2.兎の穴
学校に行きたくなかった。病院にも行きたくなかった。だからと言って、家にも帰りたくなかった。
昼下がりの公園の前。平日なのもあって、道を歩くのは私一人だった。秋風に吹かれたブランコの軋む音が遠くに聞こえるが、これといって視線を向ける気にもなれない。何もする気になれない。しかし、このまま制服で表を歩こうものならまた補導されてしまう。平日の昼間、誰もいない外とはいえ警察は暇そうにドライブしているのだから困ったものだ。
「……お嬢さん」
低く澄んだ声が上の空だった脳みそに突き刺さる。視線の先には白い靴に、白いスーツの裾。長い足をなぞるように視線を上げた。
「ここはどこですか」
白いスーツに白いトレンチ。白いシルクハットまでかぶった白い髪の男。まさしく、白装束だ。こんなど田舎の風景には不似合いな相貌に、それはまた彫の深い端正な顔立ち。目を奪われる、とはこういうことか。言葉を失い、真っ白な視界の中彼の赤い瞳に捕われていた。
「……あの、」
「あ、ああ、ここは南町ですけど」
我に返り、慌てて返事をした。思わず一歩後ずさり視線を反らしてしまった。外国の人、だろうか。引っ越して来て道にでも迷ったか。様々な考えに頭を巡らせていると、白い男性は小さく唸って、言った。
「急いでいるのに、どうしたものか」
男性の困ったような呟きに視線を向けると、男性は真っ直ぐに私を見ていた。その赤い視線はやはり、心臓に悪い。何か言いかけている男性を目の前に身体が強張ってしまう。
「ここの経緯度を教えていただけますか」
経……緯度?
「さ、さあ……わかりません」
苦笑いしてそう答えると、白い男性は萎れた顔をした。私が悪いのか。男性への疑問は募るばかり。からかっているのか、大真面目なのか……さっぱりわからない。すると、白い男性はポケットから懐中時計を取りだした。金色の、綺麗な時計。鎖と共に顔を出した白い手袋が、ぽとりと寂しげに地面に落ちた。男性は気付いていない。仕方が無く、私は腰を折って手袋を拾い上げた。
「……これ、」
……いない。目の前にいた男性が消えた。焦点を向こうの路地へ合わせると、白いトレンチが角を曲がるのが見えた。私は手袋を二度見して、慌てて追いかけた。薄暗い路地に入り、角を曲がって叫んだ。
「あの、これ落としましたよ!」
なんだろう。ふわりと軽い……浮いたような感覚。ふと下を見ると、マンホールの穴がでかでかと口を開けていた。
「!」
浮いたわけでもなんでもなく、ただ単に落ちる直前だったのだ。案の定、暗い穴の中にストンと落っこちたわけだが。しかし、そんな"ストン"と着地する気配もない。ごうごうと空気を裂く音が耳を掠めてゆき、真っ暗で奥深い穴をただただ落ちてゆく。あ、これ死んだ。この高さは無理だ。足から落ちるか尻から落ちるか考えてはみたものの、どう考えても内臓が飛び散るパターンだ。潔く頭からいくか……私は身を捩って頭を下に向けようとした。が、うまくいかない。まごまごしていると、すぐ隣に食器棚が落ちてきた。アンティークだろうか。手書きのような花模様や浮き彫りの戸棚。
「……」
目に入ったのは、瑠璃色のティーポットとカップ。手を伸ばしてそれをとり、蓋を開けてみた。熱い。淹れたてだ。ふと視線を上げ、上を見てみる。マンホールの口も見えないところまで落下してきたようだ。そして下も見る。まだまだ長そうだな。私はカップを取り、それに紅茶を注ぐ。いい匂いがしたが、紅茶は詳しくないので種類まではわからない。ポットを棚に戻し、紅茶を一口飲んだ。
「……あれ、」
おいしい。飲み慣れない紅茶に胃を温められ、何故か……涙が溢れた。そして今更になって昔のことが頭を過り始め、カップを持つ手が震えた。涙は上へ、上へと流れてゆく。世の中が憎くて仕方なくて、皆死ねばいいと思った。でも……私が死ねば話は早い。死にたかった。でも勇気がなかった。それが、今叶う。
走馬灯が過ぎ去ると、どこか晴れ晴れとした気持ちになっていた。涙を拭い、下を見る。
「…まだかな」
いいタイミングでは、死なせてくれないもんなんだ。そんなことを考えていると、目の前が突然明るくなった。落ちる! 私はぎゅっと目を瞑った。すると、ふかふかとした感触が背中を覆い、大きな落下音と共に身体が上下に跳ね返る。
「……痛っ!」
跳ねあがった身体は、今度は固い床に打ち付けられた。腰が……固く瞑っていた目を開けて辺りを見渡す。白い部屋。学校の教室くらいの広さはあるだろうか。真ん中には丸い一本足のテーブルがあり、後ろには一緒に落下してきたと思われるベッドがあった。あれのおかげで助かったのだろうか。いや、あんな高さから落ちて無事でいられるはずなど……もしかしたら、ここが死後の世界なのかもしれ――――――
「もう裁判が始まってしまう。遅くなってしまった」
聞き覚えのある声に、視線は自ずとそちらへ向いた。テーブルの下を走る鼠程の小さな影。それは、白い男性だった。何であんなに小さく……混乱して頭が上手く回らない。腰を撫でていた手も止まってしまっていた。とりあえず穴に落ちてからのことを整理していると、白い男性はシルクハットを取った。帽子の中から出てきたのは、白い兎の耳。驚きのあまり、喉がぐっとおかしな音を立てた。息を止めて男性の背中を見ていると、男性はそれはまた小さな扉の向こうへ去って行った。
「……これ、これって、」
見覚え……いや、聞き覚えのある展開。私は四つん這いになっていた身体を立て直し、その場にへたりと座り込んだ。これは……あれだ。不思議の国の……誰かさんの。そうだ。落ち着け。そんなはずはない。夢だ、夢に決まっている。それかこれが死後の世界なんだ。夢ならばいつか覚めるだろうが……死後の世界となると、この先へ進まないと天国とやらに行けないのではないか。そうだ、とりあえず落ち着いて……
動転している私の目に入ったのは、一本足のテーブルだった。ろくな考えもまとまらない私は吸い寄せられるようにふらふらとテーブルに歩み寄る。小さな小瓶があった。こういうものを口にすると、身体のサイズが変わる……だったか。なんとなく小瓶を手に取った。ラベルを見ると、"私を飲んで!"と書いてある。卑猥だ。大きく深呼吸して、小瓶を手に考えた。あの白い男性はおそらく……白兎だ。急いでいる雰囲気、懐中時計。昔聞いた話のままだ。あとはチェシャ猫と女王様と……駄目だ。思い出せない。死後の世界が不思議の国ならちゃんと読んでおけばよかった。しかし、誰がこんなことになるなんて予測できただろう。学校サボって、病院サボって平日昼間の公園の前でお伽話の白兎と遭遇するなんて。
私は卑猥なラベルを見つめ、溜息をついた。いつの間にか死んでしまったかのような考えで頭が占められていたが、この際生死については考えないことにしよう。どちらにせよ、この部屋を出なければどうともなりそうにない。
私はコルクを抜いて渋々小瓶に口をつける。なんだろう……甘くて、それでいて酸味があり、どこか香ばしく脂っぽくて……まずい! 小瓶は手からするりと抜け落ち、テーブルの上に転がった。無理だ。全部飲みきれない。どんな罰ゲームだ。昼ごはんも戻ってきそうな勢いで咳込んでいると、妙な違和感に気付いた。身体が、小さくなってゆく。ぶかぶかになってゆく制服を見ていると、テーブルに転がる小瓶が目に入った。その飲み口に小さな鍵がぶら下がっているではないか。あたふたとそれに手を伸ばすが、届かない。ついには先程の男性と同じく鼠のように小さくなってしまった。
「……やばい」
もそもそと服の中から這い出て上を見た。遥かかなたの小瓶。意味ありげな鍵を置いてきてしまったわけだが……開くだろうか。辺りを見渡し、誰もいないことを確認する。私は制服から飛び出し、扉へと駆け寄る。そして、ノブを捻った。ですよね、開きませんよね。そそくさと制服の下に戻った。誰もいないとはいえ、全裸で部屋にいるのは気が引ける。絵本で読んだ御伽話を思い返そうと頭を捻るが、やっぱり思い出せない。詰んだ。人生も詰んでたのに死んでも詰んだ。
「…あ、」
諦めかけたその時、テーブルの下にちょこんと置いてある黒い箱を見つけた。ちょうど私の大きさなら掌におさまる程度の箱。望みはアレに託された。私は制服の下をもそもそと移動して箱に近付いた。袖の辺りから手を伸ばし、箱を手に取る。私は期待に胸を膨らませて蓋を開けた。蓋の裏にはばーんと大きく"私を食べて!"。やっぱり卑猥だ。生唾を飲み込み、冷めたカップケーキを手に取る。そして、齧った。悪くないプレーン味だが……パサパサしていて先程の紅茶が恋しくなる。眉を顰めて乾いたケーキを無理矢理飲み込むと、身体を覆っていた制服が動き出した。いや、違う。私が大きくなっているのだ。計画通り……かと、思いきや。目の前のテーブルがみるみる小さくなってゆく。大きくなる速度は緩むことなく、部屋という箱にすっぽりと詰められてしまった。全裸で。テーブルも身体の下になっているのか、手を足の下で動かしてみるが見つからない。詰んだ。今度こそ終わった。
私は膝を抱え、丸くなった。それでもこの箱の中は狭い。棺桶でももっと広いだろうに。こんなところで……死ぬのだろうか。いや、死んでいるような気構えであったはずなのに。まだ"生きている"かのような不安が溢れる。一糸纏わぬ惨めさも相まって涙腺が刺激され、気付けば泣いていた。ふと、腰の下で下敷きになっている制服に目がいった。そこから飛び出している白い手袋。身を捩ってそれを抓みあげた。もとはといえば、コレを届けようなんて思ったのが全ての元凶だ。小さくなったり大きくなったり、挙句の果てには全裸……全裸だ。嫁入り前の16歳が全裸。もう嫌だ。帰りたい……いや、帰りたくない。しかしここにもいたくない。何なのだろう。私は一体どうしたいのだろう。
「忙しい忙しい、時間が押している」
この声は。視線を上げると、足元を走る白い男性……いや、白兎がいた。べそべそと泣いていたがために気付かなかったが、床は何やら水浸しになっていた。白兎はばしゃばしゃと水の中を掻き分けて走っている。
「あ、あの!」
声をかけると白兎は私を見て仰天し、手に持っていた花束を落した。そして、逃げるように排水溝のような穴の中へ消えた。
「待って!」
呼び声も虚しく、白兎は行ってしまった。私は白兎が落とした花束を見つめた。助けを求めることすら叶わないのだという絶望感に涙が溢れる。しゃくりあげながら泣いていると、いい匂いがした。花、だろうか。ぐずりながら花と白い手袋を交互に見る。物を落しては拾いもせずに去ってゆき……もしかしたら、要らないのかもしれない。だとしたら、どうして私はこんなところまで。
「……ん?!」
手袋を凝視した。なんだろう。手袋が……大きくなっている。それを見て涙も引っ込んでしまった。みるみる小さくなってゆく身体。何も飲んでいないのに、何故。窮屈だった部屋が次第に広くなり、天井が遠くなってゆく。それを茫然と見つめていると、小さくなると共に身体が水に浸かってゆくことに気がついた。しかし、身体は小さくなってゆくばかり。やばい。足がつかなくなり、私は慌てて手袋に掴まって立ち泳ぎをした。ちょうど先程と同じ鼠の大きさ……だろうか。私は振り返り、投げ捨ててしまった花を見た。身体が小さくなるのは止まったようだ。あれは花が原因だったらしい。ぎゅうぎゅう詰めよりはマシだが、これからどうしたらいいのか。水中の奥深くに扉はあるが、泳ぎは苦手だ。潜水は諦めて他の道を探そうと顔を上げた。
「!」
驚きのあまり手袋から手を離しそうになってしまった。目の前には訝しげな顔をした見知らぬ男がいたのだ。目を開けたり細めたりして私を見ていた。黒い短髪に白っぽい瞳。上半身には何も纏っていないようだが、黒い作業着のようなものをはいている。
「だ、誰ですか……」
「は? 俺は鼠だ。見てわからないか?」
わからねぇよ。と、ぼそりと脳内で突っ込んでしまっていた。鼠と名乗る男は呆れたように息をつき、横目に私を見て泳ぎ出した。
「お前に構ってる暇はない。じゃあな」
「あ、待って!」
私は腕を伸ばして鼠の腕を掴んだ。鼠は煩わしそうに振り返る。
「…なんだよ! あのな、どっかの誰かが大泣きしたせいでこんな大洪水になっちまって、おかげで生死の境にいるんだこっちは!」
鼠の剣幕に押されて固まってしまう、大泣きした"誰か"。
「まだ水かさが増えるかもしれねぇ、早くここから出ないと溺れ死んじまう」
「わ、私も連れてって!」
鼠は嫌そうな顔をしながも少し考え込んでいるようだ。一方私は駄目と言われてもついて行く気だ。冷たい水の中、鼠が私の手を握った。突然のことに、心臓が大きく脈打つ。鼠の乳白色の瞳がこちらを向いた。
「お前、名前は?」
「…藤野美紅」
「なげぇな。俺の小さい脳みそじゃあ覚えられないだろうっていう厭味か?」
鼠の目に角が立つ。私は大きく首を横に振った。
「み、美紅! 私は美紅!」
「……みく。あ、そ。仕方ねぇから連れてってやるよ。来い」
鼠は私の手を引いたまま泳ぎ出した。手の感触、表情。どれをとっても人にしか思えない。鼠やら白兎は人でないのなら何だというのか。そもそも、ここは何処なのか。
「…なあ、」
鼠が背を向けたまま話しかけてきた。握られた手に、思わず力が入る。
「この洪水、お前のせいだろ」
「……」
おそらく、いや、十中八九自分のせいだとは思う。しかし言えない。
「そ、そんなこと……」
「じゃあその手袋はなんなんだよ!」
鼠が振り返り、きつく睨みつけてきた。私は手袋で身を隠しながら、おどおどと答える。
「な、何って……濡れた手袋、だけど」
「……これがほんとの"濡れ衣"、ってな」
にへらっと笑う鼠。呆気に取られて固まる私。
「……」
「…笑うとこだよ」
笑えねぇ! 笑えねぇよ! しかも何で何事もなかったかのように泳ぎ出してるんだよ! 収拾つけろ! ……なんて言えるはずもなく。気まずいと思っているのもおそらく私だけだろう。無言のままに細い通路を泳いでゆく。この空気感のせいで水の温度がやけに冷たくなったように思う。
暫く泳いでいると、出口が見えた。丸い光の向こうには土手のようなものが見える。
「ほら、出たぞ」
鼠に手を引かれて土手に上がると、数羽の鳥と一人の女性がいた。私は濡れた手袋を身体に捲きつけ、その様子を見つめていた。
「君は私より年下だというのに随分な口の利き方だな」
威厳ある声色のオウム。
「うるせぇジジイ! 俺は急いで巣に帰らなきゃならねぇのにジジイの小言を聞かされて苛々してんだよ!」
輩口調の雀。鼠は私の手を離して、その輪へと歩いてゆく。振り返った女性に鼠は軽く手を上げた。
「よう、沢蟹。お前も来てたのか」
「遅かったじゃないか。こいつらどうにかしておくれよ。さっきからぴーちくぱーちくうるさいんだ。うちの子達もおちおち眠れやないよ」
沢蟹と呼ばれるスナックのママ風な女性は溜息をついて鳥達を見ている。鼠は鳥達の間に割って入り、言った。
「その辺にしとけよ。で、帽子屋のせがれには連絡ついたのかい」
帽子屋の……"せがれ"?
「連絡しようにもバッタ一匹つかまらない。だから誰かが呼びに行けばいいと言ったんだ」
「ジジイ! お前さっき俺に行けって命令したよな! みんなずぶ濡れで動けねぇってのに長生きを傘に着た物言いしやがって……!」
再び口論を始める鳥達。そんな鳥達を宥める鼠。どうやら、鼠はこの一帯ではリーダー的存在のようだ。沢蟹と呼ばれた女性も鼠の頼れる背中を見てうっとりしている。私はこの間、ずっと迷っていた。謝ろうか、知らんふりをきめこむか。この鳥達は要するに、私が大泣きしたせいで困っているのだ。鼠や沢蟹も洪水の被害を被っているようであった。謝ってどうにかなるものでもないとわかってはいたものの、言い争いを目の前にしてとてつもなく申し訳ないことをした気持ちになったのだ。
「ちょっと失礼、」
突然、鳥達の間に飛び込んで来た一人の男。それを見て、私は身に纏った手袋の指先を握りしめた。白兎。鳥達の間を駆け抜けて草むらへ消える白兎に向かって、私は走り出していた。
「みく!」
振り返ると、鼠が腰に手を当ててこちらを見ていた。沢蟹や鳥達の視線も私に集中する。
「白兎を追うのか」
「…私、あの人に落し物を届けにきたの」
自分で言っておきながら、私は妙な感覚に見舞われていた。鼠は朗らかな笑みを浮かべて片手を上げた。
「そうか、気をつけてな」
「……ありがとう」
鼠に背を向け、私は草むらの中を走った。どうしてこんなに必死になって走っているのか。どうして白兎を見た途端に手袋を届けなくてはならないような気になっているのか。帰りたくない、帰りたい……自分がどうしたいのかがわからないから必死になれるのか。やるべきことがわからないから目の前の目的を真っ直ぐに追えるのか。こんなにも早く走れるというのに……どうして、どうして"向こう"では足が竦んでしまったのか!