六十三話 わからないなら
「お疲れさまでしたー」
夜のバイトも終わり、バイトリーダーたちに挨拶を残してファミレスを出た俺は、いつもの道をなぞるように歩いていた。
今日も働いた。
学生だから時給も低く、四時間のシフトで入る金が四千円に届かないぐらい。
正直業務内容と比べても割に合わないとはわかっているが、金が入ってこないよりは余程いい。
「でもたぶん、俺の一日のバイト代もレストランでの食事で飛ぶんだろうな」
学校のある日はいつも七星さんにご馳走してもらっているが、あのレストランでの食事のクオリティを考えるともっとしてもおかしくはない。
何より個室だしな。
そういう意味ではいつもご馳走してもらうことが申し訳なくなるが、俺たちの関係を維持するための必要経費だと七星さんは割り切ってくれているんだろう。
時折七星さんと比べて自分がみじめに感じることがないと言えば嘘になる。
だが、ないものねだりをしても何にもならないことはわかっているし、持つ者は持つ者で別の苦悩があることを彼女と関わり始めて知った。
結局、自分の人生を豊かにするためには自分が変わるしかないのだ。
「――変わらないとな」
俺が零した呟きは車の音で掻き消される。
いつのも増して妙に感傷的なのは、昼間の七星さんとの会話が原因だろう。
期末考査で彼女に勝つ。
その提案とも挑戦ともとれる話を、俺は保留にしていた。
外付けの階段を上ってアパートの二階に向かう。
扉を開けて中に入ると人の気配はなかった。
いつもなら必ずと言っていいほど廊下に脱ぎ捨てられている服や靴下もない。
「親父はまだ帰ってないのか」
安堵の呟きと共に電気をつけて洗面台に向かう。
顔と手を洗って部屋に向かい、そのまま荷物を床に置いて布団に倒れ込む。
先月の中間考査前、七星さんの家で過ごすことになった俺は、贅沢を覚えてしまった。
今までは何とも感じなかったこの布団に寝心地の悪さを覚えている。
部屋にいる時間が少ないから部屋の広さ自体には特に不満も覚えないのだが、やはり人間というのは一度自身が知らなかった幸福の形を知ると、それを求めるようにできているらしい。
「この家を出たら絶対ベッドを買ってやる」
そのためにも卒業前に金を貯めておく必要があって、バイトを休むわけにはいかない。
……だから、七星さんの提案を拒絶しても仕方がない、はずだ。
「俺は誰に言い訳してるんだ……」
額に腕を当てて天井を見上げながらため息を零す。
これだけ七星さんの提案を否定する考えを並べておきながら断り切れないのは心のどこかで感じているからだ。
このチャンスを逃したら次はないかもしれない――と。
何のスキルも金も地位もない俺が、財界の有名人たちと会うことができる場面。
七星さんを学力だけでも超える人間として紹介してもらえるか、それとも今のままの何もない俺を紹介してもらうかでは、印象は全く違うだろう。
そして前者であれば、七星さんとの偽装交際が終わっても残るものはある。
本当はどっちを選んだ方が自分のためになるか、もうわかっている。
わかっているが――。
「ふぅ……」
大きく息を吐き出して布団から出る。
乾いた喉を潤そうとキッチンへ入り、酒がパンパンに詰められている冷蔵庫の中から朝のうちに作っておいたお茶を取り出す。
コップに注いで一気にのどに流し込めば頭がスッキリするような感覚を抱く。
使ったコップを洗って布巾で軽く拭いていると、突然玄関からガチャガチャと扉を開ける音が聞こえてきた。
俺が廊下に出るのと同時に扉が開き、赤ら顔でフラフラした足取りの親父が現れた。
親父は俺に気付く様子もなく扉を乱雑に閉めると靴を脱ぎ捨てて廊下へ上がり、数歩進んだところでドカリと座り込む。
壁にもたれかかるようにして何事か呟いている親父を眺めているうちに、親父は静かになった。
数秒後、廊下が震えていると錯覚するほどのいびきが鳴り始める。
その光景の一部始終を眺めた俺は、静かに嘆息した。
親父が母さんと離婚してからもう四年になるが、相変わらず酒に浸って暮らしている。
借金もあるのによくもまあ毎晩毎晩飲めるものだと思うが、それでも仕事を続けていること自体は尊敬していなくもない。
もっとも以前勤めていた会社は離婚のタイミングで退職し、今は派遣会社に所属しているが。
すべて親父の自業自得なので同情の余地はないし、それ以外に尊敬もしていないが。
……とはいえ、一応親だ。
親父のことは嫌いだが、廊下で寝ている親を放置するわけにもいかない。
「おい、部屋で寝ろって」
近付いて肩を強請る。
寝言で「桜ちゃぁん」などと言っていた気がしたが聞かなかったことにする。
少しして、「んぁ?」という間抜けな声と共に閉じられた瞼が開き、焦点の定まらない目で俺を捉えた。
ぼんやりとした焦点が俺に定まると、赤ら顔だった親父の顔が酒以外の要素で赤くなる。
「お、おいっ」
いきなり勢いよく立ち上がった親父に声をかけると、突然肩を突き飛ばされた。
「……っ」
狭い廊下だ。
当然飛ばされた体はすぐに壁に衝突する。
肩と背中、両方に伝わる衝撃に顔を顰めていると、怒気を孕んだ顔で親父が言った。
「子どもはいいよなぁ! 周りに従ってるだけで生きていけてッ」
「――――」
ドカドカと乱暴な足取りで親父は奥の部屋へと入っていく。
俺は鈍い痛みを発する背中を擦りながら、「いってぇな」と呟いていた。
部屋に戻って再び布団に潜りこむ。
だが、すっかり眠気は消し飛んでいて、胸の内にむかむかと湧き上がる何かを感じていた。
『――周りに従ってるだけで生きていけてッ』
俺は大人の世界なんて知らない。
高校に入って、義務教育じゃないから勉強するのもしないのも自由。
自由だからこそ責任がある――なんて言葉を、入学したての頃によく聞いた。
けど実際は勉強をする気のないやつもある程度助けてくれて、話を聞いていない奴にもある程度丁寧に説明し直したりして、大人の世界に比べると余程楽なんだろうとは思う。
だからこそ、自分が周りと差をつけるには、与えられたもの以上のことをしないといけない。
「――そうだ。俺は、金持ちになるんだ」
ボソリと呟く。
何を言い訳ばかりしていたんだと、自分に喝を入れる。
目の前にチャンスが転がっていて、それに手を伸ばさない人間が金持ちになれるのか?
学年一位になれるかどうか、七星さんに勝てるかどうか、正直わからない。
だが、できないじゃなくてわからないなら、やるべきだ。
俺は、明日の朝に七星さんへ何を伝えるか心に決めた。




