第5話 野良猫は、死神の匂いを纏って
聖女の「過保護」と、魔女の「実験」。
二つの脅威から命からがら逃げ出した俺は、王都の裏路地にあるゴミ捨て場の陰に身を潜めていた。
「はぁ……はぁ……撒いたか……?」
心臓が早鐘を打っている。
これは恋のときめきではない。純粋な生存本能による恐怖だ。
あの二人、俺を「師匠」やら「サンプル」やらと呼んでいるが、その瞳の奥にあるのは明確な「独占欲」だ。捕まれば、即ち死である。
「くそっ、異世界転生特典が『モテ期』とか、どの神様の悪ふざけだ……」
俺は膝を抱えてうずくまった。
今の俺に必要なのは、孤独だ。
誰の視線にも晒されず、誰の感情も向けられない、完全なる孤独こそが癒やしなのだ。
――くんくん。
不意に、鼻をすする音が聞こえた。
頭上だ。
「……あ?」
見上げると、路地裏の塀の上に、影があった。
逆光でよく見えないが、小柄な人影だ。頭には……三角の耳? お尻には、ゆらゆらと動く長い尻尾?
「にゃは。見つけた」
その影は、重力を無視した身軽さで飛び降りてきた。
トン、と音もなく俺の目の前に着地する。
茶色のショートヘア。
健康的な褐色の肌。
露出度の高い盗賊風の軽装からは、引き締まった手足が伸びている。
猫獣人の少女だ。
「くんくん……うん、やっぱり! この路地で一番『いい匂い』がする!」
少女は俺の首筋に鼻を近づけ、思い切り息を吸い込んだ。
近い。近すぎる。
初対面の距離感がマイナスに振り切れている。
「誰だお前! 警察呼ぶぞ! いや、保健所か!?」
「あたし? あたしはミルミル! ねえねえ、お兄さん、美味しそうな匂いだね。マタタビ酒と、あとなんか……危なくて甘い匂い!」
ミルミルと名乗った少女は、俺の胸板にペタリと張り付いた。
柔らかい感触と、獣特有の日向の匂いがする。
【警告。新規ヒロイン接触】
【ミルミル・テイルスナッチ(猫獣人)。危険度判定:計測不能】
【理由:本能で生きているため、ブレーキが存在しません】
ブレーキがない車に乗せられるようなものか!
俺は慌てて彼女を引き剥がそうとした。
「離れろ! 俺は臭いぞ! 風呂に3年入ってない! 脇の下から毒ガスが出てるんだ!」
「ううん、いい匂い! これ好きー!」
だめだ、嘘が通じない。
というか、俺の「危険な色気(スキル補正)」が、獣人の本能には「極上の獲物」として認識されているらしい。
ミルミルは俺の腕に頬ずりを始めた。
ゴロゴロと喉を鳴らしている。
「あーん、落ち着くぅ……。ねえ、お兄さん。あたしの『飼い主』になってよ」
「断る! 俺はペット禁止のマンションに住んでるんだ!」
「じゃあ、あたしが『飼い主』になってあげる! お兄さんを拾ってあげるね!」
論理が飛躍した。
そして、彼女の瞳孔がスッと縦に細まった。
獲物を狙う目だ。
【警告。対象の興奮レベル上昇】
【「所有欲」および「食欲(性的な意味含む)」の混在】
【心拍数同期率、80%……危険域です】
視界が明滅する。
ミルミルが俺を押し倒そうと体重をかけてくる。小柄なくせに馬鹿力だ。
「大人しくしててね? まずは『マーキング』しなきゃ……ガブってしていい?」
「ダメに決まってんだろ狂犬病!」
ガブッ=契約=番認定=即死。
この連想ゲームは絶対に阻止しなければならない。
俺は必死にポケットの中を探った。何か、何かないか。彼女の興味を逸らすものが!
手につかんだのは、さっきルミナから押し付けられた金貨袋に入っていた、一粒の「ビー玉(お守りの宝石)」だった。
「見ろ! 光る玉だぞ! キラキラだぞ!」
俺はビー玉を路地の奥へと全力で放り投げた。
「ほら取ってこい! 取ってきたら褒めてやる!」
犬扱いだ。猫だけど。
プライドの高い獣人なら激怒して冷めるはず――
「にゃっ!? キラキラ!」
ミルミルの目が釘付けになった。
彼女は俺からパッと離れ、四つん這いになってビー玉を追いかけた。
「わーい! 捕まえるー!」
チョロい!
野生の本能、チョロすぎる!
今だ、逃げろ!
俺は反対方向へダッシュした。
心の中で勝利のファンファーレが鳴る。
聖女は理屈で丸め込み、魔女は狂気でドン引きさせ、獣人は物で釣る。
完璧なサバイバル術だ。
だが。
路地裏を抜ける直前、背後から凄まじい風切り音が聞こえた。
ドォォン!!
俺の目の前の地面に、何かが突き刺さった。
それは、さっき投げたビー玉だった。壁にめり込んでいる。
そして、その横にミルミルが着地していた。
「取ってきたよ! はい、あげる!」
彼女は満面の笑みで、粉々になったビー玉の破片を俺に差し出した。
速すぎる。音速かよ。
「……あ、ありがとう……」
「へへっ、お兄さんと遊ぶの楽しい! 『取ってこい』遊び、もっとやる?」
ミルミルの瞳が、爛々と輝いている。
そこにあるのは、純粋無垢な「好意」。
そして、遊び相手に対する「執着」。
【警告。好感度上昇。「楽しい遊び相手」から「手放したくないオモチャ」へ昇格】
【即死リスク、継続中。むしろ運動後の高揚感で心拍数アップ】
「はぁ……はぁ……もう疲れた……」
「だらしないなぁ! じゃあ、元気が出るように……ちゅーしてあげる!」
「!?」
ミルミルが顔を寄せてくる。
唇が迫る。
待て、それは死の口づけだ。物理的にも社会的にもアウトだ!
俺はとっさに、近くにあったゴミ箱の蓋を盾にした。
ガンッ!
ミルミルのキス(というか頭突き)が、ゴミ箱の蓋に炸裂した。
「痛っ! ……むぅ、固いよお兄さん」
「俺は全身が金属でできてるサイボーグなんだ! キスすると唇が火傷するぞ!」
「ふーん……。変なの。でも、そういう『硬い男』も嫌いじゃないよ?」
ミルミルはニシシと笑い、俺の周りをグルグルと回り始めた。
「決めた。あたし、お兄さんのパーティーに入る!」
「は? 募集してないぞ」
「だって、お兄さんの側にいれば、毎日楽しそうだもん! 退屈しなそう!」
彼女の尻尾が、俺の手首にクルリと巻き付いた。
それはまるで、手錠のように。
「逃さないからね、ご主人様♪」
……終わった。
聖女は「師匠」。
魔女は「サンプル」。
そして獣人は「ご主人様」。
俺の呼び名が増えるたびに、寿命が縮んでいく気がする。
路地裏の空を見上げると、カラスがアホと鳴いた。
俺の『ハーレム拒絶戦争』は、まだ始まったばかりだ。




