第32話 碁盤にハート
「よしっ……。」
冬は陽が沈むのが早い。
さっきまであんなに青かった空が、気づけばもう赤みを帯び始めている。
少し早いが、屋敷に明かりを灯そうと、俺は腰を上げた。
戦国時代にも、時を知る方法はあった。
日の出と日没を基準に六つの刻に分けられ、寺では日時計や水時計を頼りに、刻の時になると鐘をゴーンゴーンと鳴らす役目を果たしていた。
つまり、戦国時代の時間の感覚は、大雑把なものだった。
現代では、誰もが時計を手軽に持ち、秒単位まで時間を知ることができる。
だからこそ、時折その大雑把さが、俺には少し苦痛に思えることもある。
特に、約束の時間を待つときには、その大雑把さをひしひしと感じる。
「ねえっ!」
「おわっ!? いつから、そこにっ!?」
不意に目の前で呼びかけられ、心臓が跳ねるように、俺は飛び退いた。
俺が座っていた縁側の廊下。
打っていた碁盤を挟んだ向こう側に、古満が正座し、こちらを見上げていた。
「ずっと前から、ここにいたわよ。
何度も声をかけてるのに、全然気づかないんだから」
「えっ……。そうだったの?」
古満は両手を腰に当て、唇を尖らせた。
今の今まで、その存在に全く気づいていなかった。
ある考えに没頭するあまり、妙なことを口走ってはいなかっただろうか。
背筋に冷や汗が流れ、俺は思わず右手で口を塞いだ。
「ええ、そうなの。
それより、さっきから何をそわそわしているの?」
「えっ!?」
「見てみなさいよ。これ……。
珍しく、碁なんかやってると思ったら、全然駄目じゃない。何なの、これ?」
「あっ……。」
だが、古満の指先が示す碁盤の上を見た瞬間、心臓が止まるかと思った。
そこに広がる光景に、俺は愕然と目を見開き、言葉も出なかった。
碁盤の上には、白石で大きなハートが描かれていた。
古満の目には、ただの意味不明な置き石にしか見えないだろう。
戦国時代にハートの概念が無くて、本当に良かった。
一応、碁盤の端の方には、詰碁を解いていた跡がうっすらと残っている。
落ち着かない気分を紛らわそうと、慣れない碁を始めてみたが、結局、気づけばその落ち着かない気分の方に引きずられていたらしい。
「ただいま、帰りましたー」
どう言い訳しようかと考えていたところに、雪の声が聞こえた。
「あっ!? 見てください。立派なブリが手に入ったんですよ?」
「わっ!? すごいじゃない! 今夜はお刺身ね!」
「大阪の街って、信じられないですよね。毎日、新鮮な海の魚が手に入るんですもの」
「私、ここと広島しか知らないから普通なんだけど……。岐阜は違うの?」
「川魚が主でした。海の魚は、その……。我が家には高くて……。」
雪は、俺と古満に気づくと、中庭をとことこと小走りで駆けてきた。
その後ろから、雪の幼馴染である侍女と、俺が侍大将に大抜擢した城井朝末もやって来た。
城井朝末が両手に抱えた木箱の中には、見事なブリが笹の上に美しく横たわっていた。
こいつは脂が乗っていそうで美味そうだ。
間違いなく、酒と合う。今夜だけは、禁酒を解禁したくなる気分だ。
「あーー……。ごめん、もう少ししたら出かけるんだ」
しかし、俺には大事な先約があった。
とても残念だが、食べることはできそうにない。
「こんな時間に?」
「お夕飯は?」
古満と雪は顔を見合わせ、互いに目を合わせたあと、不思議そうな目をこちらに向けた。
当然の疑問だ。
もう日が暮れようとしているのに、いきなり出かけるなんて、不自然でしかない。
だから、俺は不自然でない理由を説明した。
「あーー……。二人とも、聞いてよ。
三成のやつがさ、急に宴を開くっていうんだ。俺も昼過ぎに聞かされて、困っちゃったんだよね」
「あーー……。二人は知ってるかな?
上杉殿の家臣、直江兼続。そいつが会津に帰るから、送別会をどうしても開きたいんだってさ」
「あーー……。だから、今夜は先に寝てていいよ?
多分、三成のあの調子だと、朝まで盛り上がろうって腹積もりだろうからさ。困っちゃうよね」
ところが、古満と雪の反応がいまいちだった。
二人のまっすぐな目に見つめられて、つい俺は饒舌になってしまった。
「あなた、変よ?」
「秀秋様、変です」
「へ、変じゃないよ! ふ、普通だよ……。
さ、さぁ~て、出かける用意をしないとな! こ、困るよな! み、三成のやつ!」
その結果、古満と雪は一歩前に出た。
俺は二人の視線から逃れるように背を向け、自室へと足早に向かった。




