六十七話 作業通話
「も、もしもし」
「もしもし。無理を聞いて下さってありがとうございます」
早速通話を繋ぐと、スピーカー越しに聞こえてきた七星さんの声にドキリとした。
以前通話した時よりも声が近く感じる。
微かな吐息も感じられて、密着されているような、そんな感覚を抱いてしまう。
「声、前よりも近くないか?」
「今はワイヤレスイヤホンを付けているので、恐らくそのためですね」
「なるほど」
「お嫌でしたら外しますけど?」
「いやいや、大丈夫大丈夫。気になっただけで別に不快とかそういうんじゃないから」
あらぬ誤解を持たれそうだから早めに訂正しておく。
……気になったからってすぐに訊くのはよくないな。
ともあれ声が近い原因はわかった。
少しむず痒いがすぐに慣れるだろう。
「そういえば夜遅くにすまん。寝たりしてなかったか?」
「大丈夫です。わたしも勉強しているところでしたから。わたしの方こそ突然お電話をお願いしてごめんなさい」
「いや、俺の方こそありがとう」
電話しませんかという連絡の後、七星さんは口頭の方が勉強しやすいと補足してくれた。
つまり俺の疑問を解消するために電話の方がいいと判断しただけで、七星さんが謝る理由なんて一切ない
……それにしても、七星さんもこの時間まで勉強していたのか。
今まで培ってきたものの差を埋めるには、俺は七星さん以上に勉強をしないといけない。
もちろん量がすべてというわけではないが、専属の家庭教師という下地が同じである以上そこを突き詰めるしかない。
というか、冷静に考えると俺のわからなかった問題を七星さんが解説できる時点で差は全然埋まってないんじゃないだろうか。
「…………」
ドキリと心臓が妙な跳ね方をした。
やばいという焦燥感が湧き上がる。
「赤坂さん……?」
「っ、ああ、すまん。えっと、それで大問3の解き方なんだけど」
スマホをスピーカーモードにして勉強机の上に置きながら、パラパラと問題集をめくって該当のページを開く。
ひとまず湧き上がる不安感をよそに、目の前の問題に立ち向かうことにする。
折角七星さんも時間を割いてくれているわけだしな。
俺が本題に入ろうとすると、スピーカー越しに気まずそうに息を呑む気配がした。
「その、……ごめんなさい。わたしもわからなかったんです」
「えっ」
「ご、ごめんなさい!」
意外な言葉が聞こえてきて俺は思わず訊き返してしまった。
これまでの勉強で七星さんが俺の質問に対して「わからない」と答えたことはなかった。
何より口頭の方が勉強しやすい、という話で通話を始めたので、てっきりこれから解説が始まると思っていたのだ。
俺が困惑していると、七星さんはとても申し訳なさそうに言ってくる。
「恐らく、先生方もこれは解けないことを想定して出しているようで。時々出すんです、こういう意地悪な問題を」
「あれ、でも前回の中間試験の時はそういうことはなかったような」
「あの時は赤坂さんもいらっしゃいましたから、進行を合わせるために普段よりも難易度を低くしていたんだと思います」
「それって別に今回と変わらないと思うけど」
今回も七星さんの勉強会に俺は参加している。
前回と条件は全く変わらないような。
……というか、俺のためにそんなこともしてくれていたんだな。
胸の内で先生方に対して感謝していると、スマホのスピーカー越しに七星さんがくすりと嬉しそうに笑った。
「それは今の赤坂さんでしたら難易度を元に戻してもついて来れると、先生方が判断なさったからですよ」
「そう、なのか?」
「そうですよ? 自信を持ってください。赤坂さんはこの二週間で凄く伸びていますっ」
「ならよかったけど……」
七星さんが自分のことのように嬉しそうに言ってくれるので、少し照れくさくなってしまう。
素直にありがとうと言えばいいのに微妙な返し方をしてしまった。
「なので、この問題は明日先生方に質問してみましょう。わたしも気になりますから」
「わかった。じゃあ明日」
七星さんの提案に頷き返す。
問題を解けずに一夜を明かすというのは少し嫌だが、そういう事情なら仕方がない。
そう思って通話を切る流れに持って行こうとして、俺は不意に気付いた。
……七星さんは、どうして電話をしようなんて言い出したんだろう。
わからないから明日先生に訊こう。
これを伝えるだけなら、わざわざ通話をせずにメッセージを送ってくれれば事足りる。
お互いの沈黙が続く。
スピーカー越しに微かに七星さんの息遣いが聞こえてくる。
そこで、俺は一つの可能性に思い至った。
「七星さん、もしかして今勉強してた?」
「っ、は、はい!」
「俺もなんだけど、折角だしこのまま通話を繋いだまま一緒に勉強しない? 寝落ち防止も兼ねてさ」
何か作業をしながら通話をする、という作業方法を耳にしたことがある。
お互い通話越しに作業をしているという緊張感が相互監視となって、つい気を抜いてサボってしまうのを防ぐのだ。
だから七星さんも俺に通話をしようと言って来たのだろう。
俺の予想は的中したようで、七星さんの弾むような声が返ってきた。
「ぜ、是非! 一緒にやりましょう、赤坂さんっ」
「こちらこそよろしく。……あ、親父が帰ってきたら突然切るかもしれないけど、その時はごめん」
七星さん程の人なら一人で勉強していてもサボるなんてことはないだろうに、彼女の向上心は凄い。
彼女を超えるために俺も見習わなければ。
ともあれ、俺がわからなかった問題を七星さんもわからなかった。
そのことに、性格の悪い俺は少し安心していたりもした。
スピーカー越しに届く僅かな衣擦れの音と紙の上でシャーペンが奔る音。時折ページをめくる音が聞こえてくる。
そのことに奇妙な安心感と心地よさを覚えながら、俺も彼女のように自分の勉強に集中した。




