07.舟遊びも悪くない
川の船着き場には、パント舟がいくつか停まっていた。船頭らしき男にエズラが近付いていき、舟遊びしたい旨を伝える。支払い等もエズラに任せてあるので、全て滞りなく済ませてくれるだろう。
「船がたくさんあります」
「パント舟ですね」
「ぱんとせん?」
「ほら、船首が四角いでしょう? 船底が平らなのも特徴なんですけど。この川は水深が浅いみたいですね。そういう水域で使われる小舟の一種ですよ」
「そうなのですね」
「あれ、見えますか? あの棹と呼ばれる棒で川底を突くことによって進むんです。って、そこまで聞いてませんね……」
彼女はパント舟を初めて見たのか小首を傾げるものだから、思わず聞かれてもいないのに喋り過ぎた。染み付いた習慣とは怖いな。普段、知識を武器として扱っているから。咄嗟に……。
「いえ、とても興味深いです。公爵様は博識でいらっしゃるのですね」
「いやいや、そんな大したものじゃないですよ」
面倒な男だとは、思われなかったらしい。アルフィー曰く、女性はあまり詳しい知識には興味がないのだとか。自信がないのなら兎に角、共感して肯定しろと言われたのだった。
すっかり頭から抜けていた。大丈夫だろうか。いや、既に先程パイプタバコでミスをおかしているような気がしなくもない。
「棹は誰が?」
「あぁ、船頭がいるので。彼らが舟を進めてくれます」
「では、乗っているだけで良いのですか?」
「そうなりますね」
「……なるほど。景色を楽しむのですね」
「あまり興味ありませんか?」
少し心配になって、そう問い掛ける。彼女はそれに、軽く首を左右に振って答えた。
「たのしみです」
「そう、ですか?」
「はい。舟遊びも初めてなので……。落ち着きませんね」
どうやら、楽しみなのは本当であるようだ。彼女の視線は既に舟に釘付けで。これから起こるであろう未知に期待を膨らませている。
それが、良いのか、悪いのか。もう少し警戒心のようなモノは持った方がいい気もする。
「お待たせ致しました。どうぞ、舟の方へ」
エズラに促されて、舟へと近付く。先に俺が舟へと乗り込み、彼女に向かって手を差し出した。
「足元に気を付けてください」
彼女は戸惑ったように俺の手を見つめて、ゆっくりと手を重ねる。緊張が伝わってきて、慣れていない俺も可笑しくはないだろうかと心配になった。
彼女を支えながら舟に乗せて、隣り合って座る。変に気恥ずかしい雰囲気が漂っているのは、俺の気のせいだろうか。エズラに声を掛けられて、驚きで心臓が跳ねた。
「いってらっしゃいませ」
「あぁ、はい。いってきますね」
船頭が棹で川底を突き、舟が動き出す。
ゆったりとした速度と気持ちの良い風が、微睡みそうになる程に心地好い。アルフィーがゆっくり出来ると言っていたのは、こういう事かと納得した。
彼女は楽しんでくれているだろうか。視線を向けた彼女の顔が、物凄く険しくて普通に驚いた。船酔いでもしたのか。
「どうしました?」
「申し訳ありません」
「え?」
「気の利いた言葉が何も出てきません」
その言葉に、目を瞬いた。そんな眉間に皺を寄せて考えるような事ではないだろうに。何だか気が抜けて、吹き出してしまった。
「はははっ、いや、そんな深刻にならなくても」
「でも……」
久しぶりに声を出して笑った気がする。彼女といると、どうにも調子が狂う。けど悪い気がしないのは、どうしてなのか。
「楽しいですね」
気付けばそう口にしていた。気の利いた言葉なんて、そこかしこに溢れ返っている。そのどれだけに、価値があるのか。
飾り立てた言葉よりも、ただ、貴女の本心が知りたいなんて。本格的にどうかしている。
答えを求めて見つめた彼女の瞳が、緩やかに細まる。柔く弧を描いた口が「はい。とても。とても、たのしいです」と。穏やかさを孕んだ音が耳朶に触れた。
彼女は、こんなふうに笑うのか。ずっと見ていたいような。不思議な感覚に戸惑うより先に、突風が全てを拐っていった。
「あっ!?」
彼女の声に、反射で閉じてしまっていた目を開ける。彼女の視線を辿った先に、宙に浮く白い帽子が見えた。
直ぐに落ちると思ったそれは、何故かそのまま遠くへ飛んでいってしまう。風に乗ったとしても、あそこまで飛ぶものだろうか。
「どれだけ強い風なんだ」
「あらら。あれは、妖精の仕業かもしれませんね」
「妖精?」
「この辺りでは、珍しくないんですよ」
「へぇ……」
「ぼうし……」
彼女の気落ちしたような声に、慌てる。あの帽子、そんなに気に入っていたのか。
「買いましょう。また、買えばいいですから」
「……はい」
あの帽子はどこの仕立て屋で買ったものだろうか。いや、商人からの可能性もあるか。メイジーなら、事細かに記録しているかもしれない。同じものを手に入れなければ。
「公爵様」
「何ですか?」
「大丈夫です。お気になさらないで下さい」
そのようなこと……。無理に決まっている。
「そうですか?」
「はい、本当に大丈夫ですから」
公爵家の財力を甘くみないで貰いたい。必ず同じ帽子を手に入れてみせると、彼女には悟られぬように決意した。
舟遊びを終えてエズラと合流した俺は、エズラが手にしている物に信じられない気持ちになった。花のコサージュがついた白いキャプリーヌハット。間違いない。彼女の物だ。
「それ、どうしたんです?」
「おそらく、妖精の仕業だとは思いますが。飛んできたのです」
「どうなってるんだ……」
状況が上手く呑み込めずに、こめかみを押さえる。妖精の目的が分からない。いったい何がしたいのか。
「妖精は親切なのですね」
彼女が呑気なことを言いながら、エズラの持つ帽子へと手を伸ばす。それを「お待ち下さい、奥様。危険です」とエズラが制した。
「危険?」
「はい。妖精は悪戯好きですので。どんな罠があるか……。確実に安全であると判明するまでは、どうか触れませんようにお願いいたします」
「そうですね。それが良いです」
「え、あの……」
「そもそもあの風だって、妖精の仕業かもしれませんよ」
「ぬれぎぬ」
「……?」
「いえ、何でもありません」
彼女は何処と無く困ったような顔をする。しかし、「分かりました」と引き下がった。
「このような事もあるかと、メイジーがこちらを用意しておりました」
エズラが荷物の中から、日傘を取り出す。流石はメイジーだ。用意がいい。
彼女は礼を言いながら、エズラから日傘を受け取った。フリルが上品にあしらわれた白い日傘は、彼女によく似合う。
「似合いますね」
「ほんとうですか?」
「はい、勿論」
日傘の中から彼女が、じっと見つめてくる。それに、そう言えば彼女の服装について何も触れていなかったという事に気付いた。とんだ失態をおかしたものだ。
「今更かもしれませんが。とても似合ってます。今日の貴女は一段と……」
綺麗。美しい。そのどれもが彼女に相応しい。しかし、どこか足りない。何かが違う。
「うん。可愛いです」
一番しっくりときた褒め言葉が、それだった。服装もソワソワと落ち着かない様子も。舟の上で見た笑顔も。全部がそうだった。
「かわいい……」
「はい、とても」
「ありがとうございます」
照れたのか何なのか。目を伏せた彼女を見て、俺は何を言っているんだと急に恥ずかしくなったのだった。