10.ごめんはこちらの台詞
仕上がった書類をエズラに渡し、相も変わらず俺の周りを愉快に飛ぶ妖精達と共に彼女が目覚めるのを待つ。
妖精達に全く悲愴感のようなものがないため、昨日とは違い部屋の空気が暗くなることはなかった。それが有り難くもあり、逆に不安にもなる。
《他に仕事はないのか? いつも忙しくしているだろ》
「今日の予定はエズラが調整してくれたので」
《昨日は無理だったのにか》
《あれは無理だ~よ~》
「まぁ……。ノアの言う通りどうしても後回しに出来ない仕事はありますね」
《やだやだ、人間は苦労が好きね》
「別に好きなわけでは」
段々と彼らの存在に慣れてきたのは、果たして良いのか悪いのか。
メイジーが空気の入れ換えをと開けた窓から、そよ風が入ってくる。それが、今は纏められているベッドの天蓋を揺らした。
その穏やかさが酷く怖い。何故なのだろう。明瞭でないその感情に名前をつけるとしたら……。罪悪感、なのかもしれない。
《女王様》
いつの間に視線を下げていたのか。耳朶に触れたノアの声にハッとする。驚くほどに柔らかな声音だった。
《おはよ~》
「ん~……」
《もうお昼ご飯の時間だよ~》
ノアの呼び掛けに、彼女がゆっくりと瞼を開ける。緩慢に瞬きを繰り返した彼女は、ノアへと手を伸ばした。
「おはよう、ノア」
ノアが嬉しそうにその手にすり寄る。直ぐにレオとミラもノアの側へとやって来た。
《おはよう。よく寝たな》
《そうねそうね。ぐっすりだったわ》
「レオ、ミラも、おはよう」
《おはよう! ディランがお待ちかねよ》
「……?」
寝起きで頭が回っていないのか、彼女が不思議そうな顔をする。三人は揃って、俺を指差した。それを辿って、フレヤの顔が俺の方を向く。
「あっ……」
言わなければいけない言葉は沢山ある筈なのに、俺の口からは情けなくもその一音しか出ては来なくて。
鼻の奥がツンと痛む。しかし、泣く術が分からない俺の目から涙は流れなかった。
「公爵さま?」
「フレヤ……」
どうしてか呼ぶタイミングをはかりかねてしまい。彼女の名を呼び慣れていないせいか、辿々しい響きで声が揺れてしまった。
フレヤがきょとんと目を丸めている。しかし、状況を理解できたのか慌てたように起き上がった。それにこちらも慌てる。
止めようとしたのか、支えようとしたのか。自分でも分からないが、自然と椅子から腰を上げていた。至近距離で彼女と目が合って、固まる。
「あの……」
《おはよう?》
「そう。えっと、おはようございます」
「おはよう、ございます……」
フレヤは困ったように眉尻を下げたが、ふらつく様子などはなかった。それに、行き場を失った両手が宙をさ迷う。結局、上手く誤魔化しも出来ずに下ろした。
《大変大変! ボサボサよ!》
「……?」
《髪の話じゃない~?》
《そこまでボサボサだろうか?》
ミラが小さな体で、彼女の髪を整えようとしている。それに、フレヤは衝撃を受けた顔をして手櫛で髪を梳きだした。
《そこじゃないわ》
《もっと後ろ~》
鏡がないので彼女は疑問符を飛ばしながら混乱している。それに、思わずフレヤの髪に手を伸ばしてしまった。
「俺に比べたら、問題ないとは思いますが」
「……え?」
「ほら、綺麗になった」
妖精達が指摘していただろう部分を直してあげる。彼女は少しの戸惑いを滲ませながら「ありがとうございます」と口にした。
余計な事をしただろうか。焦って手をさっと引く。
《授けたでしょ? 祝福~》
「しゅくふく……」
《ディランは見えているぞ》
《声も聞こえてるわ》
思案するような間のあと、彼女は思い出したのか「そうだったわね」と一つ頷いた。どうやら髪に触れたのが嫌であった訳ではなさそうだ。
それにほっとしたのも束の間、フレヤのナイルブルーの瞳に真っ直ぐと見つめられて心臓が跳ねた。微妙な体勢のままでは不味いかと、彼女と向かい合うようにベッドの縁に腰掛ける。
……駄目だ。完全に位置取りを間違った気がする。普通に椅子に戻るべきだった。
「公爵様……」
「はい、何でしょう?」
「申し訳ありませんでした」
「……えっ」
唐突な謝罪に、目を瞠る。
「お仕事の邪魔をしてしまって。あと、勝手にその……」
《説明もなしに~?》
《祝福を授けて悪かったと?》
「そうです」
《え~? でも、それは仕方なくなぁい?》
《そうだぞ。説明してもよ》
《そうねそうね。百聞は一見に如かずよ》
「そういうもの?」
《そういうもの~》
フレヤと妖精達の会話が何処か遠く聞こえる。あぁ、本当に。どうして……。貴女が謝るんだ。
「……貴女は、悪くない」
情けなく声が震えて、覚束ない。彼女の顔が見れないのは、どうしてだろうか。
「謝るのは、俺の方で。怒って、くれて……いいんです。あなたには……」
その権利がある。その言葉を最後まで言えなかったのは、彼女の暖かな手がベッドシーツを握り締める俺の手に触れたからで。
優しく重なった彼女の手に、俺の手からは力が抜ける。引き出しを全てひっくり返したかのように溢れていた言葉の何もかもが、使い物にならなくなった。
「公爵様」
黙り込んだ俺を彼女が呼ぶ。それに反応して、ノロノロと視線を上げた。
「本当に、その……」
《怒っちゃえ~》
「お、怒ってよろしいのですか?」
心なしかキリッとした顔をしたフレヤと目が合う。俺は、それに頷くことで答えた。
「では、えっと……」
思案するように彼女が目を伏せる。静寂が落ちたのは、妖精達が何も言わなかったからだ。
慎重に、丁寧に、言葉を探しているらしい彼女を正面から見つめる。あぁ、このような……。もう、本心と信じる他に道がなくなる。
彼女が瞬きのあと、視線を俺へと戻す。やけに時の流れを遅く感じた。ナイルブルーの瞳に、情けない顔をした俺が映って見えている。
「公爵様は、ご無理が過ぎます」
「……え、」
「お仕事が大事なのは、分かります。でも、ご自身も大事にして欲しいです。あと、あとは……」
辿々しく怒りを声に乗せながら彼女が発したそれは、俺の想定とは全く違っていた。これではただただ俺を心配しているだけだと、彼女は分かっていて言っているのだろうか。
「やはりお薬の飲み過ぎはダメです。皆も心配しています」
「……はい」
「お立場があるので、難しいのかもしれません。それでも、たまにはお休みしてください」
そこまで言って、彼女の視線が一瞬俺から逸れる。まだ何か言いたげに口を開いたが、上手く纏まらなかったのかきゅっと閉じられた。
「……い、以上! です!」
フレヤは勢いだけでそう締め括る。
「なんで……」
「……?」
続く言葉は何故か出てきてはくれなかった。産まれて初めて感じる得も言われぬ何かを持て余す。どう扱えばいいのか、皆目検討も付かなかった。
「公爵様?」
全身を満たすふわふわとしたそれが、思考さえもクラクラと揺さぶる。駄目だと分かっている。分かっているのに。
「……泣いてくださって、よろしいのよ?」
あぁ、俺はやはり失敗作らしい。
柔い笑みに何かが決壊したような感覚がした。彼女を腕の中にかき抱く。
「フレヤ……ッ」
貴女がいてくれたら、俺はいつか……。涙というものを流せるようになるのだろうか。