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夢寐の水銀  作者:
3/8

3.芋虫の水煙管

 水を吸って重たくなった手袋を身にしても足は軽い。しかし、心の中の不安定な感情に押し出されているようにしか思えない。走っていないと、それこそどうしていいのかわからなくなりそうで。

 草むらを抜けると、水車がついたこじんまりとした家の前に出た。私は足を止め、息を整え、弾み出しそうな足を抑えてゆっくりと歩き出す。扉の前で背を向けて立っていた白兎が、こちらを向いた。やっと、追いついた。


「あ、あの……」

「メアリ・アン、どこに行っていたんだ。もう予定の時刻を4分も回っている。急いで中から手袋と花束を持ってきてくれ」


 どこから、突っ込んでいいのやら……

 眉を顰めてぽかんとしている私を見下ろす白兎。


「メ、メアリ・アン?」

「ほら、早く! そうこうしているうちに5分時間を押してしまった!」


 白兎は懐中時計を見て貧乏揺すりし始めた。誰かと勘違いしているのだろうか。


「私は美紅です。これ、あなたの落し物……濡らしちゃったんだけど」


 身体に捲きつけていた手袋の端を手で抓んで見せた。白兎は手袋……ではなく。私をじっと見つめていた。


「そうか、君はさっきの。わざわざ届けてもらって悪いがその手袋では仕事がこなせない」

「そ、そうです、よね」


 白兎の情熱的に赤い瞳が冷たく私を見下ろす。それが、嫌に悲しくなった。追って来たこと自体、無駄だったのだから。自分の存在意義を全て否定されてしまったように感じる程、悲しかった。手袋一つのためにここまで来たというのに。


「とにかく、」


 俯く私の肩に白兎が手を置いた。冷たい。


「鏡台の上から手袋と花束を持ってきてくれないか。急いでいるんだ」


 悲しい気持ちも一変して、今度は腹立たしい気持ちが溢れてきた。どんな顔してとんちんかんなことを言っているのかを確認すべく白兎を見ると、至って真面目な顔をしていた。余計に腹立たしい。


「……なんで私が、」

「早く」


 ぎろりと睨まれ、あたふたと扉を開いた。そして勢いのままに扉を閉めた。竈に、木製の可愛らしい家具。先程の食器棚やベッドと揃いのデザインだ。もしかすると、あの穴で私と一緒に落ちてきたのは白兎の物だったのかもしれない。それにしても……まるで女のような趣味だ。私は鏡台を探して階段を上がった。とにもかくにも、これで終わりだ。今度こそ帰るだけ。こんなふざけたところにいつまでもいる義理はない。階段を上り切ると、そこは寝室のようであった。見覚えのあるベッドに、やはり揃いの洋箪笥。そして、ぴかぴかと窓の光を反射する鏡台。花束と手袋、あった。私はそれに手を伸ばしかけ、引っ込めた。帰るとして、着る物が必要だ。窓に歩み寄り、扉の前の白兎を見下ろした。苛立っているのだろう、ぴょこぴょこと動く白い耳。私は窓を開け、下に向かって叫んだ。


「すみません、何か着る物を……」

「好きにしていいから、早く」


 こちらも見ずに冷たく言い放つ白兎に口が尖る。私は荒々しく窓を閉め、洋箪笥に踵を回した。もう怒った。届け物一つでえらい目に遭った挙句、体よくパシリにされて。白兎に対する憤然とした気持ちに箪笥の中を漁る手つきも乱暴になる。しかし、ぴたりとそのささやかな報復行為が止まる。白いスーツ白いシャツ……そして、黒いメイド服。すっきりとしたデザインの、正統派な制服だ。女物は、これ一つしかない。



ーーメアリ・アン、どこに行っていたんだーー



 そうだ。これはその"メアリ・アン"という女性の物か。着ていいものか迷ったが、白兎の使用人ならばいいだろうという都合のいい考えに落ち着く。そして、濡れた手袋を脱ぎ棄てて着慣れぬメイド服に袖を通した。ぴったりだ。私はやっとまともな衣服を着ることができたことに安堵しながら、鏡台の花束と手袋を手にした。

 鏡に、見知らぬ人物が映っていた。茫然とそれを見つめる。黒い瞳、黒い髪、うだつの上がらぬ冴えない表情。そうだ、これは……私は目を見開き、鏡に手をついた。これは、私ではないか。他人を見るような目で自分を見て、何をしているんだ。

 額を抑えて大きく溜息をつくと、鏡台の上に小瓶があることに気付いた。そういえば、今は小さくなっているのだった。自分を自分と認識できなくなったのも、きっとそのせいだ。私は小瓶を手にとり、軽く匂ってみた。先程は小さくなったが、これはどうなのだろう。恐る恐る、試しに舐めてみた。


「……? …!」


 舐めただけだというのに……恐ろしい速度で身体が大きくなり始めた。天井に頭をぶつけたかと思うと、床が抜けて尻もちをついた。その反動で右腕が窓から飛び出してしまった。


「……」


 やばい。ハマった。


「メアリ・アン! 早くしろ!」


 だから、メアリ・アンじゃないって言ってんのに! 白兎の怒鳴り声と共に扉が押されるが、私の足が邪魔になって開かないようだ。今入られても困る。


「…ん、開かないな。裏から入るか」


 やばい。いろんな意味でやばいことになった。洪水にしたり家を壊したり……この世界に来て迷惑をかけているのは自分なのではないか。そう、思い始めていた時。突き出した腕の辺りで音がした。どうやら、裏口は裏口で腕がつっかえて開かないらしい。


「……パッド! パッド!」


 白兎の叫び声が聞こえる。誰かを呼んでいるのか。


「お呼びですかー、旦那様」


 子供の声? 


「呼んだらすぐ来い。何処で何をしていた」

「えー……裏の畑で林檎掘ってました」

「お前は馬鹿か」


 馬鹿だ。こんな巨大化して家にハマっている私を子供がどうにかできるとも思えないが……とりあえず、聞き耳を立ててみる。


「それより、これはなんだと思う」


 外に飛び出していた腕に、何やら棒のようなもので軽く触れられたような感覚が走る。身体が強張り、どくどくと心臓が音をたて始めた。


「えー……腕ですね」

「腕? こんな大きいものが腕なわけないだろう。お前は本当に馬鹿だな。とにもかくにもコレを除けないと中に入れん。さっさとよせろ」

「俺は嫌ですよー」

「……ビル! ビルはいるか!」


 まだ呼ぶのか! もう放っておいてくれ……と、思ってはみるがよく考えたらここは白兎の家。白兎は私の存在などすっかり忘れているようだ。今のうちにどうにかして外に出なければ。私は頭を天井にぶつけながらもごそごそ動いてみる。


「煙突から入るんですか?」


 先程とは違う子供の声。動くのをやめて、外の会話に耳を向ける。


「そうだ、早く行け」

「はーい」


 来るのか! ど、どうしたら……! 身を捩って動いていると、煙突から何やら音がした。思わず、暖炉の中に足を突っ込んで蹴り上げてしまった。すると、空に向かって遠くなってゆく子供の悲鳴が聞こえた。まるでロケット花火を飛ばした時のような……どうやら、罪を重ねてしまったようだ。先程からばくばくと音を立てていた心臓ももう限界だ。破裂寸前。


「もう屋敷を焼くしかないな」


 白兎の言葉に心臓が破裂するかと思った。冷や汗が頬を伝い、息が荒くなってゆく。焼き殺される。


「そうですねぇ……勿体無い気もしますが」

「仕方ないですねー。家に入れないなんて"いえ"ないですもんねー」


 外で大きな笑い声がした。鼠といいこいつらといい……いい加減にして欲しい。私は湧きあがる憤りに任せて身体を動かしていた。しかし、柱がみしみしと音を立てるだけでびくともしない。


「ははは……馬鹿かお前は」

「痛っ!」


 白兎がくだらぬことを言った子供に何やら制裁を加えたようだが、私としては一番にあのウサ耳を引っ張り上げてもぎたい取りたい気分だ。壁を足で押しやりながら外を睨んでいると、足の関節が次第に伸びてゆくのがわかった。これは、小さくなっている! 腕がするりと窓から室内へ戻り、私はわけもわからぬままにすっかり元の……いや、白兎達と同じ大きさになっていた。外の連中はそのことに気付いていないようだ。私は恐る恐る裏口から出て、水車の裏から玄関の方を覗き見た。そこには、子供に無理矢理何かを飲ませている子供と、懐中時計を見て貧乏揺すりをする白兎がいた。今だ。私は近くの茂みに飛び込んだ。

 もう目的も何もない。ただ、走った。……しかし、何処へ行けばいいのだろう。足を止め、その場にしゃがみ込む。さっきまで元の世界に戻ろうと走っていたのは誰。今ここで膝を抱え込んでいるのは誰。帰りたい。帰りたくない。泣いたり、怒ったり、小さくなったり大きくなったり……ここにいる私は、誰だ。

 生ぬるい風を感じた。顔を上げると、目の前には大きな犬がいた。驚いてその場に崩れ落ち、慌てて立ち上がって逃げた。この大きさでは一口でいかれてしまう。逃げなければ……死ぬ。草むらの中を走る私の脳裏を過ったのは、穴に落ちてから鼠と会うまでの混乱していた時間。死んでいるか生きているかもわからなかったのに。あんなにも死にたいと思っていたのに。今走っている私は誰……死に怯えて泣いているのは、誰!

 夢中で走っていると、大きな茸のある場所へ辿り着いた。涙を流しながらも、その傘の上を見て固まった。時がゆっくりと流れる。背を向けた老人が、何かを咥えている。あれは……水煙管。七色に光る煙が、遠すぎる空へと舞い上がってゆく。白髪の老人が、緩く流れる時間に沿うようにこちらを向いた。


「誰だ」


 低く、威厳のある声。その表情もどこか恐ろしい。ふと、父の顔が頭に浮かんだ。


「私の質問に答えなさい、メアリ・アン。お前は誰だと聞いている」


 …またか。私は俯き、震える拳を握った。メアリ・アンと呼んでおきながらお前は誰だと問う老人。もう、沢山だ。そんなの……こっちが聞きたい。


「…わかりません」



ーーどうして学校に行かないの?--



 あの質問に答えた時のような感覚。


「わからない? わからないだって?」


 前は何も答えられなかった。答えるのが怖かった。でも、もうそんなことは考えられない。言葉が堰を切って溢れる。


「身体が大きくなったり小さくなったり……泣いたり怒ったり。もう、自分というものがよくわからないんです。そもそも、ここにいる私は私なのかすらわからない。皆、"メアリ・アン"と私を呼ぶし……」

「それがなんだというのかね!」


 突然の怒号。身体がびくっとして、思わず視線は老人に向いた。老人は目を吊り上げて私を見ている。


「だから、誰かときいているのだ。そんなことはどうでもいい!」

「そ、そう言われても……自分でも混乱してて、」

「自分?! じゃあその自分とは一体誰なんだ!」


 恐ろしさのあまり言葉を失う。身体が震え、涙が溢れる。まるで、怒られた子供のように。


「何が起きようと自分は自分だろう! それを身をもって体験しているのもお前だろう! それなのになんだ、わからないとは!」


 全く、頭に入ってこない。ただ恐ろしい。私はその場にへたりと座り込み、耳を両手で塞いだ。それでも、老人はやめてはくれない。


「さあ、答えなさい! お前は誰なんだ!」


 ……私は美紅だ。なんで、それが言えない。確信が持てない。私は私でしかないはずなのに、どうしてこんなにも不安なのか。私は……誰!


「メアリ・アン!」

「それくらいにしろ、芋虫の御仁」


 指の隙間からするりと染み込むような声。固く閉じていた目を開き、ゆっくりと振り返った。私の後ろに立っていたのは、帽子をかぶった一人の男性。白兎とは正反対の黒い髪に黒い瞳。そして、中世貴族を思わせる黒い衣服。


「…なんだ、帽子屋のせがれか」


 帽子屋の。鼠が言っていた、帽子屋のせがれ。この人が……


「この子はメアリ・アンじゃないよ」

「やはり偽物か」


 芋虫の御仁と呼ばれた老人は眉を顰めて七色の煙を吐き出した。帽子屋のせがれと言われる男性は私の手を取り、にっこりと微笑んだ。ここに来て、初めて人の笑顔を見た。とても懐かしく、温かく感じる。その冷たい手すら……どこまでも、温かく。


「おいで、ここにいては年寄りの暇つぶしにいじめられてしまうよ」

「いじめとは人聞きの悪い。で、お前は何の用だ?」


 帽子屋のせがれに手を引かれ、私は立ち上がった。足にはまだ上手く力が入らない。


「茸をもらっていこうと思っていたんだ。鼠に呼び出されたのはいいものの、大きくなるケーキを家に置いて来てしまってね。このままでは帽子を作るにも手間がかかってしょうがない」

「私の帽子を作るには申し分ない大きさだと思うがね、」

「今は黒豹の帽子を作っているから。今度また注文してくれるかな」

「…そこの青い茸だ、持って行け」

「助かるよ」


 帽子屋のせがれは私の手を握ったまま芋虫の茸に歩み寄り、傘の下に生えていた青い茸を取った。


「あ、あの、私にもそれをください!」


 やっと、声が出た。芋虫と帽子屋のせがれが私を見る。


「君も大きくなりたいの?」

「あ、いえ……その、元の大きさに戻りたくて……」


 おどおどと答えると、芋虫が不機嫌そうに言った。


「どうして」

「やっぱり、小さいままじゃあ不便で……」

「不便だと! 何を言っているんだ、十分な大きさじゃないか!」


 再び耳を劈く芋虫の怒鳴り声。恐怖感を煽るそれに、私は一歩後ずさりしてしまう。


「白兎を追える! 犬からも逃げられる! 十分な大きさだというのにお前は……!」


 何故、それを知って……

 疑念が恐怖を上回った、その時。


「年寄りは怒りっぽくて困る。元の大きさが一番しっくりくるに決まっているじゃないか」


 帽子屋のせがれが笑いながら青い茸をもう一つ取った。


「しっくりくるこないの話ではない! 不便と感じる前にすることがあると言っているのだ!」

「わかったわかった。じゃあ、この子には黒豹の帽子作りを手伝ってもらうため、元の大きさに戻ってもらう。それでいいだろう?」


 芋虫に向かって笑いかける帽子屋のせがれ。私はいつの間にか、彼の手を強く握りしめていたようだ。穏やかな笑顔を見て緩んでゆく自分の手に気付いた。


「お前はいつもいつも……甘いんだ」


 芋虫は顰めっ面をしてそっぽを向いた。


「ほら、」


 帽子屋のせがれに茸を差し出され、私は泣きだしそうになりながらそれを受け取った。


「明日までに仕上げなくてはならないんだ、急ごう」


 帽子屋のせがれが茸を躊躇いなく食べたので、私も思い切って一口齧ってみた。すると、みるみる芋虫の茸が小さくなってゆく。元の大きさ……かはわからないが。大きくなれた。帽子屋のせがれはしゃがみ込んで芋虫に話しかけた。


「じゃ、また」

「……」


 芋虫は私を睨むように見上げ、言った。


「メアリ・アン、」

「……」

「お前は誰なんだ」


 誰。


「…美紅です」

「みく。そうか、メアリ・アンではないのだな」


 私が頷くと、芋虫は目を伏せた。


「……そうか」


 何処か、悲壮感漂う芋虫の表情。小さくてよく見えないが、何かを思い出しているかのような……そんな、声色。私なんかに興味はなくて。この人の興味は、本当は"メアリ・アン"に向けられていて。


「さ、行くよ」


 小さな老人を見つめていた私の手を引き、帽子屋のせがれが歩き出した。私は少し振り返ってみたが、もう草むらの影になってその背中は見えない。見えるのは……空に浮かんでゆく七色の煙だけ。

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