Prologue
代わり映えのしない毎日。家と職場の往復の繰り返し。そうして年を重ねた先に果たして何があるというのかと、虚しさを覚えながらのいつもの朝。
「お前の席ないぞー。今日は一日営業な。一件も取れなかったら明日も席ないから」
出社するなり、上司の松尾が言った。此方を見ようともせず、手元の書類を見ながら欠伸している。
ちらりと自分のデスクを見ると、デスクの上も椅子の上も、これ以上乗らない限界まで大量に段ボールが積み上がっていた。
「…わかりました」
取り敢えず鞄をデスクの定位置に掛けて、営業に出る準備をする。誰もが無言でタイピングしていたり、何かしらの作業をしている中、松尾の欠伸と溜息だけが耳についた。
結果からいえば、俺は明日も営業が確定している。敢えて疑問を呈するような事はしなかったが、松尾が突然セクション違いの仕事を振ってくる時は、大抵がただの憂さ晴らしというか、八つ当たりのようなものなのだ。だから、そのターゲットに選ばれた俺は、あいつの気が変わりでもしない限り明日も営業なのである。
「お前、少しは抵抗したらどうだ?」
そう、同期でもあり営業セクションで働く大中が言った。今日の営業パートナーだ。
俺は苦笑しながら車の助手席に乗り込み、「無駄だよ。あれに何言っても」と返す。寧ろ何か言えば更に面倒な事になると、これが初めてではない俺は身を以て知っている。
「…ほんと、お前のセクションやばいよなぁ。知っててヘルプ出してるうちの上司もあれだけど」
そんな、幾度目かもわからないお互いの苦労話や会社の愚痴みたいなものをしながら始まるひとつの日常。
然し、今日は少しだけ違った。今日は午後休をとっているのだ。といっても病院にいく為なのだが。
「ん…?」
昼休み。営業を終え、自分の所属するオフィスに戻り、デスクに向かった俺は思わずそんな音を発していた。
ないのだ。今朝、確かに定位置に掛けた鞄が。
「だれか俺の鞄、知りませんか?」と周囲を見回して言ってみるものの、オフィスに残った数人は黙々と作業しながら食事していて、無反応だ。どうしたものかと思った矢先、どたどたと足音を響かせて両手いっぱいに色々抱えた松尾が現れた。昼食の買い物に行っていたらしい。
松尾は立ち尽くす俺に気付くと、「なにしてんの?」と一言。午後休を取っている事も忘れているようなので、その説明と共に鞄の行方を聞いてみる。「ああ、もしかしてそこの鞄、お前のだった?」
「あれなら誰のかわからなかったし、聞いてもみんな知らないっていうから、捨てたよ」
そう言うともう此方には関心を示さず、松尾は昼食を食べ散らかし始めた。
こういうのももう慣れてしまった俺は、鞄の行方について心当たりがあった。案の定、会社裏の焼却炉脇のゴミ置き場に投げ捨てられている鞄を拾って、そのまま帰路につく。
病院に行く気力もなくなってしまった俺だったが、公園でぼんやりしているうちに少し回復し、結局は病院に向かった。
俺は発達障害とAC、躁鬱という最悪なトリプルスコアをもっている。こんな俺でも雇ってくれた社長には感謝しているが、お人好しが過ぎて松尾みたいな奴に良いように利用され、騙されているのだ。社長が高く評価し、信用を置く松尾に関して、俺はとてもなにか言える気がしなかった。
「あ、すみません」と意識せず出た言葉に我に返る。病院からの帰り、知らずぼんやり歩いていた俺は人とぶつかっていた。溜息がでる。足が止まった。
にゃぁ、という鳴き声が足元から聞こえて、猫がすり寄ってきた。昔飼っていた猫によく似ている。すぐに離れた猫を、なんとなく俺は追いかけていた。
猫は暫く行くと振り返り、不思議と此方を待っているようだ。いや、正確には誘導していたというのが、正しかった。
「………」
猫を追いかけた先、工事中の廃ビルの中にそいつは立っていた。猫がそいつに駆け寄ると、よしよしと抱き上げて撫でてやり、ゆっくりと此方に顔を向ける。とはいえローブを纏っている事、そしてそのフードを目深に被っているせいでそいつが男なのか女なのか、一切の情報が掴めない。
「…救って」
はっきりとは聞き取れなかった。多分そう言ったんだろう。俺はその声を聞いた瞬間、後ろに引っ張られるような感覚に襲われ、意識を手放した。




