元善光寺詣り
何十年ぶりかに元善光寺をお詣りしました。
昔訪れた時は、こんなに綺麗に整備されていなかったな~ 凄く綺麗になったな~ってのが、駐車場と参道での感想です。
門前の饅頭屋さんも、何だか立派な建屋になっていましたので、時の流れを感じてしまいました。
一度詣でよ元善光寺 善光寺だけでは片詣りなのだそうです。
善光寺にもお詣りしたことがありますが、こちらも数十年前ですから、もう一度お詣りしたいものですが、そこそこ遠いので中々行けませんね。
元善光寺は、今から約千四百年前 推古天皇十年に、本多善光公によって開かれました。 御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、天竺国から百済国経由で日本へ渡ってこられましたが、蘇我氏と物部氏の争いの後、物部氏によって難波の堀に沈められてしまいました。 本多善光公は信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人で、国司に従って都に上り、ある時、難波の堀江で宿命により一光三尊の如来に巡り会い、これを背に負って古里にお連れし、清めた臼の上に御尊像を安置し奉ったのが元善光寺の起源なのだそうです。 臼からは光明がさして光り輝き「御座光の臼」と呼ばれて今も元善光寺の霊宝となっています。
この元善光寺が開かれた地を座光寺と称するのも、この縁に因るものとのことらしいでいよ。 その後四十一年間を過ぎ、皇極天皇二年に仏勅によって一光三尊阿弥陀如来様の御尊像が芋井の里(現在の長野市)に遷られる際に「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来りて衆生を化益せん」との御誓願を御本尊様が残され、この時に授かった霊木を基にして善光公自ら一刀三礼にて、御本尊様と同じ大きさの一光三尊仏の御尊像を彫られた上で、この地に留められ、寺は元善光寺と呼ばれるようになりました。 そもそも元善光寺の名は本多善光公の名に基づき、元善光寺の元は本元の意を表し、御詠歌の「月半ば毎に来まさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来より元善光寺と長野市善光寺の両方お詣りしなければ片詣りと云われてますから、もしも可能ならは、両方のお寺をお詣りしたいものですね。
真っ暗な通路を手すりをたどって歩く『お戒壇巡り』は、御本尊様の真下に位置する開運の錠前(仏具の独鈷の形)に触れていただくことで御本尊様とより深い御縁を結んでいただくものだそうで、私も元善光寺をお詣りしに来たのだからと、記念に歩き巡りましたよ。
不思議なもので進む方向は本当に真っ暗なのに、最初の曲がり角で振り返ったら、後ろを歩いて来られる方の姿は視えるのですから、?って感じになりましたが、前を向くとやっぱり真っ暗で何も視えませんでした。
駐車場や参道の階段は新しく綺麗になりましたが、古いものもしっかり残っていましたし、手水鉢にはカラフルなビー玉が水の中に入っていて、何とも涼しげな雰囲気でした。
鐘楼の下には、とても古い鬼瓦等が無造作に並べてありましたし、南無阿弥陀仏と彫られた石碑は、貞享元年って制作年が刻まれてましたね。
ちなみに、貞享元年は西暦1684年だそうですから、340年ほど前の石碑となります。
本堂の床板で、年輪の♡を発見しましたので、記念に1枚パシャリ。




