三十六話 客室
「ほわぁあああ~~~~」
広い湯船につかると、体の中にじんわりと熱が伝わってくる。
その熱の伝達に比例して我慢できない声が零れ出た。
七星家のだだっ広い浴場。
夕食を摂り終えて入浴を勧められた俺は素直にそれに従った。
ずっと頭を使っていたからか、なんだかボーッとする。
このまま湯船の中で眠ったら気持ちいいだろうなと思ってしまう。
「って、危ない危ない」
すんでのところで意識を引き留めて湯船を上がる。
脱衣所に向かいながら、ふと前回の記憶が蘇った。
「…………クリア」
戸をミリだけ開けて脱衣所を覗き見る。
……なんか格好だけを見ると完全に不審者だな。
脱衣所内に誰もいないことを確認して足を踏み入れ、用意されているタオルで全身の水気を拭き取る。
そしてタオルと一緒に用意されていた服を手に取った。
上質で肌触りのいい深い青を主体としたパジャマ。
正直寝る時の服なんて適当なシャツでいいと思っていたが、着てみると結構楽でいい。
……いや、これは物がいいからなのかもしれないが。
ぽかぽかと幸福感に満ち満ちた気分で脱衣所を出る。
「アリス様がお部屋でお待ちです」
「うわぁっ、びっっっくりしたぁ!」
扉を出てすぐ右に笹峰さんが静かに立っていた。
突然声をかけられて思わず大声を上げてしまう。
ほっこりモードから反転、飛び跳ねた心臓を落ち着けながら笹峰さんに言葉を返す。
「お部屋って、七星さんの?」
「……そんなわけないじゃないですか。赤坂様がお泊りになられるために用意されたお部屋です」
ものすごく馬鹿にするような目で見られてしまった。
呆れた様子で俺に背を向け、歩きはじめる笹峰さん。
慌ててその背中を追いかける。
前を歩くメイド服を着た同年代の女性。
……改めて非日常感が凄いな。
俺も金持ちになったらメイドさんを雇おう。
「……赤坂様」
「ん?」
「先日は大変失礼いたしました」
「先日……あ、もしかして脱衣所で馬乗りに」
「それ以上口を開くと……」
「すみませんでした」
殺気を感じてすぐにひれ伏す。
ため息を零す笹峰さんはしかしすぐに言葉を続けた。
「赤坂様からアリス様への愛情を感じないと、そう疑ったのはあたしの浅慮でした」
「……まぁ、わかってくれたのなら俺も安心できるけど」
笹峰さんの俺に対する印象は間違っていないからなんとも言えない気まずさがある。
とはいえ、七星さんと一番近しいと言ってもいい彼女が俺のことを認めてくれたのならこの先の偽装交際もやりやすい。
俺と笹峰さんの会話はそこで一旦途切れた。
「あちらのお部屋です」
少しして、奥の部屋の扉を示しながら笹峰さんが口を開いた。
この廊下に並ぶ部屋はすべて客室だろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、不意に笹峰さんが足を止めた。
「……あたしは、アリス様には幸せになって欲しい」
真剣な声音で敬語も外れている。
メイドとしての彼女というより、笹峰陽菜個人としての言葉という感じがする。
「アリス様が泣くようなことは絶対にしないでくれ。たとえどんなことがあっても」
「……もちろん」
そのことに関しては自信をもって答えられる。
俺と彼女の交際において、七星さんが泣くようなことは万に一つも起こりえない。
俺の答えに満足したのか、笹峰さんは静かに笑って再び歩き出した。
◆ ◆
「……なんだ、この部屋」
笹峰さんに案内された部屋に入ってすぐに俺は唖然とした。
この部屋の雰囲気とこれまで立ち入ったことのある部屋の雰囲気から予測していた内装とあまりにも乖離していた。
十畳ほどの広い部屋の中央にローテーブルとイスのセットが置かれて、その奥に深い黒色のベッドが置かれている。
カーテンも黒色で、なんというか、客室というよりも一人暮らしの男の部屋という感じが凄い。
ともかく、異質な部屋だった。
「お湯加減いかがでしたか、赤坂さんっ」
部屋のイスに座って待っていた七星さんが俺に気付いて声をかけて来る。
「……すごくよかったけど、ところでこの部屋は?」
「赤坂さんがこちらにお泊りになられる際にお使いいただくお部屋です。赤坂さんの好みを取り入れたつもりですけど、気になるところがありましたか?」
「……いや、全然。凄く俺好みだけど……、いや、ありがとう」
そういえば笹峰さんがこの部屋に案内するときに俺が泊まるために用意された部屋って言ってたな。
てっきり放置していた客室の掃除をしたりベッドメイクをしたという意味だと思ってたけど、言葉通りの意味だったとは……。
金持ちすげぇ……いや、こえぇ。
「クローゼットには赤坂さんのためにご用意した衣類も収納してありますから、ご自由にお使いください」
「えっ」
言われてクローゼットを開く。
明らかに高そうなスーツやシャツが並べられている。
しかもサイズちゃんと俺に合ったやつだし。
「…………七星さん、ありがとう」
「はいっ、喜んでいただけて嬉しいです!」
満面の笑顔を浮かべる七星さん。
扉の近くで笹峰さんが深いため息を零していた。




