幕 間 百万一心の夜
「ふーーー……。」
夕飯の時刻はとうの昔に過ぎ、深夜と呼ぶにさしかかった時刻。
毛利輝元は漆塗りの猪口をぐいっと呷り、ため息を深く漏らした。
熱かん特有の芳潤な香りが鼻を抜け、酒精が舌の上を踊る。
締め切られた縁側の雨戸を冬の寒風がカタカタと揺らし、庭の竹林をさわさわと揺らす音が響く。
その風音が、輝元には自分を嘲笑する声のように聞こえた。
「……山場は超えた。
だが、谷は深い。慎重に進まねばな」
関ヶ原の戦いで、毛利家は静観という大失態を演じた。
小早川秀秋が『松尾山の鉄砲水』と称えられるなら、毛利家は『南宮山の堰き止め』と揶揄されるほどである。
本来なら、現存する所領を大幅に削られ、五大老の地位を追われて然るべきところだった。
しかし、小早川秀秋との深い繋がりが、毛利の命脈を保った。
本日の論功行賞の場でも、豊臣秀頼から直々に大阪城守備の功績を労われた。
これで少なくとも、表向きには毛利家を謗ることはできなくなった。
だが、陰口は毛利輝元の孫の代にとどまらず、遠い未来まで絶えないだろう。
「三本の内、一本は折れた。
しかし、天下を競望せず、百万一心を……。」
輝元は傍らの火鉢をつつき、赤々と燃える炭を崩す。
ぱちりと火の粉が短く跳ね、崩れた炭はより強い熱を放ち始めた。
しばらくして、五徳の上に乗る燗瓶の口から立ちのぼる湯気の量が増えた。
ほわりと白いそれは、冬の乾いた空気に触れてすぐ細くなり、やがて見えなくなる。
新たな一杯を欲し、輝元が燗瓶に手を伸ばしたその瞬間。
「まだ起きていましたか」
縁側と繋がる障子戸が静かに開き、冬の冷気が忍び込んだ。
深夜の来客は、毛利秀元だった。
白の寝間着をまとい、一度は床に就いていたことが伺えた。
「ふっ……。お前も寝れぬのか」
輝元は思わず苦笑した。
どこか胸の底で、こうなることを予感していたのだ。
そのためだろう、手元には予め用意しておいた別の漆塗りの猪口がある。
「どれ、暇つぶしに付き合え」
そう呟きながら、その猪口をそっと火鉢のそばへ寄せた。
******
「美濃に飛び地とは、驚きました」
輝元と秀元は無言で酒を酌み交わしていた。
飲んで注ぎ、飲んでは注がれを繰り返して、四度目。
秀元は空になった輝元の猪口に酒を注ぎながら口を開いた。
「……だろうな」
輝元は短く息を吐き、猪口を畳の上にそっと置いた。
火鉢の炭をつつくと、火の粉がぱちぱちと跳ねた。
「美濃に合せて、尾張を与え、筑前、筑後から移封する。
それが妥当かと思うのですが?」
赤く照らされた輝元の横顔を真っ直ぐに見据え、秀元は答えを求めるように問いかけた。
それは、論功行賞の場にいた誰もが抱いたであろう疑問だった。
なにしろ、小早川秀秋の従来の所領は九州の筑前、筑後だ。
それに対して、論功行賞で与えられた地は美濃で、畿内より東の中部地方にあたる。
両者はあまりにも離れすぎている。
どう考えても、歪な配置である。
「当初はそうだった。……だが、分かるな?
秀秋殿に今離れられては、実情はどうあれ、世間は『小早川が毛利から離れた』と見る」
「……ですね」
秀元が小さく頷くと、輝元は口元をニヤリと歪めた。
「織田殿が生き残っていたのは幸いだった」
「秀秋殿に美濃を与えるとなれば、美濃を治めていた織田殿が邪魔になる」
「しかし、織田殿は岐阜城は奪われはしたが、我らと違って善戦しておる。
美濃をおいそれと奪うわけにはいかん」
「だが、先祖伝来の地である尾張なら、織田殿も喜ぶ。
……それを、利用させてもらったのだ」
秀元は思わず目を見開いた。
論功行賞に、五大老の一人である義父が関わっていることは承知していたが、やはり驚きを禁じ得なかった。
実に、見事な妙手だった。
「美濃と道で繋がる国は、信濃、三河、尾張、伊勢、近江、越前、飛騨の七つ」
「信濃は、戦功第一の真田昌幸に与えられ、真っ先に候補から外れた」
「越前と飛騨は、徳川殿が攻めてきたとしても戦場にはならない。意味がない」
「三河との間には山岳があり、伊勢との間には川が入り乱れているため、どちらも隔地といえる」
「近江は、美濃寄りを石田殿が治めている。
しかも、秀秋殿とは懇意の仲だ。
二人を引き離すのは、得策ではあるまい」
「つまり、残るは尾張だけだ。
だから、先も言った通り、織田殿を絡めた『情』に訴えたのだ。
すると上杉殿が、珍しく声をあげて『まさにその通り!』と賛成してくれた」
事実、件の『織田秀信』は、美濃が小早川秀秋のものとなった瞬間、愕然とした。
しかし、美濃の代わりに尾張が与えられると知るや、涙を止めどなく流して喜んだ。
論功行賞が終わると、織田秀信は小早川秀秋の元に駆け寄り、『共に頑張りましょう!』と固い握手を交わしたほどだ。
「秀秋殿は納得したのですか?」
だが、それもこれも、美濃という飛び地を与えられた小早川秀秋が承諾しなければ、何一つ始まらない。
秀元が控えめに尋ねると、輝元は猪口を手にとって呷った。
「それよ。どうやら何か腹づもりがあるらしい。
驚いたあと、しばし考え込んですぐに受け入れてくれた」
「だが、それが何なのかが、分からん。
最近の秀秋殿は頼もしすぎてな。深謀遠慮とはまさにこのことだ」
火鉢で薪がパチパチと音を立てて弾け、二人の影が揺らめく。
輝元が苦笑を浮かべれば、秀元も苦笑を浮かべた。
「秀秋殿には、すっかり騙されましたね」
「全くだ。隆景殿も、儂にだけでも『秀秋殿がうつけを演じている』と明かしてくれてもよかっただろうに」
「まあ、『敵を欺くにはまず味方から』とも申します。
ましてや、相手はあの徳川殿となれば……。なおさらでしょうね」
燗瓶の口から湯気が盛んに吹き出す。
このままではせっかくの酒が台無しになると考えた秀元は、燗瓶を五徳の上から外し、輝元の空になった猪口に新たな一杯を注いだ。
「広家のやつめ……。思い返しても忌々しい。
『主家のため』と言えば聞こえはいいが、どうにも己のためとしか思えん」
それを一気に呷った輝元は、さらにもう一杯を求めるように、猪口を勢いよく差し出した。
先に挙げた『隆景』は小早川隆景を指し、『広家』は吉川広家を指す。
どちらも毛利家の『両川』と称えられた頼もしい血族であったが、関ヶ原の戦いでは明暗を分けた。
小早川隆景の義子である小早川秀秋は七面六臂の活躍を見せた一方、吉川広家は毛利家の静観という大失態の根源を作ったのである。
最近、二人を指す『松尾山の鉄砲水』と『南宮山の堰き止め』も、やはり『両川』になぞらえられている。
「儂は総大将だったのだぞ?
どう足掻こうとも、大幅な減封は逃れられんだろうが……。」
「せめて、秀秋殿に呼応して動いていれば……。
そう思わない日は、ありません」
秀元は燗瓶を傾け、言葉を噛みしめるようにため息を深々と漏らした。
輝元の顔を覗けば、行灯や火鉢の光以上に、顔が赤く染まっていた。
自分がこの部屋を訪れる前から、輝元が一人で飲んでいたことを思い、これ以上酒を注ぐのは控えるべきかと考えた。
「だが、その場で腹を切ったことだけは褒めてやろう。
それがあったからこそ、秀秋殿は千載一遇の好機を逃しつつも、我らを許してくれたのだからな」
「はい、我ら以上に悔しいだろうに、よくぞ飲み込んでくれました」
しかし、二人とも眠れぬ夜を過ごしていた。
今夜くらいは、深酒も悪くあるまいと考え直し、秀元は手酌で新たな一杯を呷り、さらにもう一杯を注いだ。
「古満とも和解してくれたのも、僥倖だ」
「ふふっ……。古満にずいぶん惚気られましたよ。
あの様子なら、子ができるのもそう遠くないかもしれません」
「うんうん、そうか、そうか」
話題が明るくなれば、酒の味も美味くなった。
上機嫌になった二人の笑い声が室内にやわらかく響いた。
******
「さて、そろそろ寝ます」
「儂も寝るか……。久々にずいぶん飲んだな」
秀元は眠気を覚え、立ち上がろうとしたが、足元にふらつきを感じた。
当然と言えた。途中からは熱燗にする手間すら惜しみ、二人で夜を飲み明かしていたのだ。
深夜ゆえ使用人たちも寝静まり、秀元自ら台所へ足を運び、酒瓶を三本も空にしていた。
「ははっ、私も明日の朝が心配です」
秀元が部屋を出ようと障子戸を開けた瞬間、輝元の真剣な眼差しが、まるで秀元の背中を貫くかのように向けられた。
「秀元、よいか? お前は秀秋殿と年も近い。
今後のためにも、退屈かもしれんが、我慢するのだ。
今日のように、秀頼様から登城の命があった場合を除き、この屋敷から決して出てはいかん」
冬の深夜の冷気がたちまち二人を襲ったが、酔いに火照った体がそれを跳ね返した。
「分かっております。二年や三年、耐えてみせます」
「本当なら、秀秋殿の九州仕置に同行させたいところだが……
まだ世間の目は厳しい。蟄居することでそれをかわすのだ」
「はい……。今度こそ、静観の一手ですね」
今、二人は確かに酔っていた。
だが、頭は驚くほど冴え渡り、その目は毛利家の未来を見据えていた。
「そして、秀秋殿の助力を惜しむな。
主家の矜持など捨てろ。毛利は小早川の下につくのだ。
いや、秀秋殿のあの才ならば、いずれは……。ふっふっふっ……。」
鍵となるのは、やはり小早川秀秋。
今の苦境を作る一因となったのが小早川秀秋なら、未来を切り拓くのもまた、小早川秀秋だと、二人は見定めていた。




