05.デートは誘うのも難しい
邸宅のエントランスには、いつもの顔ぶれが揃っていた。いつも通りの光景に安心すると同時に、少しがっかりしたような……。いや、気のせいだ。期待などという感情は抱くだけ時間の無駄なのだから。
「おかえりなさいませ、旦那様。本日は随分とお早いですな」
「そうですか?」
ケイレブがニコニコと微笑んでくる。それを怪訝に思いながらも、留守のあいだ変わりはなかったか問い掛けた。
「はい。奥様は邸宅を興味津々に見学され、とても楽しんでおられました」
「おくさま……」
「少々、気が早いですか?」
「いえ、構いません。そうなりますから」
今から慣れておいて損はないだろう。ケイレブやメイジーが彼女をそう呼べば、使用人達の共通認識にも繋がるはずだ。
「それは良いとして、楽しんでいたって何で分かるんですか?」
「様々な物に興味を示されて、『あれは何ですか?』『これは何ですか?』と」
「彼女が?」
「はい。表情も心なしか明るく見えましたので、楽しんでおられたのだと判断いたしました」
「へぇ……」
どうも想像が上手く出来ない。そんな落ち着きのない感じに彼女がなるのだろうか。……ケイレブに任せずに、俺が案内すれば良かったかな。いや、そんな時間はないだろうに。
「お待ち下さい! 奥様!」
「……え? なるほど。廊下は走ってはいけないのですね?」
「そうです! 危険でございますから!」
「見逃してください」
「え!? 奥様!?」
二階からバタバタと騒がしい足音と声が聞こえてきて、顔を上げる。階上で綺麗なスカイブルーの髪が揺れた。
彼女が「公爵様」と俺を呼ぶ。慌てた様子で階段を下りてくるものだから、転げ落ちてしまうのではと心配になった。
「どうしました?」
彼女の呼吸が乱れている。余程、急いで走ってきたようだ。彼女は呼吸を落ち着かせると、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「おかえりなさいませ、公爵様」
「……は、」
俺の口からは返事ではなく間の抜けた声が漏れでた。そんな事を言うためだけに、彼女はここまで走ってきたというのだろうか。態々、こんな事のために?
「やはり、はしたなかったですか……」
「え!? あ、あぁ、いや、まぁ……。危ないので、走るのはやめましょう」
「はい……。気を付けます」
「お出迎えは嬉しいですよ。ありがとうございます。でも、無理はしなくて良いですから」
自然と眉尻が下がる。俺なんかのために、こんな事をする必要はない。彼女にとって、これは余計な仕事に他ならないだろう。
「むり?」
「そうです。俺を出迎えるなんて面倒でしょう?」
俺の言葉に彼女はキョトンと目を瞬いた。そんな顔も出来るのか。次いで、彼女は軽く首を左右に振った。
「無理はしておりません。私がしたいので、しました。しかし、公爵様が迷惑だとおっしゃるなら、もうしません」
「迷惑なんて……。そんな事は、ない、です」
「では、これからもしてよろしいですか?」
「……はい」
俺の心の内を探るような視線に、へらっと笑みを返す。彼女は納得したのか、していないのか。暫しの間のあと、一つ頷いた。
「分かりました。直ぐに駆けつけられるように、体力をつけます」
「……はい?」
「あぁ、駄目だわ。走らないと約束したのだった。どうしましょう……」
「ご心配なさることはありませんよ。我々が旦那様のご到着をお知らせいたしますので」
「ケイレブが?」
「はい。お任せください、奥様」
「それなら、大丈夫ね」
この二日の間に何があったのか。早々とケイレブは彼女の信頼を勝ち取ったらしい。それは、良いことだ。良いことであるはずなのに。このモヤモヤとした気分は何だろうか。
「あの、」
「はい。何でしょうか?」
「出掛けましょう。二人で」
気付けば、そう口に出していた。唐突なそれに、彼女は驚いたのか目を丸める。次いで、ソワソワと落ち着かない様子になった。
「おでかけ……。良いのですか? してくださるのですか?」
「はい。行きましょう」
「ご無理はなさっておりませんか?」
先程、聞いた言葉だ。あぁ、なるほど。素直に受け取って貰えないと、こんな気持ちになるのか。
「してませんよ」
彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。伝わるだろうか。伝わればいいのに。伝わって欲しい。久方ぶりに、感情が忙しなく動く。あぁ、いや、こんな感情など……。
「はい。はい、是非」
彼女の瞳に喜色が滲んだ気がした。何処と無く、ワクワクとしているような……気が、しなくもない。
「詳しいことは晩食の時に決めましょうか」
「分かりました」
どうにかなったと胸を撫で下ろす。まぁ、まだ誘えただけなのであって、内容の方が重要ではあるが。いや、断られたら内容以前の問題か。
話が終わったタイミングで、メイジーが彼女の隣にやって来る。彼女を追い掛けていたのは、メイジーだったようだ。
「奥様、晩食の前に御髪を整えましょう」
「……あぁ、走ると髪が乱れるから。そんなに、酷いかしら」
「いいえ、奥様の御髪はお美しいままです。しかし、念には念を入れるものですから」
「そういうものなのね」
メイジーの言葉に、彼女は納得して首を縦に振る。確かに、お世辞とかではなく彼女の髪は朝と何も変わらず綺麗なままだ。凄いな。
ぼんやりと彼女の髪を眺めていれば、「……あの、公爵様」と彼女が声を掛けてきてハッと我に返った。見すぎただろうか。
「何ですか?」
「その……」
「……? はい」
「たのしみです」
一音、一音、確かめるように。慎重に。言葉を選んだのだろうなと分かる声音だった。
彼女の眉間に、ぎゅっと皺が寄っていく。朝にも見たその顔は、不安の表れで間違いはないだろうか。
「俺もです」
何の躊躇もなく、そんな言葉が口をついて出る。社交辞令ではなかった。しかし、楽しみ? 俺が? そうか。楽しみなのか。
そんな事を思っている自分が信じられないと言うか、よく分からないと言うか。何を言っているんだかと、手の平で口元を隠した。
「よかった」
心底、安堵したような声が耳朶に触れる。彼女が微かに微笑んでいるように見えた。それに、目が奪われる。
しかしそれは、瞬きの間に消えてしまっていた。見間違いだろうか。疲れているのかもしれない。
「また、晩食の時に」
「はい。失礼いたします」
メイジーと共に階段を登っていく彼女の背中を見送る。妙な心地になって、髪を掻き乱した。疲れているんだ。そうだ。煙草でも吸って落ち着こう。
「閣下」
「小言は聞きたくないです」
「左様でございますか。では、また後程」
「あるんですか、小言」
「いえ。ただ、完全に“二人で”は無理かと」
「あぁ、はい。護衛ですね」
「必要ないのでしたら、私は邸宅で待機しておりますが」
「エズラは……内容によります」
「畏まりました」
出掛けるのなら、護衛と従者は連れていくものだ。それが、当たり前。しかし、俺はさっき彼女に“二人で”と誘ったのか。まぁ、間違いではないけど……。態々、“二人で”などと言う必要はなかっただろうに。
変に気恥ずかしくて、更に髪を乱す。ひとまず、この話は置いておこうと頭を左右に振った。他に聞いておく事はなかっただろうか。
「あぁ、そうだ。彼女のドレスや装飾品はどうなりました?」
「はい。ご命令通りに商人や仕立て屋を邸に呼び寄せました。メイジーの報告によりますと、奥様は終始戸惑っておられたと」
「そうですか……。それで? 好きなだけ買いはしたんですよね?」
「奥様がお気に召したものや、似合うもの。社交界で流行しているものなど、多数買われたようです」
「あぁ、なるほど。メイジーの見立てなら大丈夫でしょう」
彼女がというよりは、メイジーが買うように促したのだろう。どうやって説得したのかは分からないが、最終的に買ったのならそれで良い。
「旦那様、一つだけよろしいでしょうか」
「何ですか?」
「これは奥様とは関係ないことであり、旦那様のお耳に入れる程の事ではないかとも思ったのですが、やはり念のために……」
ケイレブが珍しく困ったような雰囲気を漂わせている。しかし、報告する程の事ではないと一度は思ったと言うことは、それ程までに重要なことではないのだろうが……。
「邸に妖精が出たのです」
「……は?」
至極真面目な顔で放たれた言葉に、キョトンと目を瞬いてしまった。“ようせい”とは、“妖精”で良いのだろうか。
「悪戯されたんですか?」
「いいえ、寧ろ助けてくれました」
「一応、詳しく聞いておきます」
「はい。キッチンで働いているメイドが不注意で皿を落としてしまいまして。その皿が空中で浮き、そのままテーブルの上まで戻ってきたのでございます」
なるほど。ケイレブが言っている事が事実なのだとしたら、確かにそれは人間業ではない。普通の人間には、不可能だ。
「それは、ケイレブも目撃したんですか?」
「はい。その場におりました」
「へぇ……」
「長年この邸に仕えておりますが、妖精が現れたのは初めてのことでございます」
「まぁ、妖精は気紛れらしいですから」
それにしても妖精が人間を手助けするなんて、滅多にないことだと教えられたけど。運が良かったのか何なのか。俺が実際に見たわけではないから、何とも言えないが。
妖精なんてものが本当に存在したとは。正直言うなら、見間違いの可能性もあるのではとは思っている。しかし、ケイレブも見たとなると……。信憑性が出るな。
「妖精。妖精ねぇ」
まぁ、害がなかったのなら問題視することはないだろう。気紛れとは、よく言ったものだ。