第4話 中納言の慧眼
「何をおっしゃいますか! 誠のことにございます!
恥傷を負わせた現場を見た者が幾人もいるのですぞ! それを嘘だと申されますか!」
稲葉のおっさんは唾を飛ばしながら怒り狂う。
つい俺は結論から言ってしまったが、まず何か理由を添えるべきだった。当然の反応だ。
ちなみに、恥傷とは背中に負った傷のことを指す。
すなわち、武士にとって逃げることは恥であり、その際に背中に負った傷は、逃げる以上の恥としてされている。
「違う、違う。家康に恥傷を負わせたのは疑っていない。
その小僧には品がある。疑っているのは名前と出自だ。本当は違うのだろう?」
だが、俺の顔見知りは脇役。その法則を語ることはできない。
少し考えてから適当な理由を並べてみたが、それもまた事実ではある。
稲葉のおっさんの後ろに控える少年と目が合ったのは一瞬。
その瞬間から、少年は目を伏せ、今は頭を垂れて、俺と一度も目を合わせようとしない。
これは後ろめたいことがあるからでも、俺を恐れているからでもない。
小早川秀秋が『中納言』であり、殿上人であると知っているからこその、敬いがそこには感じられた。
なにせ、今日出会った足軽たちは全員粗野で、端的に言えば礼儀知らずだった。
恐らく、稲葉のおっさんを偉い人だとするなら、俺はもっと偉い人くらいの認識だろう。
小早川秀秋が持つ官位『中納言』がどれほどの地位にあるか、彼らにはまったく理解できていない。
中納言は従三位。
帝の日常生活の場に立ち入ることが許された身分だ。
殿上人という言葉が示す通り、常に一段上の存在である。
俺は現代感覚で足軽たちと対等に接し、会話を楽しんでいたし、足軽たちも応じていたが、本来なら会話を交わすどころか、目を合わせることすら許されない立場だ。
だからこそ、明らかに礼儀作法の教育を受けていると思われる少年の立ち振る舞いが際立つ。
今ここで見せているのは、ただ跪いて頭を垂れているだけの姿ではない。
左拳は大地に突き、右腕は立てた膝の上に置く。腰に差していた刀を鞘ごと抜き、左側にそっと置いた。
その頭を垂れる姿勢は実に整っており、作法を知らない俺でさえ、心の中で『おおっ!?』と思わず感心してしまうほどだった。
「なっ!? そうなのかっ!?」
「申し訳ございません! 中納言様の慧眼、恐れ入ります!
私の本当の名は城井朝末! 今は亡き城井朝房の息子にございます!」
そして、その予想は正しかった。
稲葉のおっさんが勢いよく顔を振り向けると、少年は垂れていた頭をさらに深く下げ、本当の名前を明かした。
「な、なんとっ!?」
「ほう……。あのキイ家の?」
たちまち、稲葉のおっさんは目を見開き、口をあんぐりと開けた。
俺は左手で右肘を持ち、右手で顎を支えながら、稲葉のおっさんの反応に何か驚く理由があるのだろうと察し、知ったかぶりのしたり顔を浮かべる。
俺は戦国時代が好きで、それなりの知識はあるが、教鞭を取れるほどではない。
詳しいのは、あくまで『関ヶ原の戦い』と『小早川秀秋』に関してだ。
それに、戦国時代の主役ともいえる『織田信長』を中心とした出来事なら多少わかるが、『本能寺の変』以後のことはそれほど詳しくない。
いや、正確に言えば、日本史で習った内容以外はほぼ知らない、と言ったほうがいいか。
豊臣秀吉が天下を取る前後の歴史には、あまり興味が湧かなかったのだ。
だから、マイナーな名前を出されても、さっぱりわからない。
少年を演じている親友とは転校して以来、交流が完全に途絶えているが、親しさで比べれば稲葉のおっさんより断然深かった。
それにも関わらず、なぜ覚えのない役を演じさせられているのだろうか。
俺には夢の配役基準がさっぱりわからない。
「中納言様は家康の首に十万石の値を付けられました!
では、恥傷の値はいかほどにございますでしょうか! 願わくば、お家の再興を!」
だが、さすがは俺の親友。
その申し出は痺れるほど格好良かった。
「面白い! その意気や良し!
キイ・トモスエ! お前を直臣に取り立て、侍大将の役を与えよう!」
俺は二つ返事で大きく頷いた。
ここで少しでも躊躇ったり渋ったりするのは、格好悪い。
親友の姓の読みは覚えていたが、漢字の書き方を忘れてしまった点は、どうか許してほしい。
侍大将とは、戦場で総大将の直下にあたる役職だ。
つまり、一番下の足軽から一気に大幹部への大抜擢ということになる。
顔を跳ね上げた少年は、驚きのあまり言葉が出てこないらしい。
目を丸く見開き、かすかに口を開けたり閉じたりしている。
「なりません! なりませんぞ!
駄目です! 駄目、駄目、駄目! 絶対の絶対、駄目にございます!」
ところが、稲葉のおっさんは小煩いどころか、超うるさく猛反対。
前のめりに右足を踏み出し、首を左右にブンブンと勢いよく振り回す。髷が解けそうなほどの勢いだ。
「何だよ…。何が駄目なんだよ?」
「城井朝房殿に嫡男がいるとは、今の今まで知りませんでしたが…。
城井朝房殿といったら、黒田親子との確執! あまりにも有名な話ですぞ!」
「へーー……。」
「へーー、じゃありません!
一度は和解するも暗殺された上、娘とその娘に仕える侍女たちまでもことごとく磔にされています!
この者を直臣に取り立てたら、黒田親子の不興を買うのは必然! どんな災いが殿に及ぶか、まったく予想がつきませんぞ!」
俺がたまらず舌打ちして口を尖らせると、稲葉のおっさんは全力の身振り手振りで解説する。
視線を少年に戻せば、少年は目を伏せ、下唇を噛み、力強く握った両拳の震えを肩に伝えながら、悔しさを滲ませつつも、どこか諦めの色も見て取れる落胆ぶりだった。
「別に、いいんじゃね?」
「ひょっ!?」
「だって、不興を買うも何も……。
息子の黒田長政は関ヶ原で家康側についたんだから、とっくに敵だろ?」
「そ、それは……。し、しかし、父の黒田孝高は、太閤様も恐れた切れ者でして…。」
しかし、俺は稲葉のおっさんが訴える問題を、そもそも問題だとは感じていなかった。
その点を告げると、たちまち稲葉のおっさんはトーンダウン。もごもごと反論しようとするところに、俺は柏手をパンッと響かせ、問答を強引に終わらせた。
そもそも、これは夢だ。後のことなど知らない。
大事なのは今、どれだけ格好良く小早川秀秋を演じられるかだ。
「うん、決まり! お前、今から俺の家臣な!
ただ、その頭だとサマにならん。名はすでに持っているようだが?」
「は、はい! ち、父が残してくれたのです!
そ、それを母が、今生の別れの際に預かったと、今回の戦へ出立する時に教えてくれました!」
「ええ話やん!」
「し、しかし、黒田親子を恐れて、烏帽子親を引き受けてくれる者は見つけられなかった!
「う、初陣の晴れ舞台を前に、不甲斐ない自分を許してくれと涙ながらに何度も詫び、私の出立を見送ってくれたのです!」
少年が俯きかけていた顔を、再び跳ね上げる。
感極まって全身を震わせ、声も震わせ、その目に今にも零れ落ちそうな涙を溜めていく。
もう一度言おう。さすがは俺の親友だ。
徳川家康に恥傷を負わせたドラマがあるだけでなく、バックストーリーにもドラマがある。
俺の顔見知りは脇役の法則は、やはり正しかったのだ。
「そういうことなら、俺が烏帽子親をやってやる! 今すぐ、元服だ!」
「な、なんとっ!? ……ぼ、望外の喜び!
こ、この城井朝末、命尽きるその時まで秀秋様に忠義を捧げます!」
「おう、励めよ!」
だったら、ドラマをより盛り上げてこそ、主人公だ。
俺が腕を組み、鼻息をフンスと強く噴き出して頷くと、少年はついに号泣した。
鼻水までダラダラと漏らす見事な男泣きぶりに、ちょっとだけ引いた。




