアラを作って差し上げたからね。毎度同じものを送るのは好きじゃないんだ」
「とんだすけこましだ」
「もう、チェシャ!」
侯爵夫人が手を振り上げると、チェシャ猫はソファーの裏に隠れた。イルマはそれを見て笑っている。私は……笑えない。あの少年が淹れてくれた茶にすら、手が伸びない。
「ほら、これだろ」
振り返ると、大きな額縁に寄りかかるチェシャ猫がいた。それを見て、私は固まってしまう。
「これは、服、ですか」
「ええ。うちの庭にあったのよ。大洪水で流れついたみたいね」
金の額縁に収められていたのは、私のセーラー服。襟元の黒いラインが、赤いリボンが……私を急激に現実へと引き戻そうとする。私はソファーから立ち上がり、フラフラと額縁に近付いた。
「みく?」
チェシャ猫の訝しげな視線を受けながら、私は額縁にそっと触れる。
「…これ、私の……私の、制服」
「まあ、あなたの。……そう、そういうこと。みくさんは地上から……」
侯爵夫人の優しい声が、急に陰る。
「侯爵夫人、彼女は、」
「でしたら、それを持ってお帰りなさい」
イルマの声を遮る侯爵夫人の言葉。額縁を触れる手が……震える。
「ここはあなたの世界ではないのですから」
「侯爵夫人!」
「あなたもなんてことをしてくれたのです。私がチェシャを飼うのと、あなたが地上の娘を飼うのとは話が違うのですよ」
振り返れない。顔も上げられない。視界にチェシャ猫の白い尻尾が見えるが……その顔は、笑っているように感じる。
「……おっしゃっている意味がわかりません」
「嘘おっしゃい」
イルマと侯爵夫人の会話を背に聞きながらも、私はセーラー服を見つめて考えていた。帰らなくてはならないことは、最初からわかっていた。ただ、私が帰りたくないと願っただけ。どうしていいかわからないことを口実に立ち止まっていただけ。イルマが私の手を引いてくれるのを、いいことに。
「ライオンがシマウマを飼い慣らしますか? 蛇が蛙を可愛がりますか?」
「……彼女は僕の人形です」
「人形。でもその人形は腐ります。早く手放さなければ、周りまで腐らせてしまうのですよ」
周りまで、腐らせて。
「あ、おい!」
私はチェシャ猫から額縁を取り上げ、窓に駆け寄った。そして、硝子に向かってそれを投げ捨てた。割れる窓。日の光に煌く破片の中、金の額縁は真っ逆さまに落ちて視界から消えた。静かな書斎。私は窓際に立ち尽くし、額を抑えた。肩が震える。涙が溢れる。こんなにも、私は。
「みく、どうしたんだ」
イルマの心配そうな声。
「……アレは、もう私のじゃない。目の前にして、やっとわかった。私は帰りたくない」
「…だったら、帰らなくてもいいんだよ」
「帽子屋の息子!」
侯爵夫人の怒鳴り声。そう。私は帰りたくない。しかし、ここにいるわけにもいかない。最初から、帰りつく場所なんてなかったのだ。私は窓の縁に足をかけた。
「みく!」
イルマの声と共に、食器が落ちて割れる音がした。私はそれと共に真下の森に向かって飛び出した。本日、2度目の落下。今度は落ちる先が見える。走馬灯を見る時間も、紅茶を飲む時間もなく私は落ちる。ごうごうと耳を掠める空気の裂ける音。目の前が暗くなった。自分で目を瞑ったのかすらわからない。ただ……暗闇に飲まれる直前、背中にじんわりと温もりが広がった。抱きしめられるかのような、血の流れに包まれるかのような感覚。死は冷たいものだとばかり思っていたが……実際のところ、温かかったようだ。