02.それぞれが求めるもの
執務室で領地の書類を眺めていれば、扉がノックされた。従者のエズラが「閣下、入ってもよろしいですか?」と声を掛けてくる。それに、了承の返事をした。
扉を開けて、エズラが部屋へと入ってくる。俺の三つ年上でセハレイ伯爵家の次男である彼は、有能な男だ。
「どうしました?」
「そろそろお時間ですよ」
「時間?」
「マクダーリド伯爵令嬢がお越しになられます」
エズラの言葉に、書類から顔を上げる。そう言えば、そうだった。
マクダーリド伯爵との手紙のやり取りを思い出して、思わず口からは溜息がこぼれた。シャーロット嬢が我が儘でも言ったのか、いかにフレヤ嬢が不出来で、シャーロット嬢が素晴らしいかが記された長文の手紙が送られてきたのだ。しかも、何度も。
重要なことが書かれていると困るので、毎回全て読む羽目になった。重要なことなど、書かれていない事の方が多かったが。その場合は、破り捨てて燃やした。
シャーロット嬢が代わりに来るなどという失礼極まりないことは、流石にしないだろうとは思う。思いたい。しかし、やりかねないので婚姻に必要な書類が全て俺の手元に揃ってから、やっとの思いで今日という日を迎えた。
「面倒なのは嫌だったのに……」
「お疲れ様でございました」
「本当ですよ」
「では、その乱れに乱れた髪を直しますね」
「え?」
エズラがヘアブラシを取り出す。それに、目を瞬いた。
「第一印象というのは、重要ですので」
「朝しました」
「原型がございません。書類を見ながら、髪を乱されましたね?」
「あ~……」
無意識にしてしまったかもしれない。今日の仕事の内容は、楽しいモノではなかったから。
エズラは俺の返事は待たずに、さっさと後ろへと回る。俺の手強い髪にヘアブラシを入れ始めた。
「いたたっ、優しくしてください」
「これ以上は無理かと」
「そんなぁ……」
とは言え、髪が絡まっているのは、俺がぐしゃぐしゃにしたせいなので黙る。只でさえ、あっちへこっちへと跳ねていて、俺ではどうにも纏められないのだ。
そんな髪をエズラは、すっきりと綺麗に整えてくれる。最後に前髪を後ろに撫で付ければ、俺でもそれなりに見えるのだから凄い。
「さぁ、出来ましたよ」
「ありがとう。到着したら、ここに通してください」
「執事長のケイレブに伝えておきます」
「うん。よろしく」
エズラは一礼して、部屋を出ていった。その背中を見送って、書類を机に放る。パイプを取り出そうとして、手を止めた。
第一印象が重要ねぇ。先程のエズラの言葉を思い出して、煙草はやめておくことにした。まぁ、向こうも政略結婚に変な期待など抱いては来ないだろうけど。
「フレヤ。フレヤ・マクダーリド」
俺は彼女のことを碌に知らない。それは、彼女だって同じことだ。しかし、政略結婚なんてそんなモノだろう。
――父上の何処が好きか? なぁに? それ。まぁ、いいわ。そうね。財力かしら。あの人の事なんて、詳しく知らないもの。
あの時、母上はどんな顔をしていたのだったか。この世で一番大切なものは、お金。お金さえあれば、幸せでいられる。
「ですよね? 父上、母上」
恋も愛も不必要だ。上手くやればいい。彼女が望むモノを提供できれば、きっと家族は成り立つ筈なのだから。
頭が鈍い痛みを訴え始める。どうやら、頭痛薬の効き目がきれてきたらしい。最近、色々と立て込んでいたからな。
婚礼は一年後。準備に追われることになるだろうから、暫くは我慢するしかない。まぁ、マクダーリド伯爵との面倒なやり取りが終わったのは、救いだな。
椅子の背凭れに体を預け、天井を意味もなく眺めていれば、再びノック音が部屋に鳴る。それに、生返事をした。
「閣下、やる気を出してください」
「休憩してるんです」
「マクダーリド伯爵令嬢が到着されましたよ」
「そうですか」
「今、ケイレブがお出迎えしています。直ぐにここにいらっしゃいますから」
エズラの報告に、息を大きく吐き出す。椅子から立ち上がり、身なりを整えた。執務机の前に立ち、形だけでも歓迎する体裁をとる。
エズラの言う通り、直ぐに執務室の扉がノックされた。ケイレブの声に返事をする。扉が開かれ、記憶よりも大人びた印象の令嬢が部屋へと入ってきた。
扉を閉めたケイレブは、扉の直ぐ横に控える。整えられた口髭が上品な初老の男で、父上が生きている時から執事長を勤める古株だ。
「ようこそ、ラトラネス公爵邸へ。俺は当主のディラン・ハイン・ラトラネス。よろしくね」
「お初にお目にかかります。私は、フレヤ・マクダーリドと申します。よろしくお願いいたします」
彼女はマクダーリド伯爵の懸念を払拭するように、綺麗な淑女の礼をしてみせた。必要最低限の教育は受けているのだろうか。
「伯爵から色々と聞いてますよね」
「いえ、何も聞いておりません」
「……はい?」
深みのある青緑色の瞳が俺を真っ直ぐに見てくる。ナイルブルーくらいだろうか。綺麗な色味の瞳には、しかし何の感情も読み取れない。本気で無機質な人形のようだった。
「私の結婚相手は、公爵様ですか?」
「そうです。俺です」
「私は何をすればよろしいですか?」
酷く、淡々としていた。顔色一つ変えずに、彼女は質問を繰り返す。この状況を整理するように。
「婚礼は一年後です。用意はこちらでするので、貴女は公爵家の女主人としての教養を身に付けて貰えればそれで」
「本で学べばいいですか?」
「本? いえ、家庭教師を雇いますから」
「私にですか?」
「……はい」
何かが可笑しい。もしかして、彼女に家庭教師がついた事はないのだろうか。じゃあ、先程の礼は見よう見まね? 本の知識だけで、あそこまで出来るものなのか。
これは、基礎的なことから始めた方が良さそうだ。全て学び直した方が確実だろう。
「貴女は完璧に公爵家の女主人としての仕事をやってください。俺が貴女に求めるモノは、それだけです。俺のことを愛する必要はありません」
「…………」
「公爵家のお金は好きに使ってくれていいので。ドレスでも宝石でも、何でも貴女の欲しいものを用意しますから」
へらっと笑みを浮かべる。ちゃんと人好きのする笑顔になっているだろうか。昔、軽薄そうに見えるとアルフィーに注意されたことがあったなぁ。
「なんでも……」
「はい。俺が用意できる物なら、何でもいいですよ」
「では、愛が欲しいです。ください」
執務室に静寂が落ちた。彼女の顔は、相変わらず人形のように無表情で。言葉の意味が上手く理解できずに、俺は目を瞬く。
一拍遅れて、俺の口からは「は、」と呆然とした声が漏れでた。
「……あぁ、なるほど。物でなくては駄目なのね。では、少々お時間を頂けますか? 一晩、熟考します」
「あ、はい。わかりました」
「他に気を付けるべき事などはございますか?」
「それはまた、追々にしましょう。今日は疲れたでしょうから、部屋でゆっくり休んでください」
「そうですか? 分かりました」
「ケイレブ、部屋へ」
「畏まりました」
「では、失礼いたします」
「……はい」
彼女はまた綺麗な所作で礼をする。ケイレブの後ろに付いて部屋を出ていった。それを呆然と見送る。
彼女はいったい何を言ったんだ。あいが欲しいです。あい。愛? 愛が欲しいです? 俺にそんなモノを求めるつもりなのか。
「どうされるおつもりなのですか」
「いや、いやいや、でも、自分でそれは含まれないって思い直したみたいですから」
「左様でございますか」
「…………」
大丈夫、だよな。きっと、大丈夫なはずだ。面倒なのは、ごめん被りたい。
彼女の顔を思い出してみたが、何を考えているのか。全く以て分かりそうにもなかった。