第二章 第五十三話:「南京の官僚との交渉開始」
天正五年(1577年)冬——南京・明国官庁
広州での交渉を成功させた俺たちは、いよいよ明の南京へと足を踏み入れた。ここでの交渉に勝てば、黒川家は正式な勘合符を獲得し、明国との交易が公式に認められることとなる。
南京は広州とは比べ物にならないほどの大都市であり、行政機構も強固だった。明の中央官僚たちは慎重で、地方の役人とはまた異なる政治的駆け引きが必要になる。
「殿、南京の官庁にて面会の準備が整いました。」
藤堂宗春が報告する。
「しかし、今回の交渉相手は厳しい人物のようです。」
「厳しいとは?」
「南京の商務を統括する役人、『周啓祥』が我々の交渉を担当します。彼は生粋の官僚で、政治的な駆け引きを得意とする者です。」
俺は微笑んだ。
「つまり、理論と利益を示さねばならないということだな。まあ、任せろ。」
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*南京官庁での初会談
南京官庁に通されると、すでに周啓祥が待ち構えていた。彼は六十前後の年齢で、鋭い目つきが印象的だった。
「貴殿が黒川の代表か?」
周啓祥は低い声で言った。俺は明国語で言った。
「その通り。我々は正式な勘合符の発行を願い出るため、ここに参った。」
「ふむ……。」
周啓祥は静かに扇を閉じ、続けた。
「広州の報告は受けている。貴殿らは倭寇の討伐に協力し、貿易の安定を目指しているとのこと。しかし、勘合符の発行には、皇帝陛下の許可が必要である。それに、日本の内部事情についても考慮しなければならぬ。」
俺は少し笑った。
「貴国が日本の内部事情をどれほどご存じか、興味深いですね。」
「……信長という男が台頭し、戦国の混乱を鎮めつつあることは承知している。そして、その信長のもとで黒川が貿易を担おうとしているということも。」
周啓祥は俺をじっと見つめた。
「だが、日本の統一がまだ完全でない以上、貴殿らが国家を代表できるかどうかは疑わしい。」
俺は静かに頷いた。
「確かに、その指摘はもっともだ。しかし、日本の情勢が安定するまで交易を止めていては、貴国も利益を逃すことになろう。」
「利益、か?」
「その通り。我々は、安定した貿易を提供できる。倭寇の排除にも協力し、また、貴国にとって重要な物資を供給することができる。」
俺は手元の書簡を取り出した。
「これは、その織田信長より預かった書状だ。黒川家が日本国内で正式に貿易を任されていることを示している。織田家は、黒川家を通じて貴国との関係を強化することを望んでいる。」
周啓祥は書簡を受け取り、慎重に目を通した。しばらくして、
「……なるほど、信長は貴殿を支持しているようだ。しかし、それだけでは不十分だ。」
「では、何が必要なのか?」
周啓祥はゆっくりと茶を啜りながら言った。
「貴殿が真に明にとって有益であると示すには、さらなる貢献が必要だ。」
「具体的には?」
俺が問うと、周啓祥は指を一本立てた。
「まず、わが国の南部で飢饉が発生している。貴殿らが日本の米を安定して供給できるかどうかを証明することだ。」
藤堂宗春が小声で呟く。
「米の供給……。」
「日本の穀倉地帯である近江や越前の米を調達し、貴国に輸出する手配は可能だ。」
俺は即座に答えた。
「我々はすでに交易網を確立し、南蛮商人とも協力関係にある。貴国への安定供給は十分に可能である。」
周啓祥は頷いた。
「それならば、試しに米を輸送し、その安定性を示してもらおう。」
「承知した。」
「さらにもう一つ。」
周啓祥は俺の目を見据えた。
「日本の商人が真に信用できるかどうかを示すため、勘合貿易の初回取引において、貴殿自らが立ち会い、我々の監督下で交易を行うことを条件とする。」
俺は軽く笑った。
「なるほど、信用の試練というわけですな。」
「その通り。これに応じられるか?」
俺は迷わず頷いた。
「問題ない。我々の誠意をもって、正式な勘合貿易の第一歩を踏み出そう。」
周啓祥は微笑み、手元の書を閉じた。
「では、交渉成立としよう。勘合符の正式発行には、これらの条件が満たされる必要がある。」
俺は深く一礼した。
「感謝する。我々は必ず、この試練を乗り越えてみせる。」




