05.平穏の所在
汽笛の後に、ゆっくりと機関車が動き出す。それに、駅を出発したのだなと頭の隅で考えた。
車窓から外を眺める不安と期待で落ち着かない彼女の横顔をぼんやりと見つめる。先程のあれは何だったのだろうか。疲れで頭がおかしくなったのか。はたまた目がいかれたのか。
俺があまりにも見過ぎたのだろう。視線を感じたらしい彼女の顔がこちらを向く。目が合って、彼女が不思議そうに小首を傾げた。
「公爵様?」
「楽しそうだなぁと」
「え?」
そんな事を言われるとは全く思っていなかったと、そんな風に彼女が目を瞬く。少し考えるような間のあと、彼女は不安そうに眉根を寄せた。
「はしたなかったでしょうか……」
「まさか。それに、ここには俺と貴女しかいませんから」
「……そうでしたね」
「……?」
「“そういう”のは、公爵様以外と」
フレヤが楽しそうに笑む。聞き覚えのあるそれは、俺が発したもので。無駄に記憶力のある頭が、その時のことを鮮明に思い出す。何とも形容し難い感情が湧き上がった。
「まぁ、はい。是非そうして下さい」
降参だと眉尻を下げる。釣られたように、彼女の笑顔も自信のなさそうなものに変わった。
「ははっ、そんな顔しないで。本当に貴女が楽しんでくれて、何よりですから」
「そう、ですか?」
「勿論ですよ」
「……はい」
あぁ、まただ。フレヤが破顔する度に、視界がおかしくなる。これは、本格的に医者に見て貰った方がいいのかもしれない。
「んー……?」
「どうかされましたか?」
「いえ、何でもないです」
軽く首を左右に振って答える。単純に疲れているだけだろう。その内、治まる筈だ。
「あぁ、そうだ。もし、体調が悪くなるような事があれば、遠慮しないで言ってください」
「えっと……?」
「絶対に」
「分かりました」
念を押せば、彼女はこくこくと何度か頷く。それを信じることにして、暫し彼女との鉄道の旅を楽しむことにした。
車窓からの景色を眺めたり。川や山の名称を説明したり。彼女の何気ない日常の喜楽を聞いたりと、気付けば四半時はとうに越えていた。
フレヤは乗り物酔いになることなく、不安も見えなくなっている。それに安堵したのも束の間、こういう時に限って騒ぎは起こるらしい。
前方から怒声が響き渡り、彼女が目を丸める。向かい合って座っていたが、直ぐに彼女の隣へ移動した。
「どうしたのでしょう……」
「大丈夫ですよ。ここへは入って来れませんから。それに、エズラは腕が立つので」
「そうなのですね」
彼女が居心地悪そうに視線を落とす。怒声の主が誰なのかは知らないが、取り押さえる指示を出すべきか。そう思案していれば、何故か怒声は恐怖に染まった発狂へと変化し、そして静寂が落ちた。
「……何だ?」
「まぁ……」
何処か困ったような彼女の声に反応を返すよりも先に、扉がノックされる。開いた扉から顔を覗かせたのは、エズラであった。
「閣下、先程の騒ぎについてご報告を」
「えぇ、何事ですか?」
「どうも酒に酔った者が小さな事で騒ぎ出したようなのですが……。止めるより先に、何故か苦しみ出し気絶しまして。呼吸等に問題はなさそうでしたので、縛り上げておきました」
「そうですか」
「その者の処遇については駅に着き次第、警吏に任せるということでよろしいでしょうか」
「まぁ、こちらは被害を被っていませんからね。それで良いです。警吏とは、いい関係を保っておかないと」
「畏まりました。では、そのように」
エズラが一礼して扉を閉める。彼女に視線を遣れば、難しい顔で考え込んでいるようであった。
「あの、どうかしましたか?」
「え!? その……」
「はい」
「その方は……妖精達に嫌われたのかと……思って……?」
何処となく気まずそうにフレヤの視線が逃げていく。それを不思議に思いつつも、彼女の言ったことを脳内で繰り返した。
「つまり、男が気絶したのは妖精に悪戯されたからなのではないか、と?」
「はい。もし、そうだったとしたら……。ご無事だと良いのですが」
男の恐怖に染まった叫び声を思い出す。なるほど。それは可能性としては、大いに有り得る話だ。少し前の俺ならば、一番に除外していたが。
彼女の心配は見事に的中することになる。駅で警吏に引き渡した男は、「許してくれ」と壊れた玩具のように繰り返した。警吏が何を聞いてもその調子で。
「これは、妖精にやられたな。暫くは話を聞けないぞ」
「機関車に妖精なんざ、初めてだ。ったく」
などと警吏達は不満そうに漏らしていた。エズラが事情を簡潔に説明してくれ、俺達は早々と解放される。
「ご協力、心より感謝致します」
嘘を吐くなら、もっと上手く吐くべきだ。
「いえいえ、お気になさらず」
へらっと笑顔を返して、フレヤと共にその場を離れる。後ろから何事かを囁く声が聞こえてきたが、内容までは聞き取れなかった。どうせ録な事ではないのだろう。
「大丈夫ですか?」
「はい。警吏の方を初めて見ました」
「彼らのお陰で治安が保たれていますから」
「そうですね。妖精は、平穏に興味はありませんもの」
彼女がおかしそうに笑む。それに、俺は目を瞬いた。
「何故そう思うんですか?」
「なぜって、妖精とはそういうものでしょう?」
「しかし、帝国は平穏そのもの……。そうか。平穏を望んでいるのは妖精ではなく、女王なのか」
妖精や女王について、知識としては理解しているつもりだった。しかし、正直に言えば話半分に聞いていた節はある。今まで俺の人生に何も関わってこなかったのだから当然だ。
ふと幼い頃、家庭教師が言っていたことを思い出す。“我らが小さな隣人”とは、言い得て妙だ。気紛れに隣に来ては去っていくのだから、困った隣人ではあるが。
「公爵様?」
「え? あぁ、すみません。なんと言うか、妖精について少し勉強し直そうかと考えてました」
「……どうしてですか?」
「最近、妖精が急に俺の生活圏に入ってきたので。備えて損なことはないかと」
「なるほど。公爵様らしいです」
彼女が何処かほっとしたような顔をした気がした。それと同時に、またしても誰かに小馬鹿にされているような……。まぁ、いいか。
「さぁ、駅の前に馬車が待っています。今日は疲れたでしょうから、邸でゆっくり過ごしてください」
「公爵様も一緒ですか?」
「俺は、少しやることがあるので」
「……そうですか」
「でも今日は、晩食は共に出来ます」
「本当ですか? 嬉しい」
その言葉に、妙に浮わついた心地になった。彼女が不満を口にすることはない。もう少し、我が儘を言ってくれた方が有難いなどと。面倒は嫌だった筈なのにな。
待っていた馬車に乗り込み、何気なく外に視線を遣る。そこに先程の警吏を見つけた。全身濡れ鼠になっているように見えるのは、俺の気のせいだろうか。
やって来た駅員から警吏がタオルを受け取っている。どうやら、見間違いではなかったらしい。この短い間に何があったというのか。
「今日は公爵様と沢山お話が出来て、とても楽しいです」
喜色の乗った彼女の声に、視線を移す。
「俺もですよ」
動き出した馬車に、警吏のことなど直ぐに頭の隅に追いやったのだった。