ワーキング・オブ・ザ・デッド
本作品は完全なるフィクションです。登場する企業、人物、製品、事件のすべては架空のものであり、実在する個人、団体、企業、地域とは一切関係ありません。また、特定の思想、価値観、労働環境、国や文化を批判・攻撃する意図はありません。本作は現代社会における「働くこと」の意味を問い直すための寓話的作品であり、エンターテインメントとしてお楽しみいただければ幸いです。
畑羅木大造が壇上に立ったとき、東京ビッグサイトの特設会場は異様な熱気に包まれていた。
三千人を超える報道陣、投資家、ビジネスパーソンたちが、巨大スクリーンに映し出された会長の顔を見つめていた。六十代半ばとは思えない引き締まった体躯、深い皺が刻まれた精悍な顔立ち、そして何より──その目に宿る、狂気すれすれの確信に満ちた光。
「皆さん」
畑羅木の声がスピーカーを通じて会場に響き渡った。
「人類は長い間、『疲労』という制約に縛られてきました。どれほど優秀な人材も、どれほど熱意のある若者も、一日八時間の睡眠という生物学的な枷から逃れることはできなかった。しかし──」
彼は間を置き、会場を見渡した。
「もし、その枷を外せるとしたら?」
スクリーンに巨大な製品画像が映し出された。黒と金を基調とした洗練されたボトルデザイン。そこには力強いゴシック体で「ETERNAL WORK ENERGY」と刻まれていた。
「エターナル・ワークエナジー。それは単なる栄養ドリンクではありません。人類の生産性を、文字通り『次元』の違うレベルへと引き上げる、革命的イノベーションなのです」
会場がどよめいた。
「本製品一本で、八時間の睡眠に匹敵する覚醒効果。疲労の完全な消失。集中力の劇的な向上。これらすべてを、科学的に実証された安全な成分で実現いたしました」
畑羅木は満面の笑みを浮かべた。その笑顔には、どこか人間離れした輝きがあった。
「未来は、努力で掴むものです。そして努力とは──休まないことです」
会場は割れんばかりの拍手に包まれた。誰もその言葉の真意に気づいていなかった。いや、気づきたくなかったのかもしれない。
発表会の隅で、一人の若い研究員が青ざめた顔で立ち尽くしていた。彼女の名は桐生美咲。畑羅木製薬第七応用生命科学研究室の主任研究員だった。
彼女だけが知っていた。あの製品の本当の恐ろしさを。
田中誠は典型的なサラリーマンだった。
三十二歳、中堅商社の営業マン。妻と五歳の娘がいる。住宅ローンを抱え、毎朝七時に家を出て、終電で帰宅する日々。上司からのプレッシャー、取引先からの無理難題、減らない書類の山。
彼の人生は、疲労との闘いだった。
「また寝てたの?」
妻の冷たい声で目が覚めた。リビングのソファで、スーツのまま眠り込んでいたらしい。テレビでは朝のニュース番組が流れている。
「ごめん.昨夜遅くて」
「娘の誕生日、覚えてる? 今週末よ」
田中は頭を抱えた。完全に忘れていた。
「プレゼント、まだ買ってないでしょ」
「今週末、時間作るから──」
「いつもそう言って、結局仕事でしょ」
妻は呆れたように首を振り、キッチンへと消えた。
通勤電車の中で、田中はスマホを眺めていた。SNSのタイムラインには、あの製品の広告が執拗に流れてきた。
『疲れを忘れる。眠りを超える。ETERNAL WORK ENERGY』
畑羅木会長の自信に満ちた笑顔。成功したビジネスマンたちの証言動画。
「これを飲んでから、人生が変わりました」
「もう疲労という言葉を忘れました」
「仕事の効率が二倍になりました」
田中は迷った。怪しい。明らかに怪しい。でも──
もし本当なら?
もし本当に疲れを感じなくなるなら、仕事を終わらせられる。週末に娘とゆっくり過ごせる。妻との時間も作れる。
コンビニに寄った。レジ横の特設コーナーに、あの黒と金のボトルが山積みになっていた。
「一本、ください」
店員は無表情に商品を手渡した。値段は普通のエナジードリンクの三倍。だが、田中は躊躇しなかった。
オフィスのデスクで、田中はボトルを見つめた。
同僚たちは誰も気づいていない。皆、自分の仕事に追われている。窓の外には灰色の空。時計の針は午前九時を指している。
田中は意を決してボトルを開けた。
甘酸っぱい、だがどこか金属的な香り。一口飲むと、舌に奇妙な刺激が走った。
最初は何も変わらなかった。
だが──十分後。
田中の視界が、突然鮮明になった。
いつもなら重たく感じる瞼が、軽い。頭の中の靄が晴れていく。心臓の鼓動が、力強く、規則正しく響く。
パソコンの画面を見た。いつもなら億劫に感じる業務報告書の作成。だが今は、指が勝手に動くかのようにキーボードを叩いている。思考が明瞭だ。集中できる。疲れを、感じない。
三時間後、田中は通常一日かかる業務を終えていた。
「田中さん、もう終わったの?」
隣の席の後輩が驚いた顔をした。
「ああ、調子がいいんだ」
田中は笑った。久しぶりに、心からの笑顔だった。
その日、日本中で同じことが起きていた。
大学生の佐藤健太は、一週間後に迫った試験勉強のため、エターナル・ワークエナジーを購入した。徹夜で勉強できる。そう思った。
実際、彼は三日間眠らずに勉強を続けた。教科書の内容がスポンジのように頭に入っていく。疲れない。眠くない。素晴らしい。
看護師の山田由美は、夜勤明けでも疲れを感じなくなった。いつもなら帰宅後すぐに眠るのに、家事を完璧にこなし、趣味の読書まで楽しめた。
フリーランスのプログラマー、鈴木大輔は、納期に追われる毎日からの解放を感じた。コードが次々と書ける。バグも見つけやすい。クライアントからの評価も上がった。
最初の一週間は、まさに夢のようだった。
SNSには喜びの声が溢れた。
「このドリンク、マジで人生変わる」
「もう普通のエナジードリンクには戻れない」
「仕事が楽しくなった」
「畑羅木会長、ありがとう!」
株価は急騰した。畑羅木製薬の時価総額は、一週間で二倍になった。
しかし、誰も気づいていなかった。
彼らの目が、少しずつ焦点を失っていることに。
表情が、徐々に硬直していることに。
そして──笑顔が、どこか不自然になっていることに。
変化に最初に気づいたのは、家族たちだった。
田中の妻、真由美は夫の異変を感じていた。
夫は確かに、以前より早く帰宅するようになった。仕事の効率が上がったのだという。だが──
「ねえ、あなた」
真夜中、真由美は目を覚ました。寝室のベッドに、夫の姿がない。
リビングに行くと、田中がパソコンに向かっていた。
「まだ仕事?」
「ああ、明日の準備を」
「もう二時よ。寝ないの?」
「大丈夫。全然眠くないんだ」
田中は振り返った。その顔に、笑顔はなかった。いや、笑顔のようなものはあったが──それは筋肉が機械的に形作った、生気のない笑顔だった。
「あなた、最近おかしいわよ」
「おかしい? 仕事が順調なんだよ。これまでで一番調子がいい」
「でも、あなた.三日間、一度も寝てないわよね」
田中は首を傾げた。
「そうだっけ?」
「覚えてないの?」
「睡眠.そうか、寝てないのか。でも、全然疲れてないから気づかなかった」
真由美の背筋に悪寒が走った。
夫の目が、どこか遠くを見ている。いや、何も見ていない。焦点が合っていないのだ。
「ねえ、病院に──」
「大丈夫だよ」
田中は再びパソコンに向き直った。
「仕事があるから」
それ以降、夫は一言も発しなかった。ただ黙々と、キーボードを叩き続けた。
大学生の佐藤健太の様子に気づいたのは、ルームメイトの高橋だった。
「おい、佐藤。いい加減寝ろよ」
四日目の朝、高橋は声をかけた。佐藤は机に向かったまま、教科書を凝視していた。
「大丈夫。もうすぐ試験だから」
「お前、いつ寝たんだよ。ずっと起きてるだろ」
「睡眠は非効率だ」
佐藤が答えた。その声は平坦で、抑揚がなかった。
「非効率?」
「人間は人生の三分の一を睡眠に費やす。それは時間の無駄だ。僕はその時間を勉強に使える」
高橋は佐藤の顔を覗き込んだ。
瞳孔が開いている。瞬きがほとんどない。頬は蒼白で、唇は乾燥してひび割れている。
「お前、明らかにおかしいって。病院行こうぜ」
「必要ない」
佐藤は教科書をめくった。その動作は機械的で、まるでプログラムされたロボットのようだった。
「勉強しなければ」
「おい、佐藤」
「勉強しなければならない。試験がある。合格しなければならない。勉強しなければ、勉強しなければ、勉強しなければ──」
佐藤は同じ言葉を繰り返し始めた。その目は虚ろで、どこも見ていなかった。
高橋は恐怖を感じた。
これは友人ではない。友人の皮を被った、何か別の存在だ。
看護師の山田由美は、病院の更衣室で同僚に詰め寄られていた。
「山田さん、あなた最近おかしいわよ」
先輩看護師の木村が、心配そうな顔で言った。
「おかしい? 仕事はちゃんとしてます」
「ちゃんとしすぎてるのよ! 夜勤を五日連続で入って、休憩も取らないで。人間じゃないわよ、そんなの」
「大丈夫です。疲れてませんから」
由美は笑った。だがその笑顔は、どこか歪んでいた。
「あなた、いつ寝てるの?」
「睡眠.そうですね、最近はあまり.」
「あまり、じゃないでしょ! 一週間よ、一週間! あなた、その間一度も家に帰ってないって聞いたわ」
由美は首を傾げた。
「そうでしたっけ? でも仕事は終わってないですから」
「終わらないわけないでしょ! あなた一人で三人分の仕事してるのよ!」
木村は由美の肩を掴んだ。
「ねえ、聞いて。あのドリンク、飲むのやめなさい」
「なに?」
「エターナル・なんとかってやつ。ロッカーに山積みになってたでしょ。あれ、絶対おかしいわよ」
由美の表情が、一瞬だけ変化した。恐怖とも、怒りとも取れる感情が、その顔を横切った。
だがすぐに、また無表情に戻った。
「大丈夫です。私は大丈夫です。仕事がありますから」
由美は更衣室を出た。
木村は震えていた。
あれは、山田由美ではない。
何か別の存在だ。
フリーランスのプログラマー、鈴木大輔の最後のメッセージは、午前四時に送信された。
「納品完了。次の案件お願いします」
クライアントの加藤は、そのメッセージを見て首を傾げた。
鈴木とは五年来の付き合いだ。優秀なプログラマーだが、いつも納期ギリギリで、しかも必ず文句を言ってくる。それが彼の性格だった。
だが今週は違った。
依頼した三つの案件を、すべて予定の半分の時間で仕上げてきた。しかもクオリティは完璧だ。
おかしい。
加藤は電話をかけた。
数回のコール音の後、鈴木が出た。
「はい」
声が違う。いつもの砕けた口調ではなく、無機質な単語だけだ。
「鈴木さん? 加藤です。納品ありがとう。でも、ちょっと心配で──」
「次の案件をください」
「え?」
「仕事をください。仕事が必要です」
「いや、でも休まなくて大丈夫? 最近すごいペースでしょ」
「休息は不要です。仕事をください」
電話の向こうから、規則正しいキーボードの音が聞こえた。カタカタカタカタ。機械のように正確なリズム。
「鈴木さん、今何してるんですか」
「コーディングです」
「何の?」
「わかりません。でもコードを書かなければなりません。書かなければ、書かなければ、書かなければ──」
電話が切れた。
加藤は受話器を握りしめた。手が震えていた。
何かがおかしい。明らかに、何かが。
異変が社会問題として認識されたのは、発売から二週間後のことだった。
最初の報道は、小さな地方紙の記事だった。
『深夜のオフィス街で異様な光景 眠らずに働き続ける人々』
記者の藤井は、深夜二時に東京・丸の内のオフィス街を歩いていた。
ビルの窓という窓に、明かりが灯っている。普段なら真っ暗なはずの時間帯に。
そして窓の向こうには、無数の人影。
全員が、デスクに向かって何かをしている。動きが機械的だ。まるでベルトコンベアの上の製品のように、規則正しく、リズミカルに。
藤井はあるビルに入ってみた。
エレベーターに乗ると、途中の階で三人のビジネスマンが乗り込んできた。
全員がスーツ姿。だが、そのスーツはしわだらけで、明らかに何日も着続けている。
顔は蒼白。目は虚ろ。表情がない。
「お疲れ様です」
藤井が挨拶すると、三人は同時に顔を向けた。
その動きが、恐ろしいほど同調していた。まるで一つの意思に支配されているかのように。
「仕事があります」
三人が同時に答えた。
藤井の背筋に悪寒が走った。
十五階で降りると、オフィスフロアが広がっていた。
百人近い社員が、全員デスクに向かっている。
誰も会話していない。誰も休憩していない。ただひたすらに、キーボードを叩き、書類をめくり、電話をかけている。
「あの……」
藤井が声をかけると、最も近くにいた女性社員が顔を上げた。
目が合った。
その目には、何の感情もなかった。
生きているのか、死んでいるのか、判別できない。
「仕事の邪魔です」
女性は再び画面に向き直った。
藤井は慌ててオフィスを出た。
同じ頃、渋谷駅前では別の異変が起きていた。
深夜三時。普段ならまばらな人通りの中、数十人の群衆が徘徊していた。
全員がスーツ姿。あるいは制服姿。
彼らは目的もなく、ただ歩いている。交差点を何度も往復し、同じ場所をぐるぐると回り、ときおり立ち止まって虚空を見つめる。
警備員の田所は、その光景に恐怖を感じていた。
「おい、大丈夫か?」
一人の男性に声をかけた。
男性は振り返った。その顔には表情がない。
「会社に行かなければ」
「今、夜中だぞ。会社は閉まってる」
「会社に、行かなければ」
男性は同じ言葉を繰り返し、また歩き始めた。
田所は無線で本部に連絡した。
「こちら渋谷駅前。異常事態発生。多数の不審者が徘徊。応援を要請する」
だが、本部からの返答は予想外のものだった。
「了解。だが対処不能。東京都内全域で同様の報告が相次いでいる。警察も手が回らない状態だ」
「全域?」
田所は絶句した。
SNSが炎上し始めたのは、その夜だった。
「#ワーキングゾンビ」
「#エターナルワークエナジー被害」
「#畑羅木製薬を許すな」
ハッシュタグが次々とトレンド入りした。
動画が拡散された。
オフィスで延々と働き続ける人々。
駅前を徘徊する無表情の群衆。
家族の制止を振り切って会社に向かう父親。
教室で教科書を凝視し続け、声をかけても反応しない学生。
恐怖と混乱が、日本中に広がった。
テレビ局は緊急特番を組んだ。
「今、日本で何が起きているのか」
コメンテーターたちは言葉を失っていた。医師は首を傾げ、心理学者は推測を並べ、政治家は責任の押し付け合いをした。
だが、誰も本質を理解していなかった。
これはただの副作用ではない。
人間を機械に変える呪いだ。
畑羅木製薬本社ビルは、報道陣に包囲されていた。
だが、奇妙なことに、社員たちは通常通り出勤していた。
いや、「通常通り」ではない。
二十四時間体制で、絶え間なく、人が出入りしていた。
記者の一人が、出てきた社員に声をかけた。
「あなた、畑羅木製薬の方ですよね? 今の状況をどう思いますか?」
社員は立ち止まった。目が虚ろだ。
「仕事があります」
「でも、あなたの会社の製品で多くの人が被害に──」
「仕事があります。仕事が、仕事が、仕事が──」
社員は同じ言葉を繰り返しながら、ビルの中に消えていった。
ある記者が気づいた。
ビルの窓という窓に、社員の姿が見える。全員が何かの作業をしている。
誰も休んでいない。
誰も帰っていない。
まるで、このビル全体が巨大な蟻塚のようだった。
そして──その蟻塚の女王は、最上階にいる。
畑羅木大造。
桐生美咲は、研究室の奥深くに身を潜めていた。
第七応用生命科学研究室。エターナル・ワークエナジーが開発された場所。
彼女は知っていた。すべてを。
三年前、畑羅木会長が研究チームを召集したとき、美咲は期待に胸を膨らませていた。
「究極の覚醒剤を作る」
会長の言葉はシンプルだった。
「人間の限界を超える。睡眠を不要にする。疲労を消去する。それができれば、人類の生産性は三倍になる」
最初は、ただの夢物語だと思った。
だが、会長は本気だった。
潤沢な研究費。最先端の設備。そして──倫理委員会を通さない、自由な研究環境。
「結果だけを出せばいい」
会長はそう言った。
研究は順調だった。いや、順調すぎた。
ミトコンドリア活性化複合体M-ATP-Xの発見。ナノカフェイン微粒子の合成。ヒト型オートリカバリペプチドの開発。
一つ一つは画期的な成果だった。
だが、それらを組み合わせたとき──
動物実験の結果が、すべてを物語っていた。
マウスは眠らなくなった。餌を食べなくなった。ただ、回し車を回し続けた。
そして──十四日後、心臓が停止するまで、一度も止まらなかった。
「会長、これは危険です」
美咲は報告した。
「被験動物は確かに活動を続けますが、それは生存本能が機能していないだけです。これは覚醒ではなく、生命維持機能の停止です」
畑羅木会長は笑った。
「それでいい」
「え?」
「人間は弱い。疲れた、眠い、休みたい。そんな『弱さ』が生産性を下げる。だが、その弱さを消せば──人間は完璧な労働機械になる」
美咲は背筋が凍った。
「それは、人間ではありません」
「その通り。人間を超えた存在だ。ホモ・ラボランス。働く人類だ」
会長の目は、狂気に満ちていた。
美咲は抵抗した。
研究データを改ざんしようとした。実験を妨害しようとした。内部告発を試みた。
だが──
「桐生君、君は疲れているようだな」
ある日、会長が研究室を訪れた。
「これを飲みたまえ」
手渡されたのは、試作品のボトルだった。
「いえ、結構です」
「飲むんだ」
会長の声に、拒否できない圧力があった。
美咲は逃げ出そうとした。
だが、研究室の扉が開き、数人の警備員が入ってきた。
全員の目が、虚ろだった。
「飲みたまえ、桐生君。そうすれば、すべてが楽になる」
美咲は抵抗した。
だが、押さえつけられ、口を無理やりこじ開けられ──
液体が喉を通った。
最初は何も感じなかった。
だが、十分後。
美咲の中で、何かが変わった。
疲労が消えた。恐怖が消えた。感情が、薄れていく。
「さあ、仕事をしたまえ」
会長の声が聞こえた。
美咲の手が、勝手にキーボードに向かった。
ダメだ。これは、ダメだ。
意識の奥底で、本来の美咲が叫んでいた。
だが、体は言うことを聞かない。
研究報告書を作成している。肯定的なデータだけを抽出している。
やめろ。やめてくれ。
しかし、指は止まらない。
三日後、美咲は「完璧な」研究報告書を完成させた。
エターナル・ワークエナジーの安全性を保証する、嘘だらけの報告書を。
そして──製品は発売された。
だが、美咲の中で、何かが変わった。
摂取から一週間後、突然、効果が切れた。
まるで悪夢から覚めるように。
美咲は研究室の床に倒れ込んでいた。
体中が痛い。頭がガンガンする。吐き気がする。
だが──意識が、戻ってきた。
自分の意思が、戻ってきた。
「私は、何を」
記憶が蘇った。
あの報告書。嘘のデータ。そして、発売。
「止めなきゃ」
美咲は立ち上がろうとしたが、体が動かない。一週間まともに食事も水分も取っていなかったのだ。
這うようにして、自分のロッカーに辿り着いた。
スマートフォンを取り出す。
誰に連絡すればいい? 警察? マスコミ?
いや、もっと確実な方法がある。
美咲はサーバーにアクセスした。
研究データのすべて。動物実験の結果。内部資料。そして──会長の狂気に満ちたメモの数々。
「これを、外に」
研究室の扉が開いた。
畑羅木会長が立っていた。
「桐生君。まさか、耐性を持っていたとはね」
美咲は震えた。
「やめてください、これ以上は」
「やめる? なぜだ? 完璧ではないか。見たまえ、日本中の労働者が、文句も言わず働いている。これこそ理想の社会だ」
「違うわ。地獄ですよ」
「いいや、労働の天国だ」
会長は笑った。
「君には残念だが、ここで終わりにしてもらう」
警備員たちが美咲に近づいた。
美咲は最後の力を振り絞り、スマートフォンのボタンを押した。
データ送信。
送信先──全国の主要メディア、政府機関、警察。
「送信完了」
美咲は笑った。
「終わりにしましょう。私たちは、間違えた」
会長の顔が歪んだ。
美咲が送信したデータは、瞬く間に拡散された。
テレビ、新聞、インターネット。あらゆるメディアが、一斉に報じた。
『畑羅木製薬、人体実験を隠蔽』
『エターナル・ワークエナジー、生命維持機能を停止させる毒物と判明』
『畑羅木会長「労働こそ人類の使命」と狂気の発言』
社会は激震した。
政府は緊急対策本部を設置。厚生労働省と警察は、畑羅木製薬本社への一斉捜査を開始した。
だが──
本社ビルに突入した機動隊を待っていたのは、地獄絵図だった。
ビルの中は、人で溢れていた。
全員が社員。そして全員が──働いていた。
何日も、何週間も、休まずに。
あるフロアでは、社員が机に突っ伏していた。だが、その手は今も動いている。ペンを握り、書類に何かを書き続けている。
心臓は止まっているのに。
あるフロアでは、社員たちが会議をしていた。だが、誰も言葉を発していない。ただ口を開閉させ、首を縦に振り、資料をめくっている。
目は虚ろで、すでに光を失っているのに。
最上階、会長室。
そこに畑羅木大造がいた。
彼もまた、デスクに向かっていた。
「確保!」
警察官が叫んだ。
畑羅木は振り返った。
その顔は蒼白で、目は血走り、口元からは泡を吹いていた。
「仕事が、終わらない」
彼もまた、自社製品の犠牲者だった。
誰よりも多く、誰よりも長く、エターナル・ワークエナジーを摂取し続けていた。
「働かなければ。人間は、働くために――」
畑羅木は立ち上がろうとして、その場に崩れ落ちた。
心臓が、限界を超えていた。
その夜、全国の病院に、ワーキングゾンビたちが搬送された。
医師たちは必死の治療を行った。
しかし、治療法がわからない。
強制的に眠らせても、数時間後には目を覚まし、また何かの作業を始めようとする。
点滴を繋いでも、自分で引き抜いて逃げ出そうとする。
「仕事が、仕事が」
患者たちは同じ言葉を繰り返した。
ある病院の医師、中村は、絶望していた。
妻がワーキングゾンビになっていた。
看護師として働いていた妻が、あのドリンクを飲み、そして──
「治せない。こんな症状、見たこともない」
中村は妻のベッドの横で泣いた。
妻は虚ろな目で天井を見つめ、空中で何かを書く仕草を繰り返していた。
「頼む。戻ってきてくれ.」
妻は反応しなかった。
田中誠は、病院のベッドで目を覚ました。
どれくらい眠っていたのだろう。
体が重い。頭が痛い。だが──
「お父さん!」
娘の声が聞こえた。
「かすみ」
五歳の娘が、ベッドに駆け寄ってきた。その後ろに、妻の真由美がいた。
真由美は泣いていた。
「良かった。本当に良かった.」
「俺は……」
記憶が蘇ってきた。
あのドリンクを飲んだこと。働き続けたこと。妻の制止を無視したこと。
そして──娘の誕生日を、またしても忘れていたこと。
「本当に、ごめん.」
田中は泣いた。
人間らしい、感情のこもった涙だった。
医師が部屋に入ってきた。
「田中さん、良かったですね。意識が戻って」
「先生、他の人たちは?」
医師は首を振った。
「まだです。多くの患者が、ワーキングゾンビ状態のままです。ただ──何人かの患者に、回復の兆しが見えています。おそらく、摂取量や期間によって、回復の可能性が変わるのでしょう」
希望の光だった。
小さな、だが確かな希望。
それから三ヶ月後。
日本は、ゆっくりと回復しつつあった。
エターナル・ワークエナジーの全在庫は廃棄された。畑羅木製薬は解体され、経営陣は全員逮捕された。
ワーキングゾンビとなった人々の多くは、徐々に回復していった。
完全に元に戻った人。後遺症が残った人。そして──二度と目覚めなかった人。
犠牲者は、最終的に千二百人を超えた。
桐生美咲は、病院のベッドで新聞を読んでいた。
『働き方改革、新たな段階へ』
『長時間労働規制、大幅強化』
『企業に義務付けられる休息時間』
政府は本腰を入れた。もう二度と、このような悲劇を繰り返さないために。
美咲は窓の外を見た。
東京の街並み。オフィスビル。
あの事件以来、深夜のビルはほとんど明かりが消えるようになった。
人々は定時で帰宅し、家族と過ごし、趣味を楽しみ、そして──ちゃんと眠るようになった。
「皮肉なものね」
美咲は呟いた。
「あれほど悲惨な事件が起きて、ようやく人々は気づいた。働くことだけが人生じゃないって」
田中誠は、娘と公園にいた。
週末。かつては仕事で潰れていた、貴重な時間。
「お父さん、見て!」
かすみがブランコから手を振った。
「危ないぞ、ちゃんと掴まって」
田中は笑った。
あの悪夢のような日々を思い出すと、今も震えが来る。
だが、同時に──あれは必要な経験だったのかもしれない。
自分が何を大切にすべきか。何のために働くのか。
それを、骨身に染みて学んだ。
「お父さん、今度の誕生日、一緒にいてくれる?」
「もちろんだ。絶対に一緒にいるよ」
それは、心からの約束だった。
すべてが解決したわけではなかった。
海外では、あの事件を「日本特有の問題」として片付けようとする動きがあった。
「日本人は元から働きすぎだ」
「ドリンクがなくても、似たようなものだろう」
「我々には関係ない」
だが、それは間違いだった。
ある国の研究機関が、密かにエターナル・ワークエナジーの成分分析を行っていた。
「実に、興味深い」
研究主任は、データを見つめながら呟いた。
「これを軍事利用できれば.眠らない兵士を作ることができる」
別の国では、企業が水面下で接触を試みていた。
「畑羅木製薬の研究チームを引き抜けないか?」
「あの技術は、使い方次第で莫大な利益を生む」
人間の欲望は、終わらない。
そして──
廃棄されたはずのエターナル・ワークエナジーの在庫が、闇市場に流れ始めているという噂もあった。
美咲は退院し、新しい研究所で働き始めた。
今度は、エターナル・ワークエナジーの解毒剤の開発だ。
まだ後遺症に苦しむ人々のために。
研究室で、彼女はふと手を止めた。
デスクの上に、見覚えのないボトルが置かれている。
黒と金のデザイン。
だが、ラベルが違う。
『ETERNAL WORK ENERGY 2.0 - 改良版』
美咲の血の気が引いた。
まさか――
ボトルを手に取ると、裏面に小さな文字があった。
『副作用を大幅に軽減。安全性を向上させた新処方』
差出人不明。
美咲は周りを見回した。
誰もいない。
窓の外、遠くのビルの屋上に、人影が見えた。
双眼鏡でこちらを見ている。
美咲が目を凝らすと、その人物は消えた。
「終わってない」
美咲は呟いた。
「まだ、終わってない」
その夜、インターネットの片隅に、奇妙な広告が現れた。
『真の覚醒を求める方へ。ETERNAL WORK ENERGY 2.0 近日発売』
深夜のオフィス街に、また灯りが増え始めた。
本作『ワーキング・オブ・ザ・デッド』は、現代社会における労働と人間性の関係を問い直すために書かれたフィクションです。
私たちの社会は、「働くこと」を過度に美化してきたのではないでしょうか。勤勉は美徳です。努力は尊いです。しかし、それが行き過ぎたとき──人間は人間であることを忘れてしまいます。
この物語に登場する「エターナル・ワークエナジー」は極端な例ですが、現実にも似たような圧力は存在します。終わらない仕事。減らない残業。「頑張れ」という無責任な励まし。そして、休むことへの罪悪感。
ワーキングゾンビは、フィクションではないのかもしれません。
ただ、程度の差があるだけで。
本作が、読者の皆様に「働くこと」と「生きること」の違いを考えていただくきっかけになれば幸いです。
そして──疲れたときは、どうか休んでください。
それは弱さではありません。
人間らしさ、なのですから。




