七十二話 至れり尽くせり
地元ではそれなりに有名な温泉施設、浄土の湯。
建物の上部で存在感を放つ看板を眺めていると、七星さんが「降りましょう」と声をかけてきた。
彼女に続いて俺もリムジンを降りる。
七星さんはリムジンから数歩離れたところまで進むと、その場でくるりと回ってこちらを向いてきた。
悪戯を成功させた子どもみたいな無邪気な笑顔を浮かべている。
「試験も終わったことですし、今日一日は羽をうんと伸ばしましょうっ」
「温泉に行くなら前もって言ってくれてたら準備したのに」
「試験勉強の邪魔はしたくなかったんです。試験中にこの話をしたら意識が向いてしまうかもしれないですから」
「それはそうかもしれないが……」
だとしても車内で行き先ぐらいは教えてくれても良かったような。
……まあいいか。
どうせ明日からバイト漬けの日々が始まるんだ。
折角の機会だし、七星さんの言う通りのんびりしよう。
俺が納得の表情を浮かべると、その気配を感じ取った七星さんが温泉施設へと足を向けた。
彼女に続いて歩き始めながらぼんやりと周囲の光景に違和感を覚えた。
なんか、人が少ないような。
平日とはいえ、この温泉施設は普段から賑わっているはずだ。
しかしリムジンの停まった駐車場には車は殆ど停まっていないし、施設の入口には人の往来もない。
不思議に思いながらも入口の自動ドアを抜けて、木製の靴入れへ靴を仕舞う。
その後受付横の券売機へ向かった。
流石に入湯料ぐらいは自分で払わないとな。
懐から財布を取り出していると、すぐ傍らから不思議そうに七星さんが訊ねてきた。
「何をされているんですか?」
「何って、券を買うんだよ。温泉への入湯料とか」
そういえばタオルもないから買わないとな。
痛い出費だが仕方ない。
それにしても七星さんは券売機の使い方を知らないんだろうか。
いや、ここに連れてきたのは七星さんなんだし流石にそれはないか。
七星さんは俺の答えに一瞬眉を顰めると、何かに納得したのか小さく頷いた。
「そういえばお伝えし忘れていましたね。今日は貸し切りにしていますから自由に入って大丈夫なんです。かかった費用は貸し切り料金とあわせてお支払いしておきますから」
「……いやいやいや、それお伝えし忘れるようなことじゃないから! ていうかどうして貸し切りに?」
「人がいない方がのんびりとできると思いまして」
「……理屈は間違ってないが、手段が間違ってる」
俺が諦め混じりにそう零すと、七星さんが不安げに見上げてくる。
「もしかして、人がいる方がゆっくりできましたか? お疲れのご様子だったので貸し切りの方がいいと思ったんですけど……」
申し訳なさそうに言われるとなんだか俺が悪いことをしたような気分になってくる。
というか、そんなに疲れてそうに見えたのか、俺。
妙に照れくさくなってきた。
「まあ、疲れてるのは確かだし、温泉を貸し切りなんて普通に生きてたらできないからな。有り難くのんびりさせてもらうよ」
「……! は、はい!」
途端に笑顔になる七星さんと共に温泉の方へと向かう。
その途中、ソファが置かれている場所に見知った影があった。
「陽菜、お待たせ」
今日は私服を着ている笹峰さんがこちらに気付いて立ち上がる。
手には二つのトートバッグが携えられている。
「こちら、アリス様のお着替えです。……それと、こちらは赤坂様の」
「え、俺の?」
「はい。赤坂さんは何も用意できていないと思いますから、こちらで手配しておきました」
「それはまた至れり尽くせりで……」
受け取ったトートバッグの中には以前七星さんの家に泊まった時にクローゼットに収納されていた服が綺麗に入っていた。
ともあれ、俺と七星さんは男湯と女湯で一旦別れることになった。




