10.努力の賜物
エントランスで彼女が来るのを待つ。何度目か分からないが、自然とホールクロックに視線がいった。
女性の支度に時間が掛かるのは理解しているので、別に急いている訳ではない。どうにも、落ち着かないのだ。
「あの時計、ちゃんと動いてます?」
「動いていますよ」
「今朝もしっかりとゼンマイを巻きましたので、問題はないかと」
「そうですか」
針が全く動いていないような気がしたが、そう感じているのは俺だけのようだ。ケイレブがゼンマイを巻くのを忘れるなんて、有り得ない話だった。
「閣下、落ち着かれてください」
「落ち着いてます」
「左様でございますか」
これは駄目だと、深く息を吐き出す。どれほど重要な場であろうとも常に冷静に、狼狽するなど以ての外。公爵家の人間が隙を見せるなど、あってはならないのだから。
婚約者と帝都に出掛けるなどという些細なことに、心乱されるわけがない。最近の俺は、本当にどうかしている。
「いらっしゃいましたね」
エズラの言葉に、顔を上に向ける。階段を降りてくる彼女と目が合った。
ピクニックに行った日とは、少し雰囲気が違う。帝都に行くからだろうか。今日の彼女は一段と華やかに見えた。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
「大丈夫ですよ。いくらでも待ちますから」
差し出した手に、彼女が手を重ねる。この前に比べれば、大分と慣れてきたように思う。パーティーでは、完璧に彼女をエスコート出来るようにしておかなければ。
「今日も綺麗です」
「……かわいいですか?」
こてりと態とらしく首を傾げた彼女に、目を瞬く。少し上目遣いに見えるのは、俺の気のせいではないのだろう。誰の入知恵……いや、十中八九メイド達の仕業か。
妙なことを彼女に教えるのはやめて欲しい。まさかとは思うが、彼女の方から教えて欲しいなんて言っていないだろうな。
「可愛いですよ」
そんなことをしなくても。いや、俺のためにやったことなのだから、そこは含めて可愛いになる、のか? どちらも正しい気はする。
「ありがとうございます。公爵様にそう言って頂けると、光栄ですわ」
「……帝国中を探しても貴女以上の人はいませんよ」
「まぁ、お上手ですこと」
彼女が作ったような笑みを浮かべる。少しぎこちない気もするが、これなら及第点だろう。
努力の賜物なのだから、喜ばしいことである筈だ。しかしどうにも、モヤモヤするというか。何と言えば良いのか……。
乗ったのは俺なのだが、不服だ。確かに、社交辞令のようなことは言った。それは認める。しかし、可愛いと言ったのは本気で。つまり何が言いたいのかというと、あれだ。
「そういうのは、俺以外の人にやってください」
思ったよりも感情が声に滲んでしまった。これは、良くない。
「そうですか?」
「まぁ……。はい」
「では、素直にうれしいです」
少し微笑んだ彼女に、つられそうになる。それを「んんっ!」と咳払いで耐えた。危ない。最近の俺は何を口走るか分かったものではないのだ。
「それは、良かったです」
いつも通りに、へらっと笑う。彼女に見つめられると笑みが崩れそうになるので、早々と馬車に移動することにした。
「じゃあ、行きましょうか」
「……はい」
ただ乗っているだけだった彼女の手に、少し力が入る。緊張が伝わってきて、どうしようかと考えた。まぁ、彼女のこれは帝都に行ってみないとどうにもならないか。
横にいる彼女を一瞥する。それにしても、華やかだな。とても目立ちそうだ。色んな意味で、馬車移動にして正解だったかもしれない。
「足元に気をつけて下さい」
「ありがとうございます」
馬車に乗るのは問題なさそうだな。あとは、降りる時か。エスコートの見栄えは重要だ。そんなことも出来ない若造などと侮られては堪らない。
それに、正面に腰掛ける彼女の優雅さと言ったら……。元々悪くはなかったが、完璧に近い。どんどんと理想的な淑女になっていく彼女の横が、俺で良いのだろうか。
公爵夫人としては、申し分ないのかもしれない。しかし、俺の見た目で彼女に釣り合うかというと、何とも言えない。公爵家の権力で手に入れたとか噂されそうだ。まぁ、大方間違ってもいないのが……。
窓の外を見ていた彼女が、俺の視線に気付いたようにこちらを向く。感情の読めないナイルブルーの瞳と目が合ってしまった。
「どうかされましたか?」
「いえ、本当に綺麗……可愛いなぁと思って」
先程のやり取りを思い出して、そう答える。驚いた顔をした彼女は、次いで照れたように目を伏せた。
段々と彼女の表情の違いが分かるようになってきたと思っていたが、もしかしたら彼女の方が表情豊かになってきたのかもしれない。
どうなんだろうか。毎日見ているから、俺には変化があまり分からない。彼女の微かな表情の違いが分かる俺が凄いということにしておこうかな。こちらも努力の賜物ではある筈だ。
「……公爵様も素敵です」
「はい?」
「いつも素敵ですが、今日は一段と……。そう。きっと、帝国で一番です」
彼女はいったい何を言い出したんだ。お世辞だろうかと思ったが、それにしては彼女の目は真剣そのもので。
いつもなら適当に流して、こちらもお世辞の一つでも返している筈なのに。彼女が相手になると、どうして頭が真っ白になるのか。
年下の婚約者に張り合うのも大人気ないとは思うが、年上のプライドというものも存在するわけで。あー……、駄目だな。こんなことを並べ立てている時点で、負けな気がする。
「本気にしますよ」
「勿論です。してください」
「……そうですか。じゃあ、遠慮なく。嬉しいですよ。ありがとう」
勝手に眉尻が下がる。いつもの笑みが上手く浮かべられずに、困ったようなものになってしまった俺を見て、彼女が不思議そうに目を瞬いた。これは流石に情けないな。
「……そんな。公爵様を困らせるなんて、悪い女なのですか?」
一変して神妙な顔で放たれた言葉に、声を出した笑ってしまった。彼女は本当に、予想外のことばかり言う。
「ははっ、そんな訳ないでしょう。可愛らしいこと言いますね」
口から出た後に、はっと気付いた。俺はまた……。何を言っているのか。急激に馬車の中が、気恥ずかしい雰囲気に包まれる。誤魔化すように、馬車の窓へ顔を向けた。
帝都に行くとは言っても、公爵邸がある場所は既に帝都内。しかも、一等良い場所に建っている。まぁ、それは置いておいて、そこと盛り場が離れているという話だ。
彼女の帝都のイメージは、人が大勢いて活気づいている盛り場なのだろう。俺も言い方がややこしかったかな。公爵邸も帝都にあるということを彼女は理解しているだろうか。
そういえば、マクダーリド伯爵家は帝都に家を持っていなかった気もする。最近は鉄道敷設が盛んになっているとはいえ、帝都と領地の行き来は大変だろうに。
いや、そう言えば彼女は鉄道を一切使わずに馬車で公爵邸まで来たのだったか。鉄道もまだまだ決して安くはないからな。そのための結納金でもあるのだが、彼女に使われることはなかったようだ。
この前のピクニックは鉄道が通っていない場所だったから、馬車で行ったが……。新婚旅行は鉄道で遠出するのも良いかもしれない。彼女が喜びそうだ。
「まぁ、凄い……」
小さな声だったが、大層驚いたようなそれに、視線を彼女に戻す。衝撃を受けたような顔で、彼女が口元を両手で覆っていた。
どうやら、盛り場に着いたらしい。この辺りは様々な店が並んでいて、人通りも多く賑やかだ。見慣れない者からすれば、驚く、らしい。
「本当に、沢山いるのね……」
「……? そんなに驚きましたか?」
「はい。とっても賑やか……」
何か引っ掛かる言い方ではあるが、その何かが分からない。まぁ、彼女が楽しそうなので良いかと気にしないことにした。