十円ハゲ
日頃の不摂生と疲労。それらを大丈夫と侮ってはならない。
気付けば鍾乳石のツララのように溜まりに溜まり、不意打ちに自身の体に襲いかかるからだ。
そう、それは大切な記念日にも関わらず。なんの前触れもなく訪れるのである。
○
朝日が顔を出し始めた頃。ウキウキしながら七色にコオロギを食べさせ、愛らしい表情に癒されていた俺。この幸せな時間は経った一日しかない。もう徹夜で楽しもうと思っていた矢先、昨夜の飲みのツケが回り、ベッドの上に座った時には睡魔に誘われ、眠ってしまった。
「……マジかよ」
起きた時、部屋は荒れ放題だった。テレビはつけっぱなし。七色は部屋中を歩き回っては、缶酎ハイをひっくり返して、床はビチャビチャ。現実逃避したくなる惨劇が広がっていた。
仕方ない。顔を洗ってから掃除しよう。俺はベットから立ち上がった。
そして洗面台で顔を洗う。
髭を剃ろうと、T字剃刀を取り、鏡に映る自分を見つめた。
「げ!」
鏡に映る俺の前頭部の髪は森林伐採され、日焼けしていない綺麗な頭皮が顔をだしていた。思わず俺は鏡の自分を三度見する。
右側の前頭部に円形脱毛症。いわゆる十円ハゲがあった。ストレス社会が生んだ枯れ果てた大地。見れば見る程、精神的ダメージがデカい。
「畜生。これじゃ合コンの時とかどうすればいいんだよ……」
いや、頭にハゲが有っても無くても合コンなんて予定はない。まして俺に十円ハゲという負の装備品が加わっても、男としての戦闘力がレベル二からレベル一に下がる微々たるもの。そもそもゲットできるはずもない。
「はぁー。彼女欲しい」
って昨夜は人間の彼女なんて必要ないと言ってごめんなさい。酔ってました。結局は人肌恋しい惨めな男です。
俺は再び鏡に映る自分の顔を見つめた。正直頭にハゲが出来ても基本的には生活に支障はない。それ以前に、このブサイクで素材の悪い顔を見ているだけで気が滅入る。
円形のミステリーサークルが生む、負の思考の連鎖。考えれば考える程、明日には頭に更に更地が広がりそうな予感がした。
だめだ! 俺は気分を一掃する為、散らかった部屋の片付けを始めた。
? 何故だろう。体が軽い 。
普段は掃除する気も無いほど疲れているのに、今日は何故だか体調が良い。ハゲは出来たが頭の中はスッキリしていて、肩コリも軽い。
「あれ?」
朝八時まで起きていたのは覚えている。ふとテレビ画面内、左上の時計に目を向けると朝の九時を指していた。仮眠も取るものだな。
俺を見つけたナナ、ゆっくりこちらに歩き出し、俺にコオロギを催促する。
「あれ? ナナ。どうしたの? さっき六匹は食べたよね? まだ食べるの? よーし! 待ってろ!」
俺は再び押し入れからコオロギを用意し七色に食べさせる。
ナナは待ってました! と言わんばかりに長い舌で捕まえては五匹をペロリと平らげた。
「凄いね! 今日はなんだか一杯食べるね~。成長期かな?」
トゥルトゥルトゥル……。
心地よい時間を遮るように俺のスマホが鳴り響いた。画面を見ると会社からの通知が数件入っている。
休日だって言うのになんだよ畜生。
急に現実に戻された気がして嫌気が差したが、脳裏に過る明日への地獄ロード。仕事に何か問題があっては大変と折り返し電話を入れた。
すると平岡専務のすっとんきょうな回答が帰ってくる。俺は頭をトンカチで叩かれたような衝撃が迸った。
「何やってるんだ? 哲郎。朝礼始まってるぞ」
「はい?」
血の気が凍りつくとはまさにこの事。スマホの日付を確認すると日付は十月二日。俺は自分を疑った。え? 記念日は何処へ? いや待って、もしかして俺。あのまま丸一日ずっと寝てたの?
蓄積された疲労。それはいずれ身を滅ぼすとは良く言った物。俺はまるでタイムトラベラーのように時間を凍結され、翌日に来てしまったようだ。ただ寝ていただけなのに。
「で? 何時に来るの?」
平岡専務の一言で朝礼が過ぎている事を理解した。脳をフル回転させ、良いいい訳を振り絞った。
だが、二日酔いの頭痛では何も浮かばない。
「すっすいません! 今すぐ行きます!」
俺は半分泣きながら、いやもう完全に泣きながら会社に向け走ったのだった。
〇
俺は会社に着き、平岡専務に心を殺して平謝りした。
だが、安堵のため息をつく間もなく、平岡専務は修正箇所と変更箇所を告げる。俺はすぐにシステムを構築する為、作業に取り掛かった。
俺はパソコンのモニターにかぶりつき、指をマシンガンのように連打し、プログラムを作り続ける。
二時間が経ち、集中力が切れ始めた頃、カフェインの補充へと、俺は席を立った。
そしてオフィス端にある、自動販売機で缶コーヒーを買い、ユーターンする。
ん?
戻ってくると、俺のデスクの上に進捗状況表が置いてあった。
この会社では進捗状況を回覧板で報告する事が決まっている。コミュニケーションが無い、社内の暗い雰囲気を変えようと、平岡専務の知恵あっての決まりだ。本当にいい迷惑だが。
俺の番か……。
俺は部下達が大丈夫かコーヒーを片手に進捗状況表に目を通した。
こんな所か……?
問題は山積みだが、想定内。俺は自身の状況を欄に書こうと目をやると……
「センパイ! 髪、ハゲ出来てますよ!」と書かれてあった。
ぶ!
誰が書いたかは一目瞭然だったが、ハゲと言うパワーワードに目を奪われ、俺はとっさにコーヒーを吹き溢して焦った。
畜生。やっぱり気付くよなー。後で油性ペン使ってハゲを埋めて、今日をやり過ごそう。
「哲郎、はやく回覧を回してくれ」
上司の平岡専務が俺に回覧板を催促する。
「あ、すいません」
俺は北村君が書いた、ハゲという文字を専務に見られたくなかったので、とっさにスーツのポケットに入ってあった消しゴムを使い、北村君の俺に対するメモ書きをすべて消した。そして自分の進捗状況を上から書いた。
「すいません。平岡専務、回覧板です」
「おうありがとう、………っておい!」
平岡専務はお化けを見たような表情で俺を凝視した。俺はちょっと軽蔑を目に宿し睨み返す。
「なんです? 人を白い目でみて」
「いや! 誰でもびっくりするだろ! 鈴木……? お前、頭どうしたんだよ?」
円形脱毛症に気付かれたと悟った俺は言い訳っぽく回答した。
「はい? あー、最近ちょっとストレスで」
その様子を見ていた北村君。俺の顔を見るなり慌てて話しかけてきた。
「どうしたんですか!? 先輩! その頭!」
北村君の想像以上の慌てぶり、一体どうしたんだ? この二人。そんなにハゲが珍しいのかよ。
「いやちょっとはオブラートに包めよ。てか北村君がさっき書いてたんだし知ってるだろ?」
「いや、十円ハゲどころやないですよ、先輩カツラだったんですか?」
「はぁ? 何、冗談言ってんだ?」
俺はトイレに行って洗面台の鏡で自分を確認した。
俺は俺であろうその鏡に映る人物と目を合わせた途端、息を呑んだ。
「えええ……。どうなってんだこれ」
初めて対面した、鏡に映る俺の容姿。
ものの数分前まであったはずの十円ハゲが、何処にあったか忘れてしまう。
俺の髪の毛はスケートリンクのように滑りそうなスキンヘッドになっていた。