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そして桜の樹の下で眠る

作者: 楠木夢路

 今日も変わりない日常のはずだった。康介はいつも通りに出勤して、いつも通りに仕事をしていた。

 変わらない日常に綻びをもたらしたのは、妻の静江がかけてきた一本の電話だった。昼休み前になる少し前、電話をかけてきた静江の声は緊張感を含んでいた。

「お義母さんの様子がおかしいの。救急車を呼んだから、搬送先の病院が決まったらまた連絡します」

 電話口から静江の動揺が伝わってきたが、康介はたいしたことはないだろうと高を括っていた。

 康介の母である正子は年の割に足腰もしっかりしていたし、大きな病気をしたこともない。週に三、四回はデイサービスに行っていたが、本人は「暇つぶしだ」と言っていたし、身の回りのことも自分でほとんどこなしているようだった。

 それでも静江は「放っておけないから」と事あるごとに正子の家に出かけては、食事を作ったり、掃除したりと正子の世話を焼きたがり、挙句に「いっそのことうちに来てもらえばいいじゃない、子供たちも自立して部屋だって空いているんだし」と言い出した。

 せっかく「スープの冷めない距離」でいい関係を保っているのにと康介は内心思っていたが、静江が熱心に勧めることもあり、正子に同居の提案をしてみた。しかし、案の定、正子は頑として首を縦に振らなかった。

「嫌ですよ、同居なんか。一人でいるほうが気楽でいいに決まっているでしょ」

 取り付く島なく、そう云い張る正子の強情さに康介はすっかり辟易していたが、同時に一人住まいを楽しんでいられるほど正子が元気なことに安堵していた。

 つい二日前の日曜日にも、康介夫婦は正子を誘って買い物に出かけたばかりだった。ついでに外食しようということになり、正子のリクエストでウナギを食べに行った。正子はぺろりとウナギを平らげて愉悦に浸っていた。その時も正子はすこぶる元気そうだったから、今頃はきっと静江の心配性を笑っているだろうと康介は悠長に構えていたのだ。

 いつも通り昼食をとるつもりで社内食堂に足を踏み入れた時、再び電話が鳴った。

「かなり危ないそうよ。すぐに来てください」

 とりあえず食事を諦め、午後は休暇を取ることにして康介は病院に向かった。だが、静江の緊迫した声を聞いても、康介はまだ心の中ではどこか楽観的に構えていた。

 だが、病院に着いた康介は愕然とした。

 意識のない正子の口元には酸素マスクがつけられており、胸元につけられた何本かの線が心電図のモニターにつながっている。顔面は蒼白で血の気もない。

「あなた……」

 枕元に座って、正子の手を握っていた静江が康介に気がついて振り返った刹那、心電図のモニターが警告音を発した。びくりと体を揺らした静江が立ち上がると同時に、数名の看護師と医師が部屋に飛び込んできた。看護師が静江に離れるように指示すると、すぐに医師が心臓マッサージを始めた。

 康介は為すすべもなくただ立ち尽くすばかりだった。

 思いも寄らない事態に直面した康介の思考はすっかり停止していた。慌ただしく動く医師や看護師を見ていながらも、目の前の出来事が現実だとは思えずに呆然とするばかりだった。

心臓マッサージをしていた医師がそっと正子から離れ、臨終を告げた。

「おばあちゃん、どうして……」

 正子に駆け寄り、泣き崩れる娘の姿を見て、康介は我に返った。気がつけば、静江の横には息子の紘一が立っている。康介は今の今まで、知らせを聞いた二人の子どもたちが駆けつけてきたことにさえ気がつかなかった。

 医師と看護師が出ていくと、家族だけになった。無言のままでベッドに近付いて、正子の手を取った紘一の頬が涙で濡れている。景子は「おばあちゃん、おばあちゃん」と言いながら、泣きじゃくっている。

二人の様子を黙って見つめていた康介の手を、傍らに立った静江がそっと握った。

 しばらく経って、入ってきた看護師に「エンゼルケアをさせていただきますので」と言われて、康介たちは部屋から出されてしまった。

 康介はエレベーターホールに置かれた固いソファーの隅に腰かけた。全身が鉛のように重く感じる。康介は腕を組んで目を閉じた。

 エンゼルケアが終える頃、手回しよく葬儀屋が準備した迎えの車が到着したことに康介は唖然とした。

「お前が呼んだのか?」

 静江に聞くと、静江はちょっと気まずそうにしながらも頷いた。

「お義母さんに頼まれていたの。死んだ後のことはちゃんと決めておくからって」

 康介は知らなかったが、正子は葬儀会館を自分で決めておいたらしい。

「でも、この先はあなたの役目よ。ショックでしょうけど、ちゃんと送ってあげないと」

 言いながら、静江はカバンから薄い冊子を取り出した。康介は訝しそうにそれを受け取った。表紙には「エンディングノート」と書かれている。ページをめくると「もしもの時には」と大きな文字で書かれている。

「なんだ、これ」

「救急車が来る前に、お義母さんが……。保険証と一緒に置いてあったの。延命治療は希望しないとか、葬儀屋さんに連絡先とか細かく書いてあったの。私もまだ全部に目を通したわけじゃないけど」

「おふくろの奴、何を考えているんだ、まったく。こんなもの用意していたなんて」

 康介は半ば呆れたような声を出した。

 康介だって、正子にもしものことがあったらどうするか考えておかなければとわかってはいたが、正子が元気なうちから病や死について考えるのは何となく縁起が悪い気がして考えたくなかった。もし病気でもなったらその時になってちゃんと考えればいいことだと、目をつぶって先送りにしていたことだった。

まさか、こんな形で死を迎えることは想定していなかったし、康介もいい年になっているとはいえ親を亡くすのは初めてのことだから、何をどうすればいいのかさっぱりわからない。静江には呆れてみせたが、内心はほっとしていた。

 葬儀会館に到着してからは感傷に暮れる暇はなかった。通夜は翌日に持ち越すことにしたものの、細かな打ち合わせが山ほどある。正子のエンディングノートには葬儀の内容に関わることだけでなく、宗派や菩提寺、墓所についても細かく書かれていたから、康介はエンディングノートをめくりながら詳細を決めていった。

 打ち合わせが済んだら、次は正子の遺体を清める納棺の儀が執り行われる。その合間には「会葬礼状の作成と式の進行に必要だから」と黒スーツに身を包んだ女性スタッフが取材に来て、正子の人生や人となりについて聞き取りをしていった。

 ようやくひと段落ついた頃には日が傾いていた。景子が時計を見て、荷物を手に取って立ち上がった。

「美香を保育園に迎えに行かなくちゃ。陽介さんも明日と明後日はお休みもらうって言っていたから、明日の午前中にみんなで来るわね」

 景子の言葉を受けて、紘一も腰を上げた。

「俺が送ってやるよ。どうせスーツとってこなきゃいけないし、ついでになんか食いもんでも買ってくる。父さん、母さん、何がいい?」

「いや、腹は減ってない」

 康介の言葉に、景子がすぐさま反論した。

「父さんが食べないと、母さんだって食べられないじゃない」

「そうだよ。それにちゃんと飯食わないとばあちゃんにどやされるよ」

 子供たちが言うことはもっともだが、康介はとても食べる気になれなかった。そんな康介をじっと見ていた静江が紘一に言った。

「私も乗せていってちょうだい。喪服を持ってこなきゃならないし、他にも色々準備しなくちゃいけないものもあるから」

「でも、お母さん」

 まだ何か言いたげな景子を静江は目で制した。

「あなた、ちょっといってきますね」

 そう言い残すと、子供たちの背中を押すように部屋を後にした。

 康介は静江の心遣いに感謝した。

 母親の死に動揺していたが、とはいえ、五十を過ぎた男が情けない姿を子供たちにみせるわけにはいかない。康介はできるだけ平静を保つため、正子の死に顔を目に入れないようにしていた。康介が正子の死にまだ向き合っていないことに静江は気がついていたのだろう。

 ひとりになってようやく、康介は真っ白な布団の上に寝かされた正子の傍に行って腰を下ろした。眠りについた正子の顔をまじまじと見つめた。

 こんなにあっけなく死が訪れることなど想定もしていなかった。

 血の気のない青白い顔を前にしても、康介には正子の死が現実だとは思えなかった。正子の顔はいつになく穏やかで、眠っているようにしか見えない。呼吸をしていないことが不思議なくらいだった。朝になったらいつも通りに起きて「あたしが死ぬわけないじゃない」と言い出しそうな気さえしてくる。

 正子はずっと一人だった。

 康介が幼い頃、父親は家を出て行った。以来、康介は父親には会っていない。母子家庭だからと言って不自由を感じた覚えがないのは、正子の性格ゆえだと康介は思っていた。康介の記憶では、父がいなくなっても正子はあきれるほどあっさりしていた。

「いないものはいないんだ」

 何を聞いてもそういうばかりで理由は教えてくれなかった正子だが、泣き言をいうでもなく、己の身を嘆くこともなかった。そのおかげで、父の存在がすっぽりと抜け落ちた生活でさえ、康介にとってはそれまでと大して変わりはなかった。

 高校を出たら働くつもりだった康介に進学を勧めたのも正子だった。経済的な負担をかけまいと思っていた康介の心を見透かしたように「あんたがちゃんと勉強して一人前になったら、たんまり親孝行してもらうよ」と言っていたくせに、康介の結婚が決まると、正子はさっさと家を出て行った。

 康介は、結婚しても同居するつもりだった。静江も快く同意していたにも拘わらず、正子は康介に何の相談もなく近所にアパートを借りて、勝手に一人暮らしを始めてしまったのだ。

 康介夫婦は困惑した。静江が言葉を尽くして引き留めたが、正子は聞く耳を持たなかった。康介はすぐに匙を投げた。正子は人の言うことを聞くようなタマではない。康介には、説得するだけ時間の無駄だということがわかっていた。

 静江は「お義母さん、私のことが気に入らないのかしら」と心配していたが、そういうわけではない証拠に、正子は時々ふらりと遊びにくる。静江を買い物や食事に誘うこともあって、嫌っている風でもなかったから、そのうちに静江も安心したようだった。

 ひとり暮らしがいかに楽しいかと静江相手に自慢げに話をする正子に、

「まるで母さんのほうが里帰りした娘みたいだな」

 康介が言うと、正子は意を得たりといわんばかりの笑みを浮かべた。

「なんせ人生で初めての一人暮らしだからね。こんなに好き放題できるんだから、私は本当に幸せだわ。放っておいてくれるのが何よりの親孝行だよ」

 正子には一人で生きている悲壮感など微塵もなかった。

 若い頃の康介はそんな正子を我儘な母親だと思っていた時期もあったが、今になって思えば、誰とでも適当な距離を保つことで衝突を避けていたのかもしれない。子である康介に対しても、つかず離れずの姿勢ではあったが母親らしい愛情は注いてくれていた。その姿勢は死ぬまで変わることはなかった。

(結局、死に際まで自分一人ってところがお袋らしいな)

 満足げな正子の顔を見ていると、寂しさは感じるが涙は出てこなかった。

 紘一の言うように、湿っぽいのが嫌いな正子のことだから傍にいてぐずぐずと悲しんでいてもどやされるだけだろう。最後まで好きなように生きたいというのが正子の意思ならば、母の意に沿って送り出すのが息子としてできる最後の孝行だった。

 座敷を出て、康介は葬式の準備を確認することにした。

 廊下を挟んで正面が葬儀のための式場になっている。中では葬儀屋のスタッフが数名、忙しそうに動き回って、正子のための祭壇を準備してくれていた。

 小さな祭壇を中心に白を基調とした花が飾られていく様子を、祭壇に向かい合うように並べられた椅子に腰かけてぼんやりと見ていた。紅を差すように薄い紫と桃色の花の彩りが添えられた祭壇の中央に遺影が飾られた。遺影の中で正子は、どこか余所行きの顔をしていた。

「お義母さん、本当にきれいね」

 いつの間に戻っていたのか、隣で妻の静江がぽつりと呟いた。

「こんな写真、どこから出してきたんだ?」

 普段は飾り気のない正子が、化粧をしていることに康介は驚いていた。見慣れない服に身を包んで、ご丁寧に服と揃いの帽子までかぶっている。つんと澄ました笑みを浮かべる正子の写真はよく撮れているが「いったいこんな格好でどこへ出かけていたのか」と訝しがる康介に静江は苦笑した。

「いつだったか、お義母さんが言っていたの。遺影写真のための撮影会に行ったって」

 康介は目を見開いた。

「じゃあ、この日のためにわざわざ撮った写真なのか?」

「そうみたい。撮影した写真は、この斎場に保管してあったんですって。終活イベントでプロのカメラマンが遺影写真を撮ってくれるって企画があるそうよ。何から何まで準備万端で……最後まで何にも手がかからないんだもの。お義母さんらしいけど、何だかちょっと悔しいわ」

「何もお前が悔しがることなんてないだろう」

 そうは言ったが、康介も内心は同じ思いだった。

「お義母さん、ほんとに死んじゃったのね」

 静江の言葉がちくりと康介の胸に刺さった。

「あっという間で……嘘みたい。お別れする暇もくれないなんて……」

 静江は言葉を詰まらせた。

 無言で遺影を見つめたまま静江は泣いていた。静江の頬に伝わる涙が零れて、膝の上に落ち、固く結んだ両手で握りしめたハンカチを濡らしている。

 それを見ていた康介は、何故か(ああ、お袋は死んでしまったんだ)と唐突に思った。母の死が康介の心に沁み込んでくる。気がつけば、涙が頬を伝っていた。

 二人は言葉を交わすこともなく、長い間、正子の遺影写真を見つめていた。


 翌日は穏やかな晴天だった。

 夕刻に通夜を控えていたが、昼前には準備もすっかり整い、康介たちは久しぶりに家族水入らず、正子を囲んで思い出に浸っていた。

「みんな揃うのは景子の結婚式以来だわ。これもお義母さんのおかげね」

 静江は孫の美香を膝にのせて、寂し気に微笑んだ。美香はまだ三つで正子の死を理解していないらしく「大きいばあば、ねんねしてるの?」と静江に問いかけた。

「そうよ。ばあば、ねんねしてるから、起こさないであげましょうね」

 静江が言うと、美香は無邪気に「はーい」と言って片手をあげた。昨日は気が立っていた景子も、夫の陽介と美香がいるおかげか、今日は落ち着いている。独身の紘一にとっても姪の美香はかわいいようで、くつろいだ様子で呟いた。

「やっぱ、子供がいたら癒されるな」

「そう思うなら、お兄ちゃんも早く結婚したら? 今のうちにいい人を見つけておかないとすぐおじさんになっちゃって、誰にも相手されなくなっちゃうんじゃない」

「何、言ってんだ。冗談じゃない、生活に縛られるなんてまっぴらだね。自由を満喫して、たまに美香と遊ぶくらいがちょうどいいんだ」

「何よ、それ。おかあさん、おにいちゃんったら、おばあちゃんみたいなこと言ってるよ」

「紘一はおばあちゃんっ子だもの。小さい頃は、いつもおばあちゃんに抱っこをせがんでいたのよ。おばあちゃんに男の子なんだからしっかりしなさいって叱られてたわよね」

 静江が懐かしそうに目を細めた。すかさず景子がはやし立てる。

「お兄ちゃん、甘えん坊だったんだ。かっこつけてるくせに」

「うるさいな。お前は今も昔も癇癪持ちじゃないか。人のこと言えるのかよ」

 兄妹で言い争う姿を見るのも久しぶりで、康介にとっては微笑ましい光景だった。

 今では二人とも大人になって澄ましているが、子犬がじゃれあうように一緒に遊んでは喧嘩していた。喧嘩が始まると静江は止めに入っていたが、そのたびに正子が「気が済むまでやらせときなさいよ。喧嘩するほど仲がいいっていうじゃない」と言っていた。

 実際、兄妹仲は良かった。喧嘩していたかと思うと、けろりとして一緒に遊んでいる。

 静江は心配性だったから、子供のこととなると大した事出なくても大袈裟なくらい騒ぎ立てた。やれ咳をしただの風邪を引いただの、学校で友達と喧嘩しただのと何かあるたびにおろおろしていた。そんな静江を諫めるのが正子だった。

 正子はいつも楽天的で「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」と心配性の静江を笑いとばした。余所の家なら嫁姑で喧嘩になるのかもしれないが、実家が遠方にある静江にとっては、そんな正子が頼りになる存在だったらしく、何かあれば正子に相談を持ちかけていた。

 正子は正子で「息子なんて口うるさいばかりでちっともあてにならないからね。うちは嫁さんのほうがずっと可愛げがあるんだから」とあちこちで吹聴していた。

 どれもこれも康介にとっては懐かしい思い出だ。静江も同じ思いなのか、そっと目頭を押さえていた。

 場が和んだせいか、おなかが膨れたせいか、美香がぐずりだした。それをきっかけに、康介たちは景子の家族を残して座敷を出た。

 納棺の儀を済ませた後、正子の遺体はすでに式場に安置されている。昨日と同じ場所に腰かけた康介に静江が声をかけた。

「そろそろ和江おばさんが駅に着くと思うから、迎えに行ってきますね」

 和江は正子の妹だった。正子は五人兄弟だと聞いているが、他の兄妹とは康介が子供の頃から付き合いはなく、康介は顔を合わせたことはない。

「紘一、悪いが、母さんと一緒におばさんを迎えに行ってくれないか」

 紘一はポケットから車のキーを取り出してみせた。

「そのつもりだよ。行こう、母さん」

 静江を促して出ていく紘一の背中を見送ると、康介は一人になった。すっかり式の準備が終わったからか、葬儀場のスタッフの姿も見えない。

 しんとした式場で康介が一人物思いに耽っていると、ふと式場の入り口にある受付ロビーでタイヤのきしむ音がした。振り返ると、車いすを押していた若い男が慌てたように頭を下げた。

 康介は会釈を返したものの男たちに見覚えがない。

 若い男は黒いポロシャツにジャージ姿で、胸には名札を下げている。車いすに座っているのはどちらかというと小汚い感じがするやせぎすの老人だった。どちらもおおよそ弔問客には見えない。そうかと言って、立ち去る様子もない。不審に思いながらも康介が立ち上がると、男は車いすを押して康介に近寄ってきた。

「正子さんが利用されていたデイサービスの駒田と申します。お通夜の前に正子さんにお別れをさせていただきたくてお伺いしました。奥様には連絡しておいたのですが……」

 康介は慌てて、非礼を詫びた。

「何しろ急なことでばたついておりまして、妻も失念していたのでしょう。知らぬこととはいえ失礼をいたしました」

「お忙しい所にお邪魔してしまってすみません」

「とんでもない。生前は母がお世話になりました。線香の一つでも挙げてもらえれば、きっと母も喜びます、さあどうぞ」

 康介が促すと、駒田は車いすを押したまま式場へと足を踏み入れた。祭壇の前に立つと、駒田は深く一礼し、手を合わせて長いこと正子の遺影を見つめていた。

 その間も車いすの老人は仏頂面で固く目を閉じたままで手を合わせる様子もない。なぜ駒田がその老人を同行したのか理由がわからない。康介は気になって、老人をそっと盗み見ていた。

 髭はきちんと剃ってあるし、服装も普段着とはいえきちんと手入れされている。それでもどこか薄汚れて見えるのは、顔が異様に黒ずんでいるせいだった。足元は見えないが、膝の上で固く握られた手も心なしか黒ずんでいるように見える。

(どこか悪いのかもしれないな。それにしてもこの爺さん、お袋の知り合いか?)

 康介は老人の顔をじっと見つめた。どこかで会ったことがある気もするが思い出せない。康介が無意識に老人に近寄ろうとしたとき、焼香を済ませた駒田が康介に向き直った。

「こんなに早くお別れする日が来るなんて思ってもいませんでした」

 静かな口調で語る駒田の目に涙がにじんでいた。

「正子さんの誕生日にお祝いしようってみんなで準備していたんです」 

 駒田は肩から下げていたカバンを開けて、色紙を取り出して康介に差し出した。

 桜をあしらった薄桃色の色紙の中央にはピースサインをして笑う正子の写真が貼られていた。写真の上に大きな文字で「お誕生日おめでとう」と書かれており、写真を囲むようにカラフルなペンで書いたメッセージが幾つも並んでいる。施設のスタッフが書いたらしいメッセージには、祝いの言葉だけでなく正子との思い出や正子に対するそれぞれの思いが添えられていた。

 寄せ書きに目を通し終えた康介に、駒田が小さな紙袋を差し出した。中にはサーモンピンクの薄手のスカーフが入っていた。

「誕生日プレゼント、用意してあったんです。みんなで何がいいかと相談していたんですが、正子さん、おしゃれでいつもスカーフを巻いてみえたので……一番、好きな色にしようってことになったんです」

 康介は胸が熱くなった。

 康介にも、色紙とプレゼントにスタッフの思いが込められているのがわかる。駒田の話し方からは正子に対する情が伝わってくる。正子がこんなにも大切にされていたことに感謝すると同時に、康介は自分が何も知らなかったことに軽い衝撃を覚えた。

 これまで康介は正子の生活をあまり気にしたことはなかった。子供じゃないんだから、元気にしていてくれるなら良しと思っていた。デイサービスを利用していることは知っていたが、そこで何をしているのか、どう過ごしているのかと気に留めたことはなかった。

 正子は「デイサービスなんてただの暇つぶしだ」と憎まれ口を叩いてが、案外、正子流の照れ隠しだったのかもしれない。

「本当に最後までありがとうございました」

「こちらこそ。正子さんに出会えてよかったです。ありがとうございました」

 駒田は丁寧に頭を下げたが、帰る素振りはない。訝し気な康介に困惑した様子でもじもじとしている。

「あの、まだ何か?」

 康介の問いに駒田は言い出しにくそうに切り出した。

「今後のことなんですが……」

「今後……?」

 康介は駒田の意図がわからずに首を傾げた。正子の死でデイサービスは終了になるはずである。今後も何もあったもんではない。

「ええ、健次郎さんのことです」

 その名前を聞いても、康介は一瞬、誰のことだか分らなかった。

「健次郎……」

 口に出して、ようやく父の名前だと思い当たったが、康介はさらに混乱するばかりだった。

 康介はもう数十年も父に会っていない。どこで何をしているのか、どうして家を出て行ったのか、まったく知らずに過ごしてきた。幼い頃ならともかく、今となっては遠い過去の記憶の中の人でしかない。

 ふと「父は生きているだろうか」と思うこともあった。生死さえわからないままだという事実が、康介の心に小さな棘のように刺さっていた。だからと言ってどうすることもできないのだと、康介は長い時間をかけて自分に言い聞かせてきたのだ。

 そんな父の名を何故、駒田が知っているのか、康介には理解できなかった。況してや、突然「今後のこと」など聞かれても答えようがなかった。康介の沈黙をどう捉えたのか、駒田は確認するように康介に問いかけた。

「健次郎さんは体調が優れない上に認知症も進んでいます。耳もほとんど聞こえていないので、常に介護が必要な状態です。こちらに泊まるのは難しいでしょうから、通夜が終わった頃、お迎えに来て、また明日の葬儀に改めて送ってくるという形でよろしいでしょうか」

「お迎えって……」

 康介が非難していると思ったのか、駒田は恐縮したように言葉を継いだ。

「差し出がましいかと思ったのですが、ただでさえお忙しい時に介護にまで手が回らないだろうと……」

「ちょ、ちょっと待ってください。話がちっとも見えてこない。健次郎は私の父ですが、もう数十年も会っていません。それどころか、どこにいるのかも知りません」

 康介の言葉に、駒田は「えっ」と言ったきり言葉を失って、大きく目を見開いた。

 駒田もかなり混乱しているようだった。無言のまま見開いていた目は車いすに乗っている老人に注がれた。それから、老人と康介を交互に見つめた。老人は相変わらず目を閉じていて、身じろぎ一つしない。

 駒田の態度は康介に一つの推測を与えた。

 康介は車いすの正面に腰を下ろすと、目を閉じた老人の顔を間近で見つめた。記憶の中の父は今の康介よりずっと若かった。目の前の老人に若き日の父の面影を見つけることはできなかった。それでも何か見つけなければと、康介は老人に顔を寄せた。

 気配に気がついたのか、老人がそっと目を開いた。

「正子……か」

 聞き取れないほどの小さな声で呟くと、老人はまた目を閉じた。老人が発したのはたった一言だけだった。だが、その呟きには親密さが滲んでいた。

 康介は無性に腹が立った。腹わたが煮えくり返る思いが全身を駆け巡る。何に対する怒りか、自分でもよくわからない。ただその一言を聞いた瞬間、自分だけが何も知らずに生きてきたのだと思わずにいられなかった。

「父なんですね」

 怒りを滲ませた康介の言葉に、駒田はすっかり狼狽したようだった。

「ええ。あの、この方が健次郎さんです。それにしても何といったらいいのか……。なんだか、その……ええっと……あの、すみません」

 しどろもどろになっているところを見ると、駒田は何も知らなかったらしい。汗をかきながらしきりと謝る駒田の様子を見て、康介は我に返った。

「取り乱してすみません。あなたが謝ることじゃない」

「いや、ですが……。あの、本当にすみません」

 康介は大きなため息をついて、正子の遺影を見上げた。

(最後まで本当に勝手なことばかりしてくれるよな)

 駒田がわざわざ健次郎を連れてきたのは、どうせ正子の差し金だろうと康介には見当がついていた。これ以上、駒田に迷惑をかけるのはどうかと思うが、かといってこの状況で健次郎を置いて行かれても面倒など見れるはずもない。

 康介がどうしたものかと思案していると、不意に式場の入り口で声がした。

「康介、ねえさんは? あら、もうすっかり準備できてるじゃない」

 声の主は正子の妹和枝だった。姉妹だけあって顔は似ているが、性格は正子とは正反対で、おしゃべり好きの賑やかな叔母だった。

 和江は入ってくるなり不躾な視線を駒田に送った。

「お客様にしてはちょっと早いんじゃない?」

 一緒に入ってきた静江がはっとしたように「もしかして、デイサービスの方?」と言ったのを聞いて、和江は車いすに座っている老人に近寄ると顔を覗き込んだ。

「あら、やっぱり健次郎さんじゃない」

 和江は驚いたように声をあげたが、和江の言葉に康介はさらに驚いていた。

「おばさん、親父のこと知ってたのか?」

 和江は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに心得顔になった。

「姉さんったら、まだ話してなかったのね」

 そう独り言ちると、駒田に詫びた。

「失礼いたしました。健次郎さんを連れてきて頂いてありがとうございます。本当に申し訳ないんですけど、康介もこの通りなので、今日は健次郎さんと一緒にこのままお帰りいただけますか? また改めてご連絡差し上げあげます」

 駒田は訳が分からないといった表情ではあったが、それでも帰ってもいいと言われてほっとした様子で、一礼をしたかと思うとあっという間に踵を返し、車いすを押しながら帰っていった。

 しかめっ面で駒田を見送る康介の傍に来た静江が、小さな声で康介に謝った。

「ごめんなさい。私ったらすっかり忘れていて……」

 康介が静江の言葉を遮った。

「お前も知っていたのか?」

 康介の声が怒りを含んでいることを静江は察していたが、状況がわからずに困惑していると、駒田と入れ替わるように紘一が戻ってきた。

「今、そこで車いすを押した人とすれ違ったけど、あの人達、知り合い?」

「知らん」

 反射的に答えた康介を見て、静江がおろおろしている。

「なんだよ、父さん。何を怒っているんだよ」

「別に怒ってなんかない」

「その言い方が怒っているだろ」

 気色ばんだ紘一をじろりと康介が見返したところで、和江が止めに入った。

「静江さんが知っているわけないじゃない。康介、八つ当たりはみっともないわよ。紘ちゃん、悪いけど私の荷物、控室に持って行ってくれる」

 納得いかない顔で紘一が渋々控室に向かうのを見送ってから、和江は口を開いた。

「まったく、姉さんも人騒がせよね。ちょっと、座ってもいいかしら。長いこと立っていると腰が痛くてね。本当に歳はとりたくないわね」

 和江はそういうと、並べられた椅子の一つを選んで「よっこらしょ」と腰を下ろした。康介も一つ離れた隣の椅子に腰を下ろした。静江は迷うように立ち尽くしている。

「静江さんもいらっしゃいよ」

 静江は、顔色を窺うように康介を見た。康介が無言で頷いたのを見て取ると、静江はほっとした様子で康介のすぐ隣の椅子に腰を下ろした。

 二人が並んで座ったのを見てから、和江はカバンから白い封筒を取り出した。

「姉さんから預かっていたの。中身はもちろん見てないわ。自分に何かあったら康介に渡してくれって」

 差し出された封筒を受け取った康介は表書きを見つめた。表書きには癖のある正子の字で丁寧に「川上康介様」と書かれていた。

 中には便箋が二枚。

 二枚目は白紙で、一枚目の書き出しには「川上健次郎はあなたの本当の父親ではありません」と書いてあった。康介はあまりの衝撃にそのまま読み進めることができなかった。やっとの思いで顔をあげて、康介は和江に目をやった。和江は複雑な顔をしている。

「これはいったい……」

 絞り出すように切り出したものの言葉が出てこない。和江は何も言わず、康介に続きを読むように促したが、康介は手紙を手にしたままでしばらく正子の遺影を見つめていた。

 取り澄ました正子の顔は、康介がよく知る母の顔とはどこか違って見える。

 別居していたとはいえ、正子はすぐそばで暮らしていたのに、正子がこんな重大な秘密を持っていたことを康介は知らなかった。何も知らされていなかったことに対する怒りと同時に、康介はそこはかとない虚しさを感じた。

 自分の存在が根底から揺らいでしまったような心もとなさと、これまでの人生がすべて架空のものであったかのような虚無感、それに信頼していた正子が自分に嘘をつき続けてきたという事実が綯交ぜになって、康介の心に押し寄せてくる。

 正子が何を思っていたのか、何故、今まで事実を隠していたのかを知る由はない。

 康介は正子の遺影から目を逸らして、固く目を閉じた。

 事実は受け入れるしかないのだし、この先を読み進めていけば何かわかるかもしれないと康介は淡い期待を抱いて、手紙の続きに目を落とした。

「健次郎はそれを承知で、父親としてあなたに我が子同様の愛情を注いできました。事情があって離れて住むことになりましたが、あなたに注ぐ愛情に変わりはなく、私を通してあなたをずっと見守っていました。あなたの成長を私と共に喜び、あなたの幸せだけを願って生きてきた人です。

ですから、もしも私が先に死ぬようなことがあれば、健次郎を頼みます。

健次郎の死後は私と同じく桜葬にしてください。私と隣合わせで埋葬してもらうように、ご住職にお願いしてあります。

最後になりましたが、あなたたちの幸せを心から願っています。 母より」

 読み終えた康介は「はーっ」と大きな息を吐いて、肩を落とした。

「まったく、最後の最後まで自分勝手なことばかり言いやがって……」

「姉さんは何だって? ちゃんと健次郎さんのことが書いてあるんだろう」

 和江に聞かれて「ああ、書いてあるさ」と答えた康介は心配そうに康介を見ていた静江にぶっきらぼうに手紙を差し出して、怒りをぶちまけた。

「本当の父親じゃないが父親代わりだったんだから、面倒を見ろだと。おまけに自分と一緒に埋葬してくれだと。まったく馬鹿にしやがって」

 しゃべっているうちに、さらに激昂した康介は、感情を抑えきれずにまくしたてた。

「だいたい、あいつは何十年前に出て行ったきりで、居所だって今も今まで知らなかったんだ。おまけに何十年ぶりに会ったのに、あいつは俺と目も合わさなかったんだぞ。そりゃ、実の親子じゃないんだからドラマみたいな感動の再会とはならないだろうよ。しかも知らなかったのは俺だけで、二人は仲良く介護施設で逢引していたのかと思うと、馬鹿らしくてやってられるか。何が父親がわりだ、家も家族も捨てたくせに……。いや、捨てられたのは俺だけか。結局、二人は自分たちだけ仲良しこよしを決め込んでいたんだからな。それなのに、なんで俺があいつの面倒を見なきゃならないんだ。親父が俺に愛情を注いできただって? 冗談じゃない。俺はあいつの世話になった覚えなんかないからな」

 康介は無意識に握りしめた拳で、自分の太ももを激しく打ち付けると、立ち上がって安置されている棺の傍まで行って、正子の顔を見下ろした。

「今まで何を聞いたって、お袋は知らぬ存ぜぬで押し通してきたじゃないか。俺をずっと蚊帳の外に置いといて、自分が死んだら後始末だけしろっていうのか。肝心のことは何一つ説明もしないまま自分だけ満足できればそれでいいのかよ」

 康介は開いたままの棺の縁を握りしめ、やり場のない怒りを正子にぶつけた。

「もうやめなさい、康介。あんたの気持ちもわかるけど、死人に鞭打つもんじゃないよ」

 穏やかな口調で止めに入った和江を、康介は振り返って睨めつけた。

「おばさんはどこまで知っていたんだ?」

 和江はふっと息を吐くと、立ち上がって棺の傍に寄ってきた。それから、寂し気な笑みをふと漏らして、棺に眠る正子の頬をそっと撫でた。

「健次郎さんがあんたの本当の父親じゃないことは薄々感じていたわ。でも、姉さんは私にも何も話してくれなかった。でもね、健次郎さんが我が子同様にあんたを大切に思っていたことは知っている」

「どういうことだよ、あいつがどこで何していたのか、知っていたってことか」

「ええ。家を出たと言っても、健次郎さんがすぐそばに住んでいたのよ。あんたたちの生活を経済的に支えていたのも健次郎さんよ。あんたの進学も就職も、結婚も。健次郎さん、ずっとあんたのことを応援していたし、何かあればあんたに知られないように援助していた。本当は一緒にお祝いしたかったんだと思うわ」

「そんなことわかるもんか」

「いいえ、わかるわよ。考えてもごらんなさい。あんたのお母さんはずっと働いていたけど、事務員の給与なんてたかが知れているわ。生活するのが精いっぱいよ。でもあんたは県外の大学を出ているでしょう。たいして貯金もしてなかったくせにちゃんと結婚式だって挙げている。どこにそんなお金があると思っていたの?」

 和江に言われて、康介は言葉に詰まった。

「あんたが住んでいる家だって持ち家でしょ、誰が買ったと思っているの? 一人暮らしで家賃払って生活している姉さんが、どうしてあんたの子どもたちに援助ができたと思っているの? ちょっと考えればわかることだわ。あんたは苦労知らずだから、何にも考えてなかっただけじゃないの? ねえ、静江さん」

 急に矛先を向けられて静江は戸惑った様子で俯いたが、意を決したように立ち上がると康介の隣に来て、正子の顔を覗き込んだ。それから康介を見て微笑んだ。

「お義母さんには感謝しているんです。康介さんは真面目に一生懸命働いてくれていますけど、子供たちの進学や結婚のときは大変で……。私もパートしていますが、大した額にはならないし。どうしたらいいのかと困り果てているときには、いつもお義母さんが助けてくれていました。お祝いだって言って」

 康介は驚いたように静江を見た。康介はこれまで静江には苦労させたことなどないと自負していたし、静江も康介に文句を言ったことはない。

 静江は「ごめんなさい」と小声で呟いた。

「どうして? お前、そんなこと俺には言ったことないだろう」

「言えるわけないじゃない。お義母さんにはあなたには言うなって言われていたし、それにあなたが精いっぱい働いてくれているのは私が一番わかっているのよ。私がもう少しうまくやりくりできればって思うと申し訳なくって……」

 静江は言葉を切って俯いた。静江の言葉を受けた和江がポンと康介の背中をたたいた。

「わかったでしょ、康介。よく考えてごらんよ。たとえ血がつながっていなくても、健次郎さんはあんたの父親なんだよ」

「だったら、どうしてあいつは出て行ったんだ? 何もこそこそ隠れる必要なんかないじゃないか。それに、金だけ出せばそれでいいってわけじゃないだろう」

「それにはきっと深い事情があるのよ」

「どんな事情だよ」

「それは私にもわからないわ」

 和江はあっさり言ってのけた。納得のいかない康介が口を開きかけた時、人の気配がしたかと思うと数名の葬儀スタッフが会場に姿を見せた。

「そろそろお時間になりますので、ご準備させていただきます。ご住職様も間もなく到着されるそうです。到着されましたらご案内させていただきます。それまでは皆さま、控室でお待ちください」

 康介は不機嫌そうに祭壇に背を向けたかと思うと、受付ロビーを抜けて外に出て行ってしまった。後を追おうとした静江に「大丈夫よ、放っておきなさい」と和江が声をかけた。

「子供じゃないんだから大丈夫よ。それに姉さんだって馬鹿じゃないわ。康介ならちゃんと受け止めてくれるって思っていたから、あんな手紙を残したのよ」

「そう……でしょうか」

 和江は静江の背中に手をあてて、笑ってみせた。

「そうに決まっているでしょ。静江さんがそんな顔していたら、子供たちが心配するわよ。そういえば、景子ちゃんの娘、美香ちゃんだったかしら? 大きくなったでしょうね。私は初対面なのよ、案内してちょうだい」

 そう言われては後を追うわけにはいかない。静江は気にしながらも、和江を控室に案内した。


 康介が戻ってきたのは、通夜の始まる直前だった。

「どこに行っていたんだよ、住職に挨拶もしないで。とりあえず俺と母さんで挨拶しておいたけど、喪主が不在じゃシャレにならないだろう。明日も来てもらわなきゃいけないんだから、通夜が終わったらちゃんと挨拶に行ってくれよ」

 紘一が文句を言っても、康介は仏頂面のまま口も利かない。紘一はまだ何か言いたそうにしていたが、静江と和江に諫められて渋々、口を噤んだ。

 通夜は粛々と進んだ。

 通夜が終わると、康介はふらりと外へ出ていこうとしていたが、紘一に引き留められ、引きずられるようにしながら住職の部屋に連れていかれた。

「何があったのか知らないけど、いい加減しっかりしてくれよ。ガキじゃあるまいし」

 紘一の言葉にも答えず、それでも康介は住職のいる部屋のふすまを開いた。

 康介が住職と顔を合わせるのは今日が初めてだった。かなり高齢らしい住職は康介の非礼を責める風もなく、穏やかな顔で康介に座るように勧めた。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」

「いや、急なことであなたも動揺されたでしょう。私も驚きました、先日お会いした時にはお元気そうだったのに……。わからないものです」

 住職の言葉に、康介は居住まいを正した。

「お恥ずかしい話ですが、私はこの年まで墓参りをしたことがありません。菩提寺があることも母が亡くなって初めて知りました」

 住職に呆れられても仕方ないと思ったが、康介の予想に反して住職は笑みを浮かべた。

「菩提寺というわけではありませんから、あなたが知らなくても当然です」

 康介は思わず大きくため息をついた。内心、康介はうんざりしていた。

「母が死んでからたった一日にしか経っていないのに、私の知らないことばかりで、正直何が何だかわかりません。母は墓所をそちらにお願いしていたようですが、菩提寺ではないとはどういうことでしょうか。どうして母はご住職に……父と一緒に埋葬するようにお願いしたのか、教えていただけませんか」

 住職は目を閉じて、遠い記憶をたどるように静かに語りだした。

「もう数十年前の話です。あなたのお父さん、健次郎さんがご友人の遺骨を私の寺へ持ってみえました。天涯孤独の友人を無縁仏にしたくないから弔ってほしいと。当時の住職だった私の父は、墓を立てても管理する人がいなければ寂れるだけだと諭したようですが、健次郎さんは墓石もいらない墓標もいらない、それでも無縁仏にだけはできないのだと食い下がったようで、父は困った挙句に桜の樹を墓標にしたらどうかと言って、墓地にある桜の樹の下にご友人のお骨を埋葬しました。今でこそ樹木葬も当たり前になっていますが、当時は荒唐無稽な話です。それでも健次郎さんは大変喜ばれて、それからずっと折にふれては一人でお参りにいらしていました」

 住職はそこで言葉を切って、茶をすすった。

「あなたのお母さんにお会いしたのは、つい数年前です。歩けなくなった健次郎さんの車いすを押してみえました。てっきり付き添ってこられただけだと思っていたのですが、お母さんも故人をご存じだったようで、ずいぶん長いこと二人で桜の樹を見つめていらっしゃいました。何度か二人でくるうちに、自分たちが死んだら、故人と同じように桜の樹の下に埋葬してくれないかと相談をされました。最初はお断りしようかと思ったのですが、お二人とも熱心で……。なんでも故人は失意のうちに自死を選んだらしく、その責任の一端は自分たちにあるのだとかおっしゃって……。これ以上、故人に寂しい思いはさせられないのだと」

 住職の話を聞いているうちに、康介はその故人こそが自分の父親なのではないかと思い始めていた。その父親を追い詰めたのが、健次郎なら許せない、と。

「ご住職、他には何か聞いていませんか、その友人の死について。どうして父は責任を感じていたのかご存じですか?」

 住職は康介の意図をつかみかねたように首を傾げた。

「お二人は故人をとても大切に思っていたようですよ。故人は学生紛争、いわゆる安田講堂事件で逮捕されたと聞いています。何年か服役されていたそうですが、真っ正直でいい奴だったとお父さんがおっしゃっていました。服役中だった故人の代わりに、妊娠している彼の恋人を守るつもりだったと……」

 住職ははっとしたように言葉を切った。

「あなたはもしかして……」

「健次郎は私の本当の父親ではないそうです。それを知ったのは母の死後、ほんの数時間前です。きっとご推察の通りでしょう、その故人こそが私の父だと思います」

「健次郎さんがご友人からお母さんを奪ったと思っているのですね」

「自死を選んだのはそういうことでしょう。恋人と友人に裏切られて……」

「それは違うと思いますよ」

 住職の言葉はどこまでも穏やかだった。

「ようやく腑に落ちました。健次郎さんは常々、ご友人が死んだから大切なものを返し損ねてしまったとおっしゃっていました。返すことはできないが、かといって自分が受け取るわけにはいかないと。ずいぶん長い間、悩んでいたようです。お二人の埋葬を約束した日、健次郎さんは、『これでようやくあいつに預かっていたものを返すことができる』と言っていました。大切なものというのはあなたのお母さんとあなたのことでしょう」

「どういうことか、私にはわかりません」

「あなたがもし何も知ることがなくても、墓参りをすれば自然と実の父親にも手を合わせることになるでしょう」

「どうしてそんなややこしい真似をしたんでしょうか。お袋といい、親父といい何を考えていたんだか、私にはさっぱりわかりません」

「そうですね。人の心中など推し量ってもわかるものではありません。時には自分自身の心中でさえ見失うこともあるのかもしれません。ただ、あなたのご両親はご夫婦という体裁はとっていたようですが、私には夫婦というより同志だったように思えます。お二人ともそれぞれに思うところがあって、共に生きながら一緒に何かを守ろうとなさっていたのかもしれません」

 住職との話を終えた康介は、深々と頭を下げてから退室すると、控室には戻らずにそのまま外へと向かった。

 行き交う車、自転車を走らせて帰宅を急ぐ高校生、夕暮れの街角は何気ない日常の延長で、どこにでもある風景と変わりない。あてもなく歩く喪服の康介だけが、何気ない風景に溶け込めない異質な存在だった。

 康介は頭がパンクしそうだった。正子が急死してから、まだ一日しか経っていないこが信じられない。取り留めもない思いが胸に去来し、簡単に気持ちの整理などつけられそうになかった。

(もう一度、親父に会おう。会って、ちゃんと話をしよう。すべてはそれからだ)

 だが、父の思惑がどうであれ、母の思惑がどうであれ、何が起ころうとも今の康介には守るべき家族がいる。このまま一人で抱え込んでしまっては、自分も両親と変わりないんじゃないか。ふと、そう思い至った康介は、くるりと体の向きを変えた。

(静江も子供たちも心配しているだろう)

 何から話せばよいのか、わからなかったが、それでも康介はまずは家族とちゃんと話をしようと心に決めた。長い一日はまだ終わりそうもなかった。


 青々とした木々の茂る山合いを一台の車が走っている。

 運転しているのは喪服姿の紘一で、後部座席に並んだ康介と静江も喪服に身を包み、膝にはそれぞれ骨壺を抱えていた。正子の法要と同時に、健次郎の四十九日の法要も終えて、これから二人の遺骨を納骨することになっている。

 正子の葬儀の日、健次郎は救急車で病院に搬送され、三日後には帰らぬ人となっていた。

「姉さんったら、健次郎さんも連れて行ったのね」

 知らせを受けた和江は、電話口で康介にそう言った。康介もそんな気がしていた。散々振り回した挙句に、いつも最後には自分のやりたいようにやるのが正子らしい。

 通夜の日の夜、康介は家族にすべて話した。

 健次郎が現れたこと、面倒を見て欲しいと正子に託されたこと、父親だと思っていた健次郎が本当の父親ではなかったこと。住職の話も含めて、康介は自分の気持ちを整理しながら、一つひとつ話をした。

 話をしながら、康介の頬を知らず知らずのうちに涙が流れていた。なぜあれほど泣いてしまったのか、今考えても康介自身にもよくわからない。

 健次郎が死んだことで、真実はすべて闇の中に消えてしまった。だが時間がたつにつれ、康介は、たとえ健次郎と話をする機会があったとしてもやはり何もわからなかったのではないかと思うようになっていた。健次郎は認知症を患っていたし、そうでなくても何十年も隠してきたことを簡単に話してくれはしなかっただろう。

 康介にとっては天地がひっくり返るほどの衝撃だった一連の出来事だったが、子供たちは康介の思いも寄らない反応をした。

「本当のじいちゃんかどうかなんて今更どっちでもいいよ。とりあえず戸籍上のじいちゃんなら、俺のじいちゃんなんだから。それに施設で暮しているんだから、面倒見るって言ったってたまに顔見るくらいしかできないんだろう。あーあ、ばあちゃん、もうちょっと早く言ってくれればよかったのに。じいちゃんいたんなら、俺が小さい頃に遊んでもらいたかったし」

 紘一がさも残念そうに悔しがるのを見て、康介は拍子抜けしてしまった。景子にいたっては更にひどかった。

「おばあちゃんにも青春があったんだねえ。秘密になんかしてないで話してほしかったな。おじいちゃんたち、きっと二人ともおばあちゃんのことが好きだったんだよね。いいなあ、ドラマチックだよね」

 うっとりとした顔で、頬杖をついて勝手な妄想を膨らませている景子を見ていると、康介は真剣に腹を立てて涙した自分が馬鹿馬鹿しくなってくる。

「お前たちはいったい何考えているんだ」

 情けない声を出した康介に景子がきょとんとした顔で言い返した。

「おとうさん、ロマンってものがわかんないの」

 紘一がにやりと笑って、景子に続いた。

「歴史なんてさ、空想の積み重ねじゃん。その場にいなかった人間にはどうせわかんないんだし。じいちゃんにも、ばあちゃんにも歴史があったってことだろう」

 景子が手を叩いて喜んだ。

「おにいちゃん、たまにはいいこと言うじゃん。人に歴史ありってことだね」

 康介にとっては重大な事件だが、子供たちにしてみれば遠い過去のことなど昔話と変わりないらしい。

 肩を落とした康介を見て、紘一がふと思い出したように問いかけた。

「で、何で父さんはそんなに怒っていたんだっけ?」

「そりゃ怒るだろう、急に死んだかと思ったら、次から次へと……」

 力なく言いかけた康介だったが、後が続かない。それを見て、景子がくすくすと笑いだした。

「だって、あのいたずら好きなおばあちゃんのことだもん、しょうがないじゃん」

「そうだよ。よく一緒にいたずらしたもんな。景子なんか、ばあちゃんに驚かされて、びっくりしてよく泣いていたよな」

「最後にお父さんを泣かしたんだから、きっと今頃、してやったりって顔しているよね」

 子どもたちは康介をそっちのけで、昔のいたずら話に熱中している。しまいには神妙な顔をしていた静江と和江まで、苦笑を堪え切れずに笑いだしてしまった。

 その時の康介は腹が立つやら情けないやらで複雑な思いを噛み締めていたのだが、今になって思えば、子供たちのおかげで深刻にならずにやり過ごすことができたのかもしれない。

「父さん、着いたよ」

 物思いにふけっていた康介は、紘一の声にはっとして顔をあげた。静江はすでに車を降りて、康介を心配そうにのぞき込んでいる。康介は慌てて車を降りた。

 寺は山の中腹に建っており、駐車場から階段を上って寺の門にたどり着くと、住職が作務衣を着た数人の寺男を従えて、康介たちの到着を待っていた。

「では、こちらへ」

 住職に案内されて、さらに階段を上った先に墓地があった。山の斜面を切り拓いた墓地は棚田のようにさらに上へと広がっている。住職は墓地の中に敷かれた石段を少し上ると、道をそれて墓地の外れへと進んでいく。康介たちも後に続いた。

 少し歩くと目の前に青葉に覆われた大きな桜の樹が立っていた。すぐ先には切り立った崖があり、そのおかげで下界の景色が見渡せる。

「良いところだわ、ねえ、あなた」

 静江の言葉に康介は頷いた。

「すげーな。特等席じゃん、じいちゃんたちもばあちゃんもここなら文句ないよな」

 紘一もしきりと感心している。

 桜の樹の下にはすでに遺骨を入れるための穴が二つ掘ってあった。住職が懐から白い麻袋を取り出して、寺男たちに手渡した。

「お骨と共にすべて土に還るように、こちらにお骨をいれて埋葬させていただきます」

 康介と静江は顔を見合わせて頷きあうと、骨壺を寺男に差し出した。寺男たちはそれぞれの遺骨を手際よく麻袋に入れると、丁寧に土の中に納めた。住職に促され、康介は麻袋に土をかけていく。埋め終わると住職が白くて丸い小さな石を二つ差し出した。康介は黙ってそれを受け取ると、父と母それぞれの遺骨を埋めた場所に置いた。隣にはもう一つ、同じように小さな白い石が置かれていた。

 読経を終えた住職が立ち去っても、康介は長い間、桜の樹の前に佇んでいた。

 正子の死で唐突に壊れてしまった日常の下には、康介の知らなかった過去が隠れていた。真相はすべて知る由のないことだったが、康介はそれでいいと思えるようになっていた。

 正子は自分の思い通りにすべてを抱えたまま旅立った。

「そして桜の木の下で眠る……か」

 康介が呟くと、突然、強い風に吹かれて桜の青葉がざわざわと音を立てて揺れた。

「ばあちゃんが笑っているみたいだね」

 紘一の言葉に康介は苦笑して「かもな」と応じると、空を見上げた。

 空はどこまでも高く、そしてどこまでも青かった。


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[一言] 言葉選びがたくみだな、と感じました。 重たい話ですが、スッキリとした読了感で心地よかったです。
[良い点] 情景が目に浮かび登場する一人一人の心の内が短い言葉なりにもよくわかる丁寧な文章に心地よく引き寄せられました。亡くなってわかる親の優しさと人間としての葛藤や大きさ。その理解の行程が愛情そのも…
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