4.帽子とお茶会
隣でにこにこと笑っている帽子屋のせがれを見た。白兎の圧倒的に綺麗な顔とは違い、どこか柔らかく、優しい雰囲気のある帽子屋のせがれ。横顔だけで、整った顔をしているとわかる。
「あの、ありがとうございました」
「いいえ。それより、君は本当にメアリ・アンじゃないんだね?」
「はい」
この人達はメアリ・アンと私の区別がついていない。どうして。そんなことを考えていると帽子屋のせがれが笑いながら言った。
「さっきは老耄した芋虫が失礼なことを言って悪かった。この世界の住人は皆、他人のことには一切興味がないと言っていい。人違いなんて日常茶飯事だ」
「…私とその、"メアリ・アン"という人が似ているわけではないんですか」
「似ている? 何が」
「その……顔とか、声とか」
「顔……」
帽子屋のせがれは立ち止まり、私の顔を覗きこんできた。顔が近くなり、どっと身体が熱くなる。ずっと握られている手にも、その熱が伝わってしまいそうで嫌だった。どぎまぎしている私を余所に、帽子屋はにっこりと笑って顔を離した。
「さあ、どうなんだろうね。僕はちゃんとメアリ・アンの顔を見たことがないからわからないや」
帽子屋のせがれは帽子に手を当てて歩き出した。
「言っただろう。他人のことには一切興味がないと。この森に住む小さな女で沢蟹じゃないならメアリ・アン、といったところ。それか、その着ている服」
白兎に借りた服。そういえば、これは身体の変化に対応していた。この世界の服だからだろうか。胸から腹を覆う白いエプロンを見下ろし、言った。
「…そんなことで判断するんですか」
「そうだよ。でも間違ったからってなんなんだい。違うならちゃんと訂正したらいい話だろう?」
「でも、私がメアリ・アンじゃないと言っても誰もきいてくれなかった」
「だって君、自分が誰か自分でもわかっていなかったじゃないか」
はっとして顔を上げると、帽子屋のせがれは優しく微笑んでこちらを見つめていた。優しく……冷たい、真っ黒な瞳で。
「自分が誰かもわからないのに間違われて泣いてしまうなんて、どうかしているよ」
「あなた達に……」
「…?」
「あなた達に言われたくない!」
手を振り払い、声を荒げた。帽子屋のせがれは目を点にしている。
「人の顔も覚えない、人の話も聞かない、挙句の果てには人をメアリ・アンと呼んでおきながら"お前は誰だ"と責め立てる! それこそ、どうかしてる!」
何で、助けてくれた人にやたらめたらに怒鳴り散らしているのだろう。それこそ、どうかしてる。図星だ。帽子屋のせがれの言葉が、瞳が……耐えがたい程に私の胸を抉っていたのだ。帽子屋のせがれは、それでも柔らかく笑う。
「…へぇ、そうなの。君はこの世界の住人ではないようだし。君の世界では他人同士顔を覚える程にじっと見つめ合っている……さぞかし暇で、平和な世界なんだろうね」
顔。
ーーどうして学校に行かないのーー
ーー病院に行ってみたらどうだーー
いつも私は、他人の顔色を伺って……
「それって楽しいの? こちらとどっちが楽しい?」
悪びれる様子もなく聞いてくる帽子屋のせがれ。ここで、私の世界で得たものさしは通用しない。
「……楽しくない。ちっとも。こっちも、楽しくない」
「そう」
帽子屋のせがれは首を傾げて何事もなかったかのように歩き出した。その背中を見つめていると、帽子屋のせがれは振り返って手招きをした。他人に興味がない。この人も私の顔なんか覚える気もなく、ただの"どうかしている女"くらいにしか思っていないのだろうか。それが凄く、素晴らしいことに思えてならない。歩き出した私の顔は綻んでいた。帽子屋のせがれの隣に並んで歩き、私は話しかけた。
「あの、」
「何? えーっと……」
「美紅」
「みく、か」
帽子屋のせがれは確認するようにこちらへ微笑む。理不尽に怒鳴られたというのに、本当に何とも思っていないようだ。元の世界なら空気を悪くしたととやかく言われていただろうに。そんなことを考えながら、言った。
「この世界の住人ではないようだ、って言ってたけど。ここは、その、」
「…その?」
言ったところで、わかってもらえる気もしないが。
「ここは、"不思議の国"なの?」
「不思議? 何が?」
やっぱりこうなった。私が「何でもない」と言って微苦笑すると、帽子屋のせがれは首を傾げて前を向いた。
「ついたよ。ここが僕の家」
森を抜けると、木製の質素な家があった。白兎の家のように小奇麗な外観ではないが、一軒分横に広い。平屋で屋根には風見鶏がついており、広い庭には色とりどりの薔薇が咲いている。
「住んでいるのは蟻と蜘蛛とヤモリと……あと、薔薇」
「そ、そう。大家族だね」
「そうかな、僕の家はまだ少ない方だよ」
帽子屋のせがれに案内され、家に足を踏み入れる。中はすっきりとしていて、男の一人暮らし、といった風。
「ここがリビングとキッチン、向こうが工房で、お風呂場とお手洗いはあっち。で、あの扉が僕の部屋。君には屋根裏部屋をあげるよ」
「はぁ……って、え?!」
「何?」
驚く私を不思議そうに見つめる帽子屋のせがれ。こちらの空気に流され、危うく蟻や蜘蛛とファミリーになるところだった。
「私、元の世界に帰り……」
言葉を噤んだ私を見て、帽子屋のせがれは更に首を傾げる。
ーーお前は誰だ!--
芋虫の怒声が耳の中で児玉する。誰かと聞かれても、帰りたいと言いかけようにも……言葉が詰まってしまう。
「……メアリ・アン?」
「い、いや、なんでもない」
「そう、じゃあ部屋で着替えておいで。僕の作業着貸してあげるから」
帽子屋のせがれは部屋に干していた白いシャツと黒くて緩いチノパンのようなものを渡してきた。私は小さく頷き、すごすごと屋根裏部屋へ続くと思われる古臭い階段を上った。このままではいけない。そうだ、帰らなくては。ここは私の世界じゃない。帰らなくては。扉を開き、暗い部屋に入った。ベッドと箪笥しかない、寂しい部屋。暗闇に消えては浮かぶ、"元の世界"。怒る母、呆れる父、他人事の教師、笑う友人、過ぎゆく人々、誰もいない平日昼間の公園。帰らなくてはならないと思うのに……足が、動かない。私はどうしたいのだろう。私は……
ーー……メアリ・アン?--
私は、さっき……!
暗がりの中、私は頭を抱えて座り込んだ。メアリ・アンと呼ばれて何の違和感も感じずに返事をしていた。
「……メアリ・アン?」
帽子屋のせがれの声。階段を上る足音が聞こえる。私は慌てて立ち上がり、着替える。扉をノックする音がした。
「待って!」
ノックの音が止まる。着替えを済ませて「どうぞ」と扉に向かって言うと、ゆっくり、光が差し込んできた。
「着替えた?」
帽子屋のせがれは部屋に入るなり屋根の戸を開いた。暗かった屋根裏部屋に日が差して小さな埃がキラキラと舞っているのが見えた。小さな光の中、帽子屋が私を見て言った。
「うーん……やっぱり少し大きいなあ。これから服を選びに行こうか。ねぇ、メアリ・アン」
「……私、メアリ・アンじゃない」
「そうだそうだ。ついうっかり。みく……だったかな?」
「美紅。美紅の、はずなのに……私は私がわからない」
「……」
帽子屋のせがれの顔が見れない。あの笑顔を見たらまた泣き出してしまいそうで。
「これからどうしていいのか、わからない」
泣くのを堪えているのが、バレてしまいそうで。私が黙り込んで俯いていると、帽子屋のせがれが歩み寄って来た。屋根裏にコツコツと高く響く足音。目の前で立ち止まる、黒い艶々の靴。そして、頭を撫でる優しい手。
「可哀想に。そうか、君は迷子なんだね?」
迷子。
「何もわからないなんてことはない。ただ、帰り道がわからなくなってしまっただけさ。そういう時はじっと耐えるしかないよ。考えたところで仕方がないからね。時が来るまで生きていることが大切なんだ」
生きていること。
「……大切なの?」
「当たり前じゃないか。死ぬってことはね、もう帰り道が閉ざされてしまうということなんだから」
「……」
「君は一人じゃない。僕がいるよ、メアリ・アン」
顔を上げると、にっこりと帽子屋のせがれが微笑んでいた。
「君が、"みく"に帰れる日まで」
日の光にさらされて影ができたその笑顔は、やはり綺麗だった。
私が、私に帰る。彼が私の何を知っていて何を言っているのか。よくわからなかった。しかし、一つだけわかったことがある。私はまだ生きている。ここは死後の世界なんかじゃない。生きていて、私は……迷子なのだ。それがわかっただけで、心がすっと穏やかになってゆく。
「……ありがとう」
「いいえいいえ」
帽子屋のせがれは私の頭から手を離して歩き出した。
「さて、これから君の服を見に行こう。他に何か欲しい物があったら言ってね」
帽子屋のせがれの帽子を斜め下に見下ろしながら軋む階段を下りる。
「家具は一通りあるから……あ、そうだ。女の子だし、可愛い鏡台とか欲しいよね。化粧品とか……あ、ついでにカーテンも華のあるものにしようか。男だけではどうも飾る気分にならなくてね」
「そ、そんなにしてもらわなくてもいいよ。私お金も無いし、これからどうなるかもわからないし」
困ったように私が言うと、帽子屋のせがれは玄関を開けながら笑った。
「僕はこれでも公爵だからね。気にしなくていいよ。それに君が来たからいつもとは違う新鮮な気分なんだ。贈り物でも貰ったような気持ちだよ」
さっきからそうだが……どうしてこう、恥ずかしいことをこうも簡単に言えるのだろうか。文化の壁は想像以上に高いものだ。そんなことを思いながら帽子屋のせがれの後に続いて家を出た。薔薇の間を抜けて、森に入る。
「どうしようかな。馬車か……いや、歩こう。途中、父さんのところにも寄りたいし」
「お父さん?」
「そうだよ。お茶会にいっているんだ」
所謂、"帽子屋"か。
「お母さんもそこにいるの?」
「いないよ。僕は元々侯爵夫人の子供で、父さんは本当の父さんじゃないから」
「養子……ってこと?」
「いや? 僕は生まれた時から"帽子屋の息子"と呼ばれていたから"帽子屋"は僕の父ってことになる。それだけさ」
それ、だけ? 血縁関係もなく、ただ"息子"と呼ばれていたから赤の他人を父と呼ぶ。そこで、ある疑問が頭を過った。
「……名前は?」
「そうか、自己紹介がまだだったね。僕は帽子屋の……」
「じゃなくて、本当の名前」
「……そんなものに興味があるの?」
きょとんとしている帽子屋のせがれ。
「そ、そんなものって……大事なものだよ名前は」
帽子屋のせがれは視線を上にやって少し考え込み、言った。
「そう、普段気にも留めないものだから。でも、なんだか嬉しいね。名前を聞かれるのって」
帽子屋のせがれは小さく笑った。
「僕はイルマ・ド・ランズダウン・ヴァピュラ」
「イ、イルマ……」
「いいよ、イルマで」
「みんなこんなに長い名前なの?」
「貴族や王族、爵位を持つ家の出身だと長いね。だから皆覚えようともしないし聞くなんてこともしない。爵位だって決めごとの優先順位に関係するくらいで、あまり関係ない」
「……自由、なんだね」
「……」
帽子屋のせがれ、いや、イルマは前を向いたまま頬笑み黙り込んでしまった。その沈黙が、"否定"を意味しているとなんとくわかる。自由でないとはどういうことなのか、彼の読めぬ頬笑みを見ながら考えているうちに森を抜けてしまった。木々に囲まれ、置き時計が数台置いてある広場。その真ん中に長テーブルがあり、数人座ってお茶をしている。その中のシルクハットをかぶった男性がこちらに気付いた。イルマは彼に歩み寄り、軽く帽子を上げて見せる。
「こんにちは、父さん」
「おや、帽子屋の息子じゃないか」
仮にも自分の息子をそんな呼び方で。間の抜けた顔をして私を見つめる帽子屋。30歳後半と言ったところだろうか。イルマが父と呼ぶには少し若すぎるようにも感じる。
「そちらは……メアリ・アン。白兎はどうしたんだ」
「違うよ父さん。彼女はみく」
帽子屋はティーカップを置いて、「はぁ」と更に気の抜ける声を漏らした。すると、イルマが私の肩を抱いて帽子屋に手を差し伸べた。
「みく、これが僕の父で帽子屋。あちらが父の友人達。三月兎と……あの眠っているのがヤマネ」
「こんにちは」
私が軽く会釈すると、三月兎が舌打ちをした。きつく睨まれて思わず身を引いてしまった。何か気に障ることでもしただろうか。私が三月兎の視線に怯えていると、イルマは帽子屋に話しかけた。
「父さん、来週女王陛下との謁見がありまして……父さんも是非、とのことです」
「じょ、女王陛下が?」
「次くだらぬことをしたら今度こそ首を撥ねる、と」
帽子屋は嫌そうな顔をして溜息をついた。すると、イルマはへらっと笑った。
「無理をして出席せずともよろしいのですよ? 代わりにみくを連れてゆきますので」
イルマの言葉に私は彼を凝視したが、彼は私の驚いている様子など気にも留めず帽子屋と話している。
「本当か!」
「ええ」
「君、本当に行ってくれるのか!」
帽子屋が期待の眼差しで見つめてきた。私は小さく首を横に振ってみたが、帽子屋は私の肩を抱いて席へと誘おうとする。
「ありがとう、ありがとう! さあ、君達もお茶会に参加したまえ! なぞかけでもして遊ぼうじゃないか!」
「父さん、僕達はこれから用事がありますので」
「いいじゃないか。ここはいつも3時、お茶の時間だ。気にすることはない」
帽子屋に無理矢理席につかされた。イルマに助けを求めようと視線を上げると、目の前には私を見つめる三月兎の顔があった。無作法に肩まで伸びた茶色い髪から覗く、真っ黒な瞳。嫌な物を見るかのような顔をしているのに……にやりと笑った。
「まあまあだな」
三月兎が舌舐めずりをした。かと思うと、視界がぐるりと回った。がちゃがちゃと食器が落ちる音。テーブルの上に押し倒されて茫然とする私に覆いかぶさり、眉を顰めながら怪しく笑う三月兎。
「3時のおやつを食べよう。甘い甘い、悦びのショコラ」
「快楽のケーキ」
「絶頂のプディング……」
三月兎に続き、帽子屋の楽しそうな声とヤマネの眠そうな声がした。三月兎の顔が、近付く。
「や、やめ」
「やめろ」
声を絞り出すと、イルマの低い声と共に三月兎がピタリと動きを止めた。そして引っ張られるように身体を離した。
「彼女は僕の仕事仲間だ。嫌がるようなことはしないでくれないか」
三月兎の髪を掴み上げ、その耳元に口を寄せて囁くイルマ。穏やかで冷たい笑顔。三月兎は無表情でイルマの手を振り払い、荒っぽく元いた席に戻った。イルマは私に手を差し伸べた。
「さ、おいで」
震える手を伸ばし、私はテーブルから下りた。すると、三月兎がテーブルに足を乗せ、俯いたままに言った。
「帽子屋のせがれ、俺は三月兎なんだ」
「……わかってる」
「そうか……そうか。邪魔をされたのは不愉快だが、お前が言うなら」
茶色い髪の隙間から見えた三月兎の口元は、不気味に吊り上がっている。
「……せいぜい、その首が撥ねられないようにするんだな」
「ありがとう」
イルマはにっこりと微笑み、私の手を引いて歩き出した。お茶会を抜けて森へ入ると、大きな高笑いが聞こえた。怯えながら振り返ると、イルマが立ち止まって申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね、嫌な思いをさせた」
「あ、あの、三月兎って」
実際、ああいった状況になると声も出なくなる。まだどくどくと音を立てている心臓を抑えながら聞いた。
「彼か。彼は色狂いの兎だよ。あそこは通称、気違いのお茶会と呼ばれていてね。その中でも父と三月兎は特にいかれている」
苦笑いをして歩き出すイルマ。
「この世界でもいかれてるなんて認識はあるんだね」
「そりゃあ……三月兎は年中発情しているし、父も時々会話にならない。ヤマネは寝てばかりだからまだいいけどね」
「……」
「本当にごめんね、」
私が怒鳴っても、私が泣いても、三月兎の髪を掴んでいても。どんな時も笑顔を絶やさなかったイルマが悲しそうな顔をしている。それが何故か、不思議に感じた。
「……他人に興味ないんだよね」
「…? うん」
「どうして……見知らぬ私によくしてくれるの?」
イルマは驚いたような顔をして、呆れたような、困ったような笑みを浮かべる。
「君は可愛らしい人形をプレゼントされた。君はそれがとても気に入った。どうする?」
「どうするって……大事に、するけど」
「そういうことだよ」
わからない。私を物だとでも思っているのか。しかし、あの謝り顔を見る限りそんな雰囲気はまるでない。この言葉にはとにかく、"気に入った贈り物"以外の何も感じない。それ以上でも、それ以下でもない。
「あ、そうだそうだ。女王陛下で思い出したよ。みく、もう一軒寄りたいところがあるんだけどいいかな」
「…うん、」
他人に然程興味を持たないこのスタンスが心地よく感じていたはずなのに。なんだ、この寂しい気持ちは。イルマに対する好意からなのか考えてみたものの、冷静になればなるほど出会ったばかりの男性に自分への好意を求めて独りよがりな期待をしていたようにしか思えなかった。私はそういう女だった。そういう、醜く浅ましい……それこそあの三月兎のような女なのだ。
帰りたいのに帰りたくない。愛されたいのに愛されたくない。どうも、素直になるということに対して恐怖を感じてしまうらしく。今隣で私の手を引く彼にだって、本当は。