11.頑張る理由
執務室で報告書に目を通し、呆れから溜息がこぼれ落ちた。この貴族は、まだ鉄道敷設に反対しているのか。諦めの悪いことだ。
もはや鉄道は生活の一部になりつつある。今更、取り止めになどならないだろうに。反対するよりも、鉄道を利用した方が利益になる。
「頭が足りないらしい」
一息入れようと、報告書を机に置く。煙草でも吸おうかとパイプに視線を遣った。
――では、お願いがございます。
不意に、彼女のことを思い出す。この前、帝都で買い物をした時の記憶が脳内で勝手に再生されて、気恥ずかしさに髪を乱してしまった。
仕立て屋で彼女のドレスのカタログに目を通していた時だ。彼女の希望を聞いたのが駄目だったのかもしれない。いや、本人が着るのだから、希望は聞くべきだ。間違ってはいない、はず……。
まさか、あんなことをお願いされるとは夢にも思っていなかった。まぁ、別に……。おかしなことではない。俺達は婚約関係で結婚するのだから。
「あれくらいは……。両親だって、していた」
誰に言い訳しているのか。ぶつぶつと呟いていれば、扉がノックされて心臓が跳ねた。動揺を悟らせないよう平静を装う。いつも通りに返事をした。
エズラだったようだ。入室の許可を出せば、「失礼致します」と新たな仕事の書類を持って入ってきた。
「……閣下」
「何ですか?」
「少々、髪を整えましょう」
最近、このやり取りをよくする。屋敷に彼女がいるからと言うのもあるが、俺が以前よりも髪を乱す頻度が増えたのもある。
それだけ、彼女のことを思い出しては気恥ずかしくなっているということでもあるのだが。これは、何と言うか……。情けないな。
誤魔化すように苦笑する。エズラは見抜いているのかいないのか。何も触れてこないのは、流石としか言いようがない。
「奥様のご様子を見てこられてはいかがですか?」
「な、んで、そこで彼女が出てくるんですか」
「根を詰めすぎるのは、よろしくありませんので」
さっと櫛で俺の髪を整えながら、エズラが至極真っ当なことを言う。しかし、言われなくとも一息入れようとしていた。だから、髪がこの有り様なのだ。
寧ろ、仕事に集中している方がまだ良いかもしれない。休憩していると、雑念がわいてくる。主に彼女のことだが。
「エズラ」
「はい。何でございましょう」
「最近、仕事が多い気がします。まぁ、良い話もあれば、話にならないものもありますが」
「やはり、閣下もそう思われますか?」
「ということは」
「確かに仕事量は増えているかと」
「そうですよね」
机に積まれた書類の山を見遣る。まぁ、仕事が舞い込んでくるのは悪いことではない。ちょうど、新規事業を考えていたからだ。しかし、こうもタイミングが良すぎると逆に怪しくもあるが。
「これは、慎重に進めた方が良さそうだ」
溜息を吐いて、立ち上がる。エズラは特に何も言わずに、扉の方へと向かった。一礼すると、扉を開けて俺が通るのを待つ。
「部屋を出るとは」
「奥様は現在、ダンスのレッスンをされております」
「…………」
「…………」
「そう、ですか」
正直、自分でもなぜ椅子から立ち上がったのかよく分からない。彼女の所へ行くかどうかはさておき、息抜きに散歩でもしようかな。
「散歩してきます」
「いってらっしゃいませ」
見透かされているような声音に、居たたまれなくなって足早に部屋を出た。長い廊下を当てもなく歩く。
ダンスのレッスンか。無理をしていないと良いのだが。ダンスは自信がないとはっきり言っていたので気になる。
そう、少しだけ。少し顔を見たら部屋に戻ろう。心配だからだ。他意はない。
「んんっ……」
結局、ぐだぐだと言い訳を並べて彼女の所へと来てしまった。扉の前で、暫し考える。躊躇する理由は何だろうか。答えを見つけるのが嫌で、扉に手をかけた。
ノックするのも邪魔になるかと、そのまま扉を開ける。視界に、ふわっと広がったドレスが飛び込んできた。
一人で練習していたらしい。それに、ほっと息を吐く。覚えた安堵に、理解が追い付かずに目を瞬いた。なにを。
「あっ……!」
彼女の慌てたような声が耳朶に触れて、弾かれたように視線を上げる。彼女の体が倒れていく。それに、言い知れぬ焦りが湧き上がった。
「危ない!!」
駆け寄り手を伸ばしたが、間に合わなかった。痛々しい音を立てて、彼女が床に尻餅を搗く。一瞬のことだったが、足を挫いたように見えた。
「大丈夫ですか!?」
「え、公爵さま?」
何故俺がここにいるのかと言いたげに、彼女がキョトンと目を瞬く。慌てて立ち上がろうとするので、それを制した。
「医者を呼んでください!」
「か、畏まりました!」
「あの、公爵様」
俺の命を受け家庭教師が部屋を飛び出していった。彼女は困ったように眉尻を下げ、オロオロと狼狽する。
「抱えますよ」
「え、あの?」
彼女を横抱きで抱える。華奢だと思ってはいたが、ここまで軽いとは……。もっと食べた方がいい。絶対に。
固まる彼女を椅子に降ろして、俺はその場に膝を付いた。彼女が驚いたように止めてきたが、それは俺も譲れない。下から彼女を覗き込むように見上げる。
「痛い所はありますか?」
「ありません」
「嘘は駄目ですよ。足を痛めたのでは?」
「それは、その……」
「見せてください。触れますよ」
「構いませんが」
了承を得て、彼女の足に触れた。ヒールの靴を脱がせて、足首を診る。しかし、赤みもなければ、腫れてもいなさそうだった。
「大丈夫そう、ですね……?」
「はい。心配してくださり、ありがとうございます。その……。うれしい、です」
俺の早とちりだったようだ。彼女を支えることにも失敗したし、俺はどうにも頼りにならないな。内心で自嘲しつつも悟られないように、へらっと笑う。
「良かったです。でも一応、医者に見てもらいましょう」
「公爵様がそうおっしゃるなら」
溜息をぐっと呑み込み、彼女の靴を元のように履かせる。
「申し訳ありませんでした」
「え?」
「公爵様に、無理のない程度にと言われていたのに……」
視線を彼女へと戻すと、彼女はどんよりとしたモノを背負いながら顔ごと視線を斜め下へと向けていた。分かりやすく落ち込んでいる。
「でも、どうしても……」
「どうしても?」
「公爵様と踊りたくて」
あぁ、そうか。そうだったんだ。そう胸にストンと落ちた。彼女の頑張る理由は、それだったのか。そんなこと……の、ために?
「だめ、ですね。だから、みんなが怒るのね」
「怒ってない」
「え?」
「怒ってません。良いんです。でも、今回の舞踏会で踊るのはやめておきましょう」
俺の言葉に、彼女は膝の上で手を握りしめる。微かに眉尻を下げた。
「ちょうど良いので、足を痛めたということにしましょう」
「でも、」
「このまま無理をして、本当に怪我をする方が俺は困ります」
彼女の手を取って、下から包むように握る。どう言えば、伝わるだろうか。伝わって欲しい。彼女に俺の気持ちが。
「舞踏会なんて、別に珍しい催しではありません。だから、大丈夫です」
「……はい」
「これからも俺のパートナーはずっと、たった一人、貴女だけなんですから」
彼女が目を丸める。次いで、やんわりと瞳が細まっていった。まるでかたい蕾が綻ぶような。そんな柔い笑みだった。
「これから何度でも、公爵様は私と踊ってくださるということですか?」
弾むように落とされた問いは、答えを既に知っているかのようだった。これは伝わったということで、間違いはないだろうか。
「はい、何度でも」
自然と頬が緩む。こんな気分になったのは、初めてかもしれない。
見つめ合っていれば、不意に彼女の顔が赤に染まる。恥ずかしそうに視線を逸らされて、こちらも顔に熱が集まる感覚がした。
「えっと……」
「その……」
お互いにしどろもどろになる。上手い言葉が見つからずに、場の雰囲気がどんどんと気恥ずかしいものへと変わっていった。
「閣下! 奥様の容態はど……」
形だけのノックのあと、性急に扉が開きエズラが飛び込んでくる。しかし、言葉は妙な所で尻窄みに消えていった。
彼女も俺も驚いて、扉の所にいるエズラへと顔を向ける。口から「あ……」などという間抜けな声が出てしまった。
「失礼致しました。どうぞ続けてください」
エズラが扉を閉めて出ていこうとする。それに、更に恥ずかしさが増した。
「待っ、エズラ!!」
父上に聞かれれば、確実に激怒されるような。そんな情けない声が口から飛び出したのだった。