第33話 月明かりの密談
「ふぅぅ~~~……。」
俺は熱くなった胸の奥の息を吐き出した。
酒瓶から盃に新たな一杯を注ぐ。
ブリは食べられなかったけど、今夜は酒を解禁中だ。
飲んでいないとじっとしていられず、飲んでいてもまったく酔えない。
ここは大阪城の一室。
明かりはつけず、少し開けた障子戸から差し込む月明かりだけを頼りに、一人過ごしていた。
「来たっ……。」
ふと、静寂の底から、かすかな足音が聞こえた。
それは、ゆっくりと廊下をこちらへと近づいてくる。
俺は思わず体をビクッと震わせた。
盃の酒をこぼし、濡れた口元を慌てて袖で拭き、酒瓶と盃を脇にどける。
やがて、足音は部屋の前で止まり、障子戸が静かに開いた。
だが、月明かりを背にした影は、俺が待ちわびた大野治長ではなく、石田三成だった。
「えっ!? あっ!? おっ!? ……み、三成?」
予想外の来訪者に、喉の奥から悲鳴がこみ上げた。
慌てて右手で口を押さえ、息を潜める。
「驚くのも無理はありません。
ですが、私は全て承知しております」
三成が障子戸を慎重に閉めた。
月明かりに照らされた障子の白が、闇の中でほのかに浮かぶ。
まだ目が暗闇に慣れぬまま、俺の正面に正座した三成の声が、小さく届いた。
「……そうなの?」
俺も自然と身を少し寄せ、声を潜めた。
俺がこの部屋を訪れたのは、城内にまだ人の気配があった頃だ。
先ほど障子戸から顔だけを出して月を確認したところ、半ば過ぎまで上っていた。
では、なぜ俺が夕飯のブリを我慢してまで、こんなところで塩にぎりを寂しくかじり、闇の中で長々と息を潜めていたのか。
それは、淀の方のもとへ忍ぶためだ。
夕食後、淀の方に俺の訪問が通達され、人払いが済み次第、本来なら大野治長がここを訪れる予定だった。
「私は、自他とも認める秀吉様の腹心中の腹心でした。
秀吉様から相談を受けてもいますし……。治長が役目のときは、私が警護を担っていたのですよ?」
俺は胸をホッと撫で下ろした。
三成の言葉で、こいつも共謀者と分かった。
ただ、今夜の企みは、豊臣家を揺るがしかねない重大なもの。
今後のためにも、三成以外の共謀者を知っておく必要があった。
「それも、そうか……。他に知る者は?」
「いません。私と治長、秀秋様の三人だけです」
「ええっと……。ここに来たってことは、三成も賛成なんだよね?」
「無論です」
俺は短く息を吐いた。
豊臣秀吉の熱烈な信奉者である三成と、産まれたときから淀の方に仕えてきた大野治長。
そこに俺を加えた三人だけなら、安心できる。
むしろ、大阪城全体を管理する三成が加わったことで、今夜に限らず、これから先も、淀の方のもとへ忍びやすくなる。
「どうしてって聞いてもいいかな?」
しかし、ここまで至り、俺は少し躊躇っていた。
大野治長の熱い説得に圧されて応じたのはいいが、やっぱり俺は恋愛弱者だ。
古満も雪も、すべてが完璧にお膳立てされ、二人が嫌がるそぶりもなかったからこそだった。
もし、淀の方を目の前にして拒絶されたら、俺はどうすればいいのか分からない。
「秀秋様の奥方はまだお若いゆえ、分からぬのも無理はございません。
華の命は短うございますが、女の盛りは三十を過ぎてからでございます。
事実、淀の方が一人寝の寂しさを紛らわせる頻度が増えていると、治長より聞き及んでおります」
「最近、俺の名前を呼んでいるって聞いたけど……。本当なの?」
「真にございます。私も一度耳にしております。淀の方は、その……。声が大きいので、つい聞こえてしまうのです」
「……そ、そうなんだ」
大野治長の口からも聞かされた淀の方の秘密。
つい、俺は淀の方が寂しさを俺で紛らわせている姿を想像してしまい、思わず心がムラっと熱くなり、息が荒くなるのを感じた。
「ですから、実を申しますと……。
私は秀秋様が淀の方に懸想していたのは気づけていませんでしたが、治長の提案は渡りに船でした」
「秀吉様が亡くなってから、淀の方に近づこうとする者は多いのです。
ここだけの話。毛利殿も何度か若い男を連れ立ち、淀の方の好みを探っておられる気配が見られます」
「しかし、秀秋様なら安心です。
むしろ、豊臣を牛耳っていただきたいのです!」
そんな俺を畳みかけるように、三成の声が一段と熱を帯びた。
声を潜めねばならない状況なのに、三成は最後の一言を半ば声を張り上げて放った。
「い、いやいや……。お、俺は遠慮するよ」
だが、頷けない。
たまらず顔を引きつらせ、思わず人差し指を口に立てて三成に自制を促した。
「なぜ……。なぜです? 豊臣に復籍なされば、天下も望めるのに?」
ところが、三成は止まらなかった。
再び声は潜めたが、膝を滑らせて、文字通り目の前まで迫ってきた。
「……というか、何度も言ってるよね? 俺は小早川のままがいいって」
俺は両手を後ろにつき、体を仰け反らす。
最近、三成も大谷吉継も怖い。
隙あらば、俺に天下を誘ってくる。諦める気配もない。
「ふむ……。今はそういうことにしておきましょう」
「ちゃんと聞いてる? 未来もだよ?」
「では、執権に就くというのは?」
「嫌です。断じて、嫌です」
「確かに、淀の方とのことをすぐに公表はできませんから、5年後を目安としましょう」
「……しません。今言ったばかりだよね? 未来も、だって」
そのたびに、きっぱりはっきりと断っているのに何故なのか。
どうして、わざわざ自分からそんな苦労を背負わなければならないのか。
俺は『格好いい小早川秀秋』を貫き、徳川家康を打倒したら、あとは優雅に余生を送れればそれで十分だ。
なお、三成の言葉にある『執権』とは、君主を補佐する役職である。
君主を補佐する役職には他に『管領』もあるが、管領はあくまで補佐にとどまる。
一方、執権は強い実権を握り、君主は象徴的な立場となる。
「お子を授かった場合は、どうされますか?」
「そ、その時は……。そ、その時に考えるで」
三成に痛いところを突かれ、俺はたちまち返答に困った。
これから淀の方と今まで以上に仲良くなるのだから、その可能性を否定できない。
だけど、もう駄目だ。
すぐ手の届くところに淀の方がいるとわかって、俺は手を引っ込めるなんてできない。
俺はこの問題を将来の自分に託し、強引に話題を打ち切ろうと立ち上がった。
「秀秋様らしからぬ浅慮ですね。
まあ、それだけ淀の方を懸想している証拠とも言えますが……。」
「ほら、淀の方が待っているんだろ!」
「では、苦言をもう一つだけ」
「何だよ、もぉ~……。」
三成は立ち上がろうとしなかった。
廊下まで出た俺は、苛立ち混じりの溜息をつき、振り返った。
「奥方様から、私のところへ使いが参りました」
「あっ……。」
「言い訳は、もっと上手い方便を使ってください」
「……ごめん。それは謝る」
でも、また痛いところを突かれて、俺は素直に謝った。
正直に言うと、古満や雪に、今夜の言い訳に三成を使ったことなんて、家を出た時にはすっかり忘れていた。
もしかして、それを指摘するために、わざわざ大野治長と役目を変わったのだろうか。
「では、ご健闘を祈ります。
私は開いたはずのない宴に急遽参加せねばなりませんので、これにて……。」
「だから、ごめんってば……。」
三成は立ち上がり、廊下に出た。
俺を横目でギロリと睨むと、これから俺が向かう先とは反対の廊下へ足早に去っていった。




