第2話 フハハ夢想!
「フハハハハハハハハハっ!」
たまらない高揚感に、思わず笑いが止まらなかった。
振り返ってみると、こんなに心の底から声を上げて笑うのは、いつ以来だろうか。
歳を重ねるごとに、笑うこと自体がずいぶん減ってしまった気がする。
子どもの頃、俺は自分の姓『小早川』に密かな誇りを抱いていた。
教師に名前を呼ばれるたびに、大きな返事を返しては、その悦びにひたっていた。
今となっては、その理由が実に滑稽である。
第一に、ほとんどの人が漢字二文字の姓である中で、漢字三文字の『小早川』は、希少価値が高く感じられたこと。
第二に、学区内で『小早川』は父、母、俺の三人しかおらず、『小早川』といえば我が家を指す唯一無二の存在感があったこと。
第三に、由来も意味もよくわからないのに、『小早川』という響きそのものに格好良さを感じていたこと。
さらに欲を言えば、もし『大早川』だったらもっと最高だ。そんなアホすぎることを本気で考えていた。
しかし、その誇りは中学一年の秋頃、あっさりと失われた。
理由は単純で、中学校の社会科が地理、歴史、公民の三分野に分かれ、日本史を学ぶことになったからである。
俺のクラスを担当した歴史の教師は、歴史を教えているだけあって歴史好きだった。
授業は脱線しないものの、テストには決して出ない豆知識やウンチクをよく語り、俺はそれを毎回楽しみにしていた。
ところが、教科書が戦国時代から安土桃山時代へと進み、関ヶ原の戦いの話題に差し掛かったとき、その楽しみは一変した。
歴史教師も、小早川の姓を持つ俺を前にして『小早川秀秋』を語るのをためらったのだろう。
思春期特有の繊細さを抱えるクラスメイトたちを前に、こう前置きをしたのだった。
『あーー……。その、うん……。まあ、あれだ……。
当たり前のことだが、これから話す『小早川』と、このクラスの『小早川』は、別人だからな?』
あの日のことは、今でもよく覚えている。
朝からの大雨が降り続け、雷が何度も轟いた日だった。
幸いなことに、歴史上の有名人と同じ姓だという理由でからかうような、幼稚なクラスメイトは一人もいなかった。
だが、学校が終わると俺は掃除当番をサボり、大雨の中、傘も差さずに全力で家へ駆け帰った。
歴史教師の話が信じられず、すぐにネットで『小早川秀秋』の名前を検索する。
検索すればするほど、絶望感だけが次々と積み重なっていった。
同じ戦国時代、同じ裏切り者でも、『明智光秀』と『小早川秀秋』では扱われ方がまったく違った。
明智光秀はどちらかというと、格好良く美談として語られるのに対し、小早川秀秋は武士の風上にも置けない最低最悪の裏切り者扱い。美談など、まったく見当たらない。
いつしか俺は、妄想するようになった。
もしも自分が小早川秀秋として、関ヶ原の戦いのその瞬間に立ち会っていたら、どう振る舞うだろうか、と。
それ以来、戦国時代への興味が強くなった。
特に、戦国時代を題材にしたシミュレーションゲームは必ず手に取り、遊ぶたびに熱中した。
小早川秀秋をプレイヤーキャラクターとして選べる場合は、迷わず最初に選び、天下統一を成し遂げることが絶対のノルマとなっていた。
「フハハハハハハハハハっ!」
どいつも、こいつも歯応えがない! これが、精強と名高い三河の兵か!」
それにしても、さすがは夢の中だ。
馬術どころか、乗馬の経験すら一度もないのに、松尾山の道と呼べるか怪しい斜面を疾走した。
平地に出ると、馬は俺の意志を察したかのように、向かいたい方向へ勝手に突き進むオートパイロット状態。俺はまさに疾風と化していた。
行く手を阻む敵兵たちを薙ぎ払う槍も、同じだ。
槍術など全く習ったことはないのに、振ればそこにちょうど敵がいる。
身なりの良い指揮官らしき騎馬武者も、すれ違いざまの一撃で三人まとめて倒していた。
今の俺は、向かうところ敵なしの無双状態だ。
槍を振るたび、敵兵たちは右へ左へと飛ばされ、整然と並んでいた陣形は崩れ、俺が通った後には自然と道が出来上がっていく。
「フハハハハハハハハハっ!
我が奥義を喰らえぃっ! 必殺、百花乱舞うううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」
もう一度、言っておこう。
俺は槍を扱った経験など、一度もない。奥義どころか、初歩の初歩すら知らない。
だから、この雄叫びはただのノリだ。
せっかくの夢なのだから、照れや恥などは投げ捨て、思い切りはっちゃけるのが正しい。
「殿、お待ちください!
大将たるお方が者、突出しすぎですぞ! それに、足軽たちがまともに付いてこれませぬ!」
しかし、そのハイテンションに水を差す者がいた。
稲葉のおっさんは、俺が子供の頃から口煩いのが玉に瑕だ。
「……ったく、夢の中くらい好きにさせてくれよ」
つい愚痴がこぼれたが、稲葉のおっさんの口煩さがいつも俺のことを考えてのものだと、俺は知っていた。
槍を振るう手は止めず、駆ける馬の速度はそのままに、後ろを振り返る。
すると、稲葉のおっさんの言う通りだった。
騎馬隊は俺についてきているが、足軽隊は松尾山をようやく下りきったところだった。
両隊の間に大きな隙間が生じており、兵法に疎い俺でも、これは明らかに悪手だと判断できた。
だが、これは夢だ。
この後の展開は、何やかんやでうまく運ぶに違いない。
そう思いながら、稲葉のおっさんの助言を無視しようとして、大事なことに気づいた。
これは夢だからこそ、何度も思い描いた理想の『小早川秀秋』を演じねばならない。
このままでは俺が一騎当千しすぎて、武勲を独占してしまう。名君とは、勝利を仲間と分かち合うものだ。
手綱をぎゅっと引き絞り、緊急停止。
馬は前半身を跳ね上げ、空を前両足で掻きながら、甲高い嘶きを戦場に響かせた。
「聞けえええええええええぃ!」
それを追いかけ、大声をこれでもかと張り上げる。
たちまち、注目が俺に突き刺さった。
今までの人生で経験したことのない、凄まじく膨大な眼差しの圧力に気圧されかけるが、鼻息をフンスと荒々しく吹き出して、さらに叫ぶ。
「十万石! 十万石だ! 家康の首を獲った者には十万石をやるぞ!
この中納言、小早川秀秋が約束する! ここにいる全員が証人だ!
さあさあ! 十万石を欲するなら、命を惜しむな! 名を惜しめ! お前の名を歴史に刻んでみせろ!」
その効果は、たちどころに現れた。
遠目にもはっきりわかるほど、足軽たちの表情は驚愕に染まり、思わず立ち止まる者もいた。
しかし、誰かが雄叫びをあげた瞬間、それまで軽いジョギング程度だった駆け足は一気に全力疾走へと変わり、徳川軍に向かって我先にと突撃を開始した。
ちなみに、十万石とは、十万人が一年間食べられる米の生産量『石高』を指す。
比較すると、関ヶ原の戦い前に小早川秀秋が持っていた領地の総石高は三十五万石。西軍の中核である石田三成の領地は二十万石。
つまり、十万石という褒美がいかに大盤振る舞いか、よくわかるだろう。
もちろん、土地には限りがある。
十万石の褒美を誰かに与えれば、その分、十万石分の領地を削られる者が出る。誰が泣きを見ることになる。
だが、これは夢だ。問題などない。
戦後処理を考えるのも無駄の無駄。その頃には、きっと目が覚めているに違いない。
「じゅ、十万石……。ま、誠にございますか?」
「フハハハハっ! 不安なら、もう一度言ってやろう!
十万石! 家康の首に十万石だ! 誰であろうと、十万石をやろう!
そう、味方だろうと、敵だろうとハッピーウェルカム!
今は仰ぐ旗が違っても、最後に我が旗の下に、家康の首を持ってきた者には十万石をやるぞ!」
「は、はっぴー、法被うぇ、上……。な、何ですと?」
稲葉のおっさんが泡を食っている様子を見て、俺は高笑いした。
さらに、大盤振る舞いの褒美を重ねて宣言すると、その効果はまたたく間に現れた。
徳川家の足軽たちから、ざわめきが湧き上がる。
各々が武器をこちらに向けながらも、意識は隣の仲間たちに向かって揺れていた。
「フハハハハハハハハハっ!
さあさあ、皆のもの! 誰が一番早く家康の首を穫るかの競争だ!
フハっ! ……フハハハハっ! フハハハハハハハハハハハハハハっ!」
日本の歴史上、一、二を争う裏切り者『小早川秀秋』が、裏切りを促すという皮肉。
そのおかしさに、俺の高笑いは止まる気配がない。呼吸は乱れ、腹筋は痛くなるほどだった。




