03.マクダーリド伯爵家
ラトラネス公爵家の領地へ行く前に終わらせておきたい仕事の合間を縫って、今日は重要な話し合いの場に出向いていた。
停まった馬車から降りる。目の前にあるリグトフォスト辺境伯爵家のタウンハウスに、細く息を吐き出した。
「緊張されておられるので?」
「そんな風に見えます?」
「えぇ、珍しく」
エズラの冷静な声にそう指摘されて、どうしたものかと考える。結局いい言葉が浮かばずに、へらっと笑って誤魔化した。それにエズラは、特に何も返さずに引き下がる。
「ようこそお越しくださいました」
声を掛けてきた老齢の執事が恭しく礼をする。それに返事をして、案内に従い歩を進めた。
リグトフォスト辺境伯はあまりタウンハウスに滞在されないことで有名だ。そのためか、内装は必要最低限という言葉がしっくりとくる様相であった。
来客用の応接室だろう。通された部屋には、シンプルなソファと机のセットが置かれていた。机の上には、淹れたての紅茶。そして、リグトフォスト辺境伯が一人立っていた。
俺と目が合って、「お忙しい中、恐れ入ります」と口にする。それを受けて、俺はエズラに手で合図を送る。下がれ、と。
エズラは少し逡巡したような間のあと、一礼する。最後にリグトフォスト辺境伯を一瞥してから、部屋の外へと出ていった。
「なかなか予定が空かずに、申し訳ありませんでした」
「いえ、領地の祭りの時期でしょう。こうして足を運んで頂けて、有り難い限りです」
「よく、ご存知で」
「ラトラネス公爵領の星流祭は有名ですからな。私も妻と行ったことがあります」
「それは知りませんでした」
そうだったのか。まぁ、確かに鉄道敷設で来客数は年々増えているとの報告は受けていたが……。そこまで有名になっているとは。
例年通りの予算案では不備が出るかもしれないな。しかしそこは役人達と後々話し合うとして、今は頭の隅に追いやっておいた。
「きっと、フレヤも気に入ることでしょう」
不意に出てきた彼女の名前に、先日祭りを一緒に回る約束をした時の光景を思い出す。浮わつくような気持ちと共に。
「そうだと、良いんですが」
頬が緩みそうになり、既の所で耐える。分かりやすい咳払いをした俺に、しかしリグトフォスト辺境伯は特に何も言わなかった。まぁ、気安い仲ではないのだから、これが普通だろう。
「……それで、お話とは」
へらっと笑いながら、ソファへと腰掛ける。それに続いて、リグトフォスト辺境伯も俺の向かいに座った。
折角用意してくださったので、目の前に置かれた紅茶に口をつける。信用を示すためにも、疑うことなく飲み込んだ。
そんな俺に、リグトフォスト辺境伯が何処か感心が混ざったような豪快な笑い声を上げる。思わず面食らって、目を丸めた。
「いやはや、これは失敬!」
「いえ、なにか?」
「現ラトラネス公爵は、意外と思い切りがよろしいようで。少々、驚きましてな」
「……はい?」
「貴方の父君ならば、死んでも口をおつけにならなかったでしょうから」
何処か皮肉めいた笑みを浮かべたリグトフォスト辺境伯に、目を瞬く。思わず手に持ったままだった紅茶カップに視線を遣ってしまった。
「これは」
「分かっておりますとも。有り難く頂戴しておきます」
「……そうしてください」
俺の意図はしっかりと伝わっていたらしいが、態々そのような事を口に出したということは……。俺の知らない何かが、父とリグトフォスト辺境伯の間にあったということだろうか。
まぁ、父は人を信用しない人だったからな。ラトラネス公爵家とリグトフォスト辺境伯爵家の関わりが薄かったのは、父の性格のせいであったと。あの人らしいと、出かかった溜息は紅茶と共に流し込んでおいた。
しかし、俺の行動は間違ってはいなかったらしい。リグトフォスト辺境伯の雰囲気が先程よりも柔らかくなる。
「話というのは、他でもないフレヤのことについてです」
「彼女のマクダーリド伯爵家での扱い?」
「……はい」
俺の問いに、辺境伯は重々しく頷く。深く長い溜息のあと、ゆっくりと口火を切った。
「実を言うと、正確には掴みきれておらんのです」
「と、いうと?」
「マクダーリド伯爵家は困窮しておりましてな。新しい使用人を雇う余裕はなく、邸内には少人数しかおりません」
「なるほど? 正攻法で潜り込ませるのは不可能だったわけですね」
「左様です。しかし、可愛い孫娘のため……。強引な手段も厭わぬ覚悟は常に」
つまり、忍び込んだと。リグトフォスト辺境伯爵家にそんなイメージはなかったが、しかし偵察部隊がいても可笑しくはないだろう。隠密行動もお手の物、か。
「それで?」
俺が特に非難することなく話を続けたからか、辺境伯は目を丸めた。次いで、ふっと口角を上げる。しかし、直ぐに険しい表情へと戻った。
「本邸の方へは難なく侵入出来ましてね。フレヤが、離れに閉じ込められていることは掴んだのです」
「離れに?」
「三食の食事は用意されていましたが、必要最低限といった様子で。録なものではなかった」
そこで合点がいく。彼女の食の細さの原因。長く録な食事をしてこなかったから、一気に多量は胃が受け付けないのだろう。
「フレヤの様子を知るため、離れに侵入出来れば一番だったのですが……」
「出来なかったんですか? なぜ?」
本邸に侵入出来たのならば、離れに侵入出来ない筈がない。訝しんで小首を傾げた俺に、リグトフォスト辺境伯は言いずらそうに口ごもった。
膝の上に組んだ手をソワソワと組んだり離したりと逡巡した末に、辺境伯は短く息を吐く。俺を真っ直ぐに見つめた瞳が、彼女とよく似ていた。
「辿り着けなかったのですよ」
「……はい?」
「何度トライしようとも、誰一人として離れに辿り着けた者はおりません。侵入出来たと思った次の瞬間には、また外にいるのだとか」
「……妖精に遊ばれた?」
「それ以外にないでしょうな」
また、だ。また妖精。彼女と婚約を結んでから、急激に耳にするようになったのは偶然なのだろうか。
「そんな、毎回ですか?」
「俄には信じ難いですがね。あの子は、よほど妖精に好かれているか嫌われているのでしょう」
「それは、どういう意味ですか?」
「ふむ……? 今は言わないのだろうか。妖精は、好きな者か嫌いな者の近くにしか寄って来ないと言われておりましてな」
「そうなんですか?」
「いや、実際は分かりませんがね。妖精は悪戯好きですが、良いことも運んできてくれるとか」
「へぇ……」
それは初耳だったな。そこでふと、彼女の妖精に対する言葉の数々を思い出す。
――妖精は親切なのですね。
――妖精は優しいのですね。
いつも彼女の口から出るそれに、敵意や嫌悪は感じられなかった。つまり、彼女は妖精に困らされたことがないということだ。そうであるならば、フレヤは妖精に好かれているということになるが……。なぜ?
「妖精は気まぐれ、か……?」
「ラトラネス公爵?」
「いえ、恐らくですが彼女が妖精に嫌われているなどということだけはないかと」
「それは、公爵邸にも妖精が?」
「まぁ……。しかし、噂に聞くような酷い悪戯は何も」
「そうですか。ふむ……」
リグトフォスト辺境伯も判断に困っているのか、眉間に深く皺が寄っている。まぁ、妖精の話はひとまず置いておこう。重要なのは伯爵をどうするか、だ。
「因みに、離れの外観は?」
「小屋、という表現が適当でしょう」
「小屋ねぇ。それで、彼女が家を出たその後は何も?」
「無論、確認しました」
「流石は、リグトフォスト辺境伯。中はどうなっていたんですか?」
「本で溢れかえっておりました。元々は、そのために建てられた離れだったのでしょうな」
書庫代わりの離れに、フレヤを押し込めていたと。腹立たしいことこの上ないな。しかし、今は苛立ちを呑み込んでおく。
その離れで彼女はどのような生活を送っていたのだろうか。それらの本を呼んで最低限の知識を身に付けたのだとして。誰が文字を教えたというのか。味方の使用人がいたと考えるのが無難ではあるが……。
「公爵……」
「何ですか?」
「どうしても気にかかっておることがあるのです」
辺境伯が沈痛な面持ちで、目を瞑っている。まるで祈るようなそれに、俺は目を瞬いた。
「フレヤは、その……。暴力などは、受けていなかったのでしょうか」
口に出すのもおぞましいと言いたげな声音であった。
「デビュタントの時は、目立つ場所には何も……。本人も困ったことはないと。しかし……」
それは、俺も気にはなっていることだ。それとなくメイジーに聞き出すように頼もうかと迷って、結局は彼女にそのことを思い出させるのも憚られて聞けずじまい。
「彼女に、直接確認した訳ではないので確かなことは言えませんが」
「……はい」
「痣や傷痕等は見受けられないと、メイド長からの報告は受けています」
少なくとも過度な暴力は受けてはいなかった。その事実だけでも安心したのか、辺境伯はその瞳に涙を浮かべる。目元を押さえた辺境伯はただ、「そう、ですか」と震える声で言った。
「エスコートで彼女の手に触れても、怖がる素振りはありませんので」
「ふぅ……。よかった」
「とはいえ、マクダーリド伯爵には地獄を見てもら、おっと失礼。それ相応の対応を考えます」
ニコッと笑った俺に、辺境伯は理解が追い付かなかったかのように一瞬だけ固まった。しかし、直ぐにニヤリと意地の悪い笑みをその顔に浮かべる。
「いいですな。喜んで協力しましょう」
「よろしく頼みます」
「やはり妖精が良いことを運んでくるというのは、本当であったようですな」
柔らかく瞳を細めたリグトフォスト辺境伯に、キョトンとしてしまった。それは、つまり……。自惚れでなけれな、そういう意味で。
導きだしたそれは、俺を何とも落ち着かない心地にさせて。癖で髪を乱してしまったせいで、帰りの馬車ではエズラに小言を言われたのだった。