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大逆転、関ヶ原! ~小早川秀秋、難波の夢を露と落とさず~  作者: 浦賀やまみち
第一章 夢幻の如く

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幕 間 老将の矜持




「フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハっ!」



 関ヶ原に、高笑いが響き渡っていた。

 その声を背にして、本多忠勝は主君である徳川家康のもとへと急いでいた。


 はじめは焦りを見せまいと、早足で歩を進めていた。

 だが、その高笑いが思っていたよりも早く近づいてくると気づくと、体裁など構ってはいられず、全力で駆け出した。


 それでもなお、忠勝は五十二の身。初老と呼ばれる年に差しかかっていた。

 走りながら、己の身体の衰えを否応なく思い知らされる。


 全力で駆けても、すぐに息が上がる。いまでは早足と大差ない。

 若い頃には一度も感じなかった鎧の重みが、今は『腰を下ろせ』と囁いていた。

 長年、己の体の一部に昇華させたはずの愛槍『蜻蛉切』すら、ただ煩わしく思えた。



「……はぁっ。はぁっ……。」



 しかし、本多忠勝は走ることをやめなかった。

 気を抜けば上がりそうになる顎を引き締め、息を整えながら前へ進む。


 やがて、『三つ葉葵』の家紋が描かれた天幕が見えたとき。

 彼はようやく足を止め、何事もなかったかのような涼しい顔で、その中へと入っていった。



「殿!」

「おおっ! 忠勝!」



 天幕の主である徳川家康は、喜びを隠しきれず、床几から勢いよく立ち上がった。

 その様子から、小早川秀秋が西軍を裏切り、自分に味方する約束を破ったことが、いかに予想外だったかがうかがえる。


 だがその一方で、家康はなおも小早川秀秋を侮っていた。

 所詮は匹夫の勇。今は勢いに乗って攻め立てているが、その勢いなど長くは続くまいと。


 その自信の根底にあるのは、本多忠勝の存在だった。

 かつて敵将から『家康に過ぎたるもの』とまで称された猛将が、愚図の小早川秀秋ごときに後れを取るはずがない、家康はそう信じて疑わなかった。


 万が一に備えて、本多忠勝という大駒を本陣の直衛として控えさせ、今の今まで温存していた。


 しかし、ついにその切り札を切る時が来た。

 そう、家康は判断した。



「今すぐ、お逃げください!」

「なっ!?」

「この戦、我らの負けにございます! この上はお命を繋ぐことこそが至上!」



 だが、徳川家康が口を開くよりも早く、本多忠勝が声を発した。

 しかも、臣下でありながら跪くこともなく、堂々と立ったまま。


 そして、その口から出たのは、徳川家康の思惑とは正反対の言葉だった。


 家康は、一瞬、言葉を失った。

 自信の根底を成していたものを、忠勝自身に真っ向から否定されたのだ。


 胸の内に湧き上がったのは、驚愕と、どうしても拭いきれぬ疑念。

 まさか自分が、小早川秀秋などという愚図に劣るはずがあるまい。そう思わずにはいられなかった。



「馬鹿な! ……馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!

 あり得ん! あり得んだろう! この儂が、あの愚図に負けるというのか!

 儂はもう五十だぞ! これ以上は待てん!

 我が大望は……。ここで潰えてしまうというのか!」



 なにしろ、徳川家康の人生は忍従の日々であった。

 幼少期には今川義元の圧力に耐え、青年期には織田信長に己の野心を押さえつけられた。

 信長の死後は豊臣秀吉に従い、戦国大名としての力を封じ込められ続けてきた。


 ようやく自分の出番が回ってきたと思った矢先に、あの小早川秀秋『愚図』に行く手を阻まれるなど、あってはならなかった。



「拙者は小早川殿を噂でしか存じませぬが……。

 先ほど遠目に拝見した限り、あれは立派な益荒男にござりまする。

 大将自ら陣頭に立ち、敵陣を烈火のごとく斬り込み、崩す。

 あれこそまさに、風林火山の火。

 一言坂での戦いを……。あの鬼美濃を思い出しましたぞ」



 しかし、本多忠勝は首を左右にゆっくり振った。


 鬼美濃とは、戦国時代の荒波に乗れず滅亡した甲斐武田家に仕えた、『馬場信春』の異名である。

 すでに二十五年も前に故人となっているが、死してなおその武名は天下に轟き、忠勝をも凌ぐ猛将中の猛将として名を馳せていた。


 徳川家康にとって、甲斐武田家は幾度も煮え湯を飲まされた相手であった。

 甲斐武田家と領地の大部分を接していたため、家康は飛躍を望めずにいたが、甲斐武田家が滅んだ頃には、天下の趨勢はすでに決していた。



「お、お前ほどの男がそうまで……。あ、あの愚図が? ほ、本当に?」



 徳川家康は本多忠勝の小早川秀秋評に、驚愕を通り越して呆然とした。

 目を見開き、かつて甲斐武田家に味わわされた恐怖を思い返すと、身体がブルリと震えた。



「フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハっ!」



 その瞬間、関ヶ原に何度も響き渡る高笑いが、すぐ間近から聞こえてきた。



「ふぉっ!?」



 小早川秀秋の本陣突入を察した徳川家康は、思わず腰を抜かし、尻餅をつく。

 その拍子に、ブリブリブリッと音が鳴り、眉を寄せ、鼻を摘みたくなるほどの悪臭が辺りに漂った。



「くっくっくっ……。相変わらず、殿は尻が弛うございますな?」

「や、やかましい!」

「さあ、早くお逃げください。もうそこまで迫っています」

「わかった……。だが、忠勝。決して死ぬことは許さぬぞ?」

「ふっ……。まだまだ若い者に負けはしません。

 殿の方こそ、三方ヶ原で見せた逃げっぷりは健在でしょうな?」



 だが、怪我の功名とは正にこのことであった。

 本多忠勝の茶目っ気も手伝い、徳川家康は冷静さを取り戻すと、その後の決断は迅速だった。


 戦況を考え、家康が確実に逃げられる時間を作る。

 それは今生の別れとなることを、お互い半ば確信していた。



「減らず口を……。では、あの時のように浜松で会おうぞ!」

「御意!」



 二人は強い眼差しで再会の約束を交わした。


 徳川家康は、後ろを振り向くことなく、すぐさま天幕の後方へと逃げ去る。

 本多忠勝もまた、家康の姿が消えるや否や天幕の正面を見据え、これから訪れる若武者を迎えるために、後ろを振り向くことはなかった。



「フハハハハっ! 狸狩りに来てみれば、狸以上の大物がいたぞ!

 その鹿角脇立の兜に、肩にかけた大数珠! 戦国最強と名高い本多忠勝殿とお見受けする!

 我が名は小早川秀秋! 名槍『蜻蛉切』の斬れ味、ぜひとも馳走を願いたい! 返答はいかに!」



 間もなく、天幕の正面が槍で切り裂かれ、芦毛の馬に跨った小早川秀秋が姿を現した。

 本多忠勝は、奥底から湧き上がる歓喜を抑えきれず、口元に笑みを浮かべると、愛槍『蜻蛉切』を構えた。


 小早川秀秋が『狸』と呼んだのは、徳川家康のことを指す陰口である。

 つまり、西軍の誰もが徳川家康の首を最上の手柄と考えている中で、小早川秀秋だけが、本多忠勝の首の方が徳川家康の首より価値があると断言したのだ。


 これを喜ばずにいるはずが、あるだろうか。


 豊臣秀吉が大名同士の武力紛争を禁止する『惣無事令』を発令して、十五年が経った。

 仮初めとはいえ、天下は泰平の世となったが、誇りにしていた武は役立たずとなり、政治は人並み程度の本多忠勝には、居場所がないと感じられた。


 徳川家康は、そんな忠勝を疎んじることなく、過去の功労者として俸禄の加増など、何かと気遣ってくれていた。

 しかし忠勝は、気遣われれば気遣われるほど、心苦しさが募っていった。


 だからこそ、徳川家康が家臣たちを前に、豊臣家との対決をはっきりと言葉にしたとき、本多忠勝の胸は奮い立った。


 かつて経験したことのない、歴史に残る大戦が始まろうとしている。

 今一度、天下に『本多忠勝、ここにあり』と知らしめ、主君のために奉公できるのだと。


 ところが、である。

 徳川家康は江戸城を発して以来、本多忠勝を本陣の直衛に置いたまま、出番を与えてはくれなかった。

 『お前が傍に居るからこそ、儂は安心が出来るのだ』と朗らかに笑いながらも、忠勝に直接的な働きの機会を与えようとはしなかったのである。


 忠勝もまた、こう考えていた。



『まだまだ若い者に負けるつもりはない。日々の鍛錬も怠ってはいない。

 だが、戦いそのものを知らない子供が世間には溢れている、長き泰平の世だ。

 果たして、自分と同じように、乱世を忘れず鍛錬を積んできた者が、本当に存在するのか……。』



 関ヶ原への道中、忠勝は周囲を見渡しながら、期待を抱きすぎないよう自らを戒めていた。



「いかにも、拙者が本多忠勝でござる!

 我が槍を、中納言たる殿上人に馳走できるとは、末代までの誉れ!

 いざ、尋常に勝負、勝負!」



 しかし、ここにいた。

 本多忠勝は天の配材に感謝する。


 特に、こちらが騎乗していないのを見て、同条件で競おうとわざわざ下馬する小早川秀秋に好感を持った。

 人が言う悪評などあてにならないと、苦笑が漏れそうになるのを堪えた。


 同時に、己が負けるだろうという天命も確信した。

 そうでなければ、約三万の兵力を擁する徳川家本陣を割り、ここまで辿り着けるはずがない。天が味方しているとしか思えない奇跡だった。


 だが、本多忠勝はここ十数年で最も清々しい気分であった。

 武士として、これほどの大戦で果てる誉れは他にあるまい。


 今まで自分がそうしてきたように、今度は目の前の若者の糧となる。そう覚悟して名乗りを挙げた。



「フハハハハハハハハハっ!」

「ぬおりゃああああああっ!」



 そして、高笑いと雄叫びが響き渡り、やがて勝者と敗者を生んで、関ヶ原の戦いは大勢を決した。




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