第2話 知らない街とエルフの家
布を足に巻き終えるまで、セレスは少し離れた場所で待っていた。
ひよりが立ち上がると、彼は森の奥ではなく、木々の間に続く緩い下り坂へ向かった。歩き出す前に一度だけ振り返る。
「足が痛むなら言え。街までずっとこの道というわけではない。少し進めば、もう少し歩きやすい場所に出る」
ひよりは小さく頷き、その後ろを歩いた。
布越しでも土の凹凸は分かる。小石を踏めば痛いし、木の根を越えるたびに足元を確かめなければならなかった。セレスは先へ行きすぎず、ひよりが遅れると自然に歩調を落とした。
しばらく歩いたところで、ひよりは道端に生えている草へ目を向けた。葉の縁が薄い青色をしている。日本では見たことがない。
セレスもそれに気づいたらしい。
「あれが気になるか?」
ひよりは少し迷ってから頷いた。
「ルシア草という。夜になると葉の縁が淡く光る。珍しいものではないが、街中では庭に植える者もいるな。灯りになるほど明るくはないから、実用品というより観賞用だ」
それだけで話が終わるのかと思ったが、セレスはさらに続けた。
「昔は旅人が道標に使ったという話もある。もっとも、雨の多い土地ではよく増えるから、道標どころか辺り一面が光って役に立たなかったそうだ。記録を書いた者は風情があると喜んでいたが、迷った旅人にしてみれば笑い事ではなかっただろうな」
ひよりは草を見ながら歩いた。
返事をしなくても、セレスは気にしていないようだった。それが助かる。何か聞かれれば答えなければならないと思ってしまう。うまく答えられなければ相手を苛立たせるのではないかと考える。けれどセレスは、一つ尋ねたあと、自分で話を広げてしまう。
少しして、今度は彼の方から尋ねた。
「先ほど、仕事をしていたと言ったな」
「……はい」
「どんな仕事だ?」
ひよりは困った。仕事の内容そのものではない。説明の仕方が分からない。パソコンと言って通じるのか。そもそも電気もないかもしれない世界で、どこから話せばいいのか。
黙っていると、セレスが横目でこちらを見た。
「説明しにくいものか?」
「……たぶん」
「なら、急がなくていい。俺も聞きたいことを一度に尋ねると、どこから聞いたのか分からなくなることがある。研究の話ではよくやる失敗だ」
そこで話題を切り上げ、また森の植物について話し始めた。
やがて足元から柔らかい土が減り、踏み固められた道へ出た。そのまま進むと木々の間隔が広がり、遠くに空が見えるようになった。
森を抜けた先には、なだらかな草地が続いている。さらに向こうには高い石壁があり、その内側からいくつもの屋根が見えていた。壁の手前には道が伸び、荷車が行き交い、人が歩いている。
ひよりは足を止めた。
セレスも数歩先で止まる。
「見えてきたな。あれが俺の住んでいる街だ」
ひよりは返事をしなかった。
道の先にある門には人が集まっている。森の中ではセレス一人だけだった。それでも怖かったのに、今度は知らない人が何人もいる。
近づいてくる三人組を見た瞬間、ひよりは反射的に道の端へ寄った。三人が通り過ぎても、すぐには動けない。
セレスはその様子を見てから尋ねた。
「もしかして、人が苦手なのか?」
ひよりは少し迷ってから頷いた。
「……はい」
セレスはひよりと、先ほど三人が歩いていった道を交互に見た。
「なるほど。森で会ったときから随分警戒されているとは思っていたが、俺だからというわけでもなかったのか」
ひよりは返事に困って俯いた。
セレスはそれ以上追及せず、門の方へ目を向けた。
「あの門は商人がよく使う。今も人と荷車が集まっているな。別の方から入ろう」
彼は石壁の南側へ目を向けた。
「南にも門がある。少し遠回りになるが、そちらは住宅地に近いから今の時間なら人は少ない。俺の家へ行くにも、あちらから入った方が近いな」
「……遠回り」
「気にするな。急いで帰る理由もない。それに、あの門は俺も好きではない。荷車が三台も並ぶと、通り抜けるだけで随分待たされる。以前、依頼品を届ける途中で捕まったときなど――」
セレスは話しながら石壁に沿う細い道へ向かった。ひよりもその後を追う。
門から離れるにつれて、人影は少なくなった。それでも誰かとすれ違うたび、ひよりはセレスの後ろへ寄った。セレスはそれについて何も言わなかった。
やがて着いた南側の門には、門番が二人いるだけだった。
ひよりはそこでまた足を止める。知らない人に見られる。何か聞かれるかもしれない。どう答えればいいのか分からない。
セレスは先に門へ近づいた。門番の一人が彼を見て軽く手を上げる。
「今日は遅かったな、セレス」
「少し予定外のことがあってな」
門番がセレスの後ろにいるひよりを見た。視線が向いただけで、ひよりは俯く。
「そっちは?」
「俺の客だ」
セレスはそれだけ答えた。
門番はもう一度ひよりを見たものの、それ以上は尋ねなかった。
「そうか。通っていいぞ」
門を抜けるまで、ひよりは顔を上げられなかった。
石壁の内側へ入ると、道の両側に建物が並んでいる。この辺りは二階建てほどの家が多く、店らしい建物はほとんどなかった。それでも道を歩く人はいる。
ひよりはセレスのすぐ後ろを歩いた。
「もう少しだ」
その言葉に頷く。
角を二つ曲がった先で、セレスが一軒の家の前に止まった。石造りの一階に木造の二階が重なり、玄関脇には小さな庭がある。
セレスが扉を開ける。
「入れ。今のところ、俺以外は誰もいない」
人がいない。
その一言で、街へ入ってから張り詰めていたものが少し緩んだ。とはいえ、知らない男の家であることに変わりはない。
ひよりが入口で動けずにいると、セレスは先に中へ入り、持っていた革袋を棚へ置いた。
「すぐに入れとは言わないが、そこに立っていると通りからよく見えるぞ」
ひよりは振り返った。道の向こうを一人の女性が歩いている。
慌てて家の中へ入った。
セレスが扉を閉めると、外の音が遠くなった。ひよりはそこでようやく長く息を吐いた。
セレスはその様子を見たあと、外套を脱いだ。
「森で俺と会ったときも随分緊張していたが、街ではそれ以上だったな。先ほど人が苦手だと言っていたが、なるほど、あれでは確かに疲れるだろう」
ひよりは俯いた。
「……ごめんなさい」
「なぜそこで謝る?」
「……遠回り、させたし」
「俺が道を変えただけだ。お前が無理に人混みを通って具合を悪くするより、少し歩く方がよほど早い。それに、遠回りといっても大した距離ではない。研究中に資料を取りに書斎と作業室を何度も往復している日の方が、俺はよほど無駄に歩いている」
ひよりは何と返せばいいのか分からなかった。
セレスは気にせず、廊下の奥を指す。
「まず座ろう。足もきちんと手当てした方がいい。茶も淹れよう。食べられないものがあるなら、そのとき教えてくれ」
そう言って歩き出したセレスの後を、ひよりは少し遅れてついていった。
森よりは怖くない。街の道よりもずっとましだった。少なくとも扉が閉まっていて、今ここには知らない人が何人もいるわけではない。
そのことに安心している自分に気づきながら、ひよりはまだ、この家でどれくらい過ごすことになるのか想像もしていなかった。
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