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鴻鵠の娘  作者: 納戸
籠鳥 雲を恋う
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4.鴻鵠の雛

 村を出て二日たった日の朝、芙蓉は戸曹に戻ると珪にいくつかの頼みごとをした。

 その多くは、自分が席を開ける間の指示であったり、鈴扇たち意外に肖が村を逃げだしてきたことを悟られないように彼を府内に匿うようお願いしたりというものだったが、その中で一つだけ彼が眉を顰めたものがあった。

 芙蓉は珪に、酒屋に行って酒を鈴扇宛に四十(しょう)ほど注文してくれと頼んだのである。


「酒を?そんなにたくさん……何に使うのですか?」


 当然彼がそう聞くと、芙蓉は気まずそうにあははと笑った。


「私の着任祝いがすんでいなかったということで皆さんがお祝いしてくださるそうなのです。お願いしてもよろしいでしょうか?」

「はあ、いいですが。どうして芙蓉様の着任祝いを芙蓉様が準備されているのですか?」

「ほら、蘭國府って人が少ないじゃないですか。しょうがないんです」

「はあ……ちなみにその祝宴に私もお呼ばれしてもよろしいのですかな?」


 珪が嬉しそうに目を細めるのを見て、芙蓉はさすがに申し訳なくなり視線を下げるばかりである。

 彼は芙蓉の言うことには逆らわない。それは部下としてもだが、芙蓉の働きぶりを見た彼は心から芙蓉を尊敬しているのだ。

 特に芙蓉が河豚毒を言い当て、隠れた村の存在をつまびらかにしたことにすっかり感銘を受けたらしく、隙あらば芙蓉の話を聞きたがるようになった。

 芙蓉も芙蓉で、知っていることを教えると笑顔で褒めてくれるので心の中で「おじいちゃんがいたらこういう感じなのか」と思いながら、彼を好いている節があった。

 つまり、今の状況は優しい身内を騙しているようで芙蓉には非常に後ろ暗かった。


「珪殿、申し訳ありません。これはその……男同士の熱き語り合いなのです。珪殿や他の方とはまた別に機会を設けようと思うのです」


 丁重に断っても、彼は「若いもの同士、仲がよろしいのは良いことです」と芙蓉に笑いかけてくれる。

 その優しさに余計に胸がズキズキと痛んだ。


「積もる話もあるでしょう。私は別の機会にお呼ばれいたしましょう」


 そう、朗らかに笑う珪に芙蓉は全てが無事に終わったら必ず夕食をご馳走しようと心の中で誓ったのだった。



 ※



「芙蓉殿、珪殿に仕事の引継ぎを伝えることはできましたか。……って、どうしてそんなに疲れてるんです?」


 暗い顔で國令室に入ってくる芙蓉を見て嬰翔は言う。


「いや、善意しかない人に嘘をつくのはこんなに苦しいものかと思いまして」

「そんな後ろ暗い作戦なんですか?芙蓉殿の考えた作戦というのは」


 嬰翔の問いにすぐに気持ちを切り替えたのか芙蓉は持っていた紙を広げると、鈴扇と嬰翔の前に広げた。

 どうやらそれは一昨日見た村の地図を、記憶を頼りに書き起こしたもののようであった。


「作戦は私たち以外になるべく気取られないよう今夜決行いたします。私は鈴扇様とともに真正面から村に入りますので、嬰翔様は一昨日行った緑青村のあたりでお待ちください。その際に信用できて腕の立つ武官を十人ほどお連れください」


「正面って、芙蓉殿あの短時間でもしかしてこれ覚えたんですか」

「はい、正確ではありませんが」


 知識量のせいで忘れそうになるが彼女の記憶力はおそらく普通といわれる基準を大きく上回っている。それに、目の良さと思考力が上乗せされ常人がたどり着けない解を導き出しているのだ。


「……愚問だったみたいですね」


 嬰翔ももちろん国試を通るほどなので記憶力には自信があるが、芙蓉には遠く及ばないのだろう。見ると私兵が見張りをしていた場所まで書かれているから恐れ入る。

 それを言ってもきっと「記憶力は才能ではありません」と言われるのだろうから並の秀才は辛い。


「たった十人だけでいいのか」

「大丈夫でしょう。私たちが相手にするのは蘭家の私兵ではありませんから」


 鈴扇が不思議そうに聞くと芙蓉はそう答えた。


「鈴扇様は帯剣をお願いいたします。そして嬰翔様と武官の方々はこの酒甕(さかがめ)をお持ちください」


 國令室の扉に並行して置かれた四つの大きな酒瓶を見て鈴扇と嬰翔は溜息をついた。

 先ほど入ってきた珪はこれを見て「今晩はお楽しみのようですね」と言っていたが、何のことか二人にはさっぱり意味が分からなかったのだ。


「……これはお前の仕業だったのか。先ほど商人たちが担いで持ってきたから間違えていると嬰翔がつっぱねそうになっていたぞ」

「本当ですよ、こんなに買ってどうするんです。あっ、酒に酔わせて兵士を潰す気ですか?」


 嬰翔がそうでしょう、と言いたげに芙蓉を見ると彼女は静かに首を振る。


「あの時見ただけで私兵は十人はいましたし、肖殿が逃げたということもあって人数も増えていると思うんですよね。だからその作戦はあまり現実味がありません。

 彼らが滅んだ村を使って結界を張ったように私たちもこれで結界を張るのですよ」


 ただの酒がどうやったら結界になるのか、二人には皆目見当もつかなかった。

 そこまで言ってから、芙蓉は二人を見つめ問いかける。


「私の作戦は今はここまでしか話せません。それでも、私に賭けてくださいますか」


 どこから情報が洩れるか分からない。

 そして、その情報が芙蓉たちよりも早く村にたどり着いた瞬間、きっと祥凛たちは隠蔽のために殺されてしまう。

 味方であっても必要以上に作戦の内容を話すことは得策とは思えなかった。


「ああ、もちろんだ」

「はい、もちろんですよ」


 少しだけその瞳に不安の色をのぞかせた彼女に鈴扇と嬰翔は力強く頷いて見せた。

 元からその覚悟を決めている。

 特に嬰翔は芙蓉を見つけた瞬間から、彼女にこの蘭國をかけてみる価値があると信じている。

 何を迷う必要があるだろうか。


 芙蓉はその答えに深く頷くと、その灰色の瞳を瞬かせた。




 ※




 そうして現在、鈴扇は芙蓉とともに山の中腹付近で芙蓉が良しと言うのを待っていた。


 その腰には菫の紋の入った剣が、そして隣に座りこむ芙蓉の背には矢が背負われている。


「お前、弓術はできないのではなかったのか」


 不思議に思った鈴扇が聞くと芙蓉は微笑む。


「特別製ですから安心してください」


 あの馬術を見ているに到底安心はできないが、彼女が言うのだから仕方がない。

 なにしろ、この作戦について鈴扇はほとんど知らされていないのだ。


「鈴扇様、できるだけ大きい声で彼らを引き付けてくださいね。嗣 斉玄ではなくても、おそらく統率している者がいます。その人と話がしたいと言ってください。鈴扇様は女性より美しいのですぐに取って食われそうになるかもしれませんが、できるだけ時間を稼いでください。その間に私は準備を済ませます」

「お前に美しいと言われると実験動物にされている気分だ。馬鹿にするな、私は男だ。武術も一通りは嗜んでいる」

「素直に褒めているのに」


 隣から眺めていてもやはりその横顔は女性の芙蓉でさえ羨むほどの美貌だ。

 人間には黄金比と言われる、最も美しいと思われる比というものが存在するらしいが、鈴扇の顔にはいくつそれが隠れているのだろうと数えてみたい気持ちもある。


「一層悪い」


 芙蓉の頭の中で彼の顔の美しさを数字で表すための暗算が始まったのが分かったのか、鈴扇は苦い顔をした。

 芙蓉は目を細めると、村人が家にはいたことを確認し鈴扇に目配せをする。


「鈴扇様、村人が家に入りました。それでは、作戦を開始します」


 芙蓉がそう言うと、鈴扇はおそらく私兵が出入りする門のようになっていた木々を剣で一掃し、村の中へ歩みを進めた。

 いきなり現れた明らかに高貴ないで立ちの男に私兵たちが身構えるのを見て芙蓉は、持ってきた緑色の布をすっぽり頭から被る。

 闇夜でも芙蓉の灰の瞳は月の光に反射して目立って仕方がないのだ。

 思った通り、私兵の数は前回視察に来た時よりも増えている。三十、ひょっとしたら五十近くいるかもしれない。


「止まれ、誰だ貴様は!」


 私兵の一人が問うと、


「我が名は菫 鈴扇、この國の國令だ!」


 鈴扇はそう剣を抜き、高らかに名乗った。冬の冷気が彼の冷たい存在感を一層強いものにしているように感じた。

 心の中で、鈴扇の見事な一声に称賛を送りながら芙蓉は木々の間を抜け、徐々に鈴扇の周りに集まりだす私兵を横目に駆けた。


「國令だと……?!馬鹿な!証拠でもあるのか」

「これは私だけが持てる蘭國國令印だ。貴様らが見ても分からないだろうがな」


 そう言って鈴扇は國令印を掲げるように見せる。

 鈴扇の挑発に腹を立てても、彼らがすぐには彼を襲わないことは明白だ。


「鈴扇様、頼みました……!」


 小声でそう呟くと、芙蓉は懐から準備していた小刀を取り出して()()()()()()()()

 鈴扇が懐から出した國令印、そしてその剣の鞘に彫られた見事な菫模様はきっと芙蓉の時間を稼いでくれるだろう。

 正直芙蓉もすべてがうまくいくとは思っていない。半分は、運任せだ。

 彼らに気付かれないように、全ての準備が終わったことを確認すると口を引き結んで立ち上がる。

 勝負はここからだ。


「よし、あとは私の思った通りに動いてくださいね、みなさん……!」


 すぐにでも鈴扇のもとに戻らなければならない。そう思って作業を終えた芙蓉が立ち上がったときであった。


「芙蓉!」

「祥凛……」


 芙蓉の後ろには祥凛が胸に手を当て立っていた。その顔はひどく焦っている。


「芙蓉、何の騒ぎなの?私たち本当に大丈夫なの……?」


 明らかに彼女は不安になっている。

 全てを失うかもしれないという彼女の恐怖は痛いほど分かるはずなのに、ここですべてを話す時間がないのが惜しい。

 芙蓉は祥凛に駆け寄り、その肩を掴むと力強く諭す。


「祥凛、信じてください!私が言った通りにすれば必ず助かります!」


 うん、と自分に言い聞かせるように頷く彼女の瞳にはそれでも大きな不安が揺れ動いていた。

 それを全て払拭することは今の芙蓉には不可能なのが悔しかった。

 芙蓉、と涙ぐんで彼女はその胸に飛び込む。


「ねえ、これだけは聞かせてほしいの。私たちまた会えるわよね……?」


 瞬間、強張りそうになる顔を芙蓉は必死で平静に保った。

 未来を約束することの愚かさを芙蓉は知っている。ときに不確実な約束は人を深く傷付けるということも。

 それでも今の芙蓉と祥凛の間には約束が必要だった。

 これは約束であり決意なのだ、と言い聞かせて叫ぶように芙蓉は告げる。


「ええ、必ず!」


 そう言うと、芙蓉は踵を返し再び駆け出した。



 ※



「これはこれは國令様、自ら出向いていただけるとは有り難い。嗣 斉玄と申します」


 半信半疑の私兵たちが村の中央に建てられた豪奢な天幕から連れ出してきたのはあろうことか嗣斉玄その人であった。

 まさか本命が出てくるとは、と心の中で悪態をつきながらひとまず剣を鞘に仕舞うと鈴扇は目の前の男に向き直った。

 当主である鵬舜と同じ、淡い青を纏ったような黒髪に彼よりはるかに淡い色の青の瞳。

 その色は本家からは随分血の薄くなった家系の生まれであることを示している。

 三十を少し過ぎたくらいだろうか、それなりに顔は整っているがうすい唇にたたえた胡散臭い笑みが気味の悪い男だ。


「この村は地図に記載がないようだが、税収はどうなっているんだ」

「鼠が一匹逃げ出したようで我らも火消しに悩んでいたところです。死者に口なしと言いますが、やはり鼠は生かしても利用価値がなくなった時点で早く殺すべきでした。あなたが鼠を匿っていたとは驚きましたが」


 やはり、彼らは肖が村を抜けたことに警戒している。

 珪に國府から出さないように伝えているが、情報が流れるのも時間の問題だったのだろう。


「優秀な部下がいるのでな。死者を生き返らせることができるんだ」

「はて、今日の夜に蘭國軍が動くと言う話は聞いておりませんが。もしかして一人で来られたので?」

「やはり、蘭家ゆかりの官吏や武官はお前たちに情報を流していたのだな」


 鈴扇とて全ての官吏の事情を把握しているわけではない。本当にこの国の制度は腐敗を生みやすくて困る。

 苦い顔をすると斉玄は鈴扇を嘲笑した。


「どこの國でも行われていることです。菫家出身のあなたなら驚くことでもないでしょうに。それで、質問に答えないということはやはり一人で来られたということですね。面白い方だ。お前たち、やってしまえ」


 鈴扇の後ろに兵がいないことなど丸わかりだ。

 私兵たちはすぐに剣を構え、鈴扇の首にその剣先を向ける。

 待て、と鈴扇は彼らを睨んで静かに言う。


「私が一人で来たのは交渉の余地があると思ったからだ。蘭家はこれ以上の汚職がばれたらまずいのだろう。私にもその分け前をくれはしないだろうか、代わりに私はここで見たことはなかったことにする」


 時間を稼ぐためではあるが、自分でも何を莫迦なことを口走ったのかと恥ずかしくなってくる。今ばかりは自らの鉄面皮に感謝した。

 芙蓉の時間稼ぎは済んだのだろうか、そろそろ鈴扇の数少ない話題の提供も苦しくなってきた。

 案の定、相手も鈴扇の愚策に乗るつもりはないらしい。


「ははは!馬鹿なお方だ!交渉の余地なしです。みすみす一人で現れたあなたを私たちが見逃すとでも思ったのですか?」

「私は菫家直系だ。その私を殺せば動くのは菫一族だぞ」

「菫家が格上の蘭家に歯向かうとはいい度胸ですね」


 それはあくまで大昔にできた上下関係の話であり、今は菫國が蘭國よりはるかに繁栄し、皇帝からも信頼が厚いことを知らないのだろうかと頭が痛くなった。

 仕方なく剣を抜くとすぐにかかってきた私兵たちを鈴扇は容赦なく斬る。


「ほう、さすがは菫家のご子息だ。武芸一般は習得なさっているようですね」

「お前たちの当主と違って遊んでばかりいないのでな!」


 そう強がってみせるがさすがに兵士数人相手となると苦しい。

 すぐに鈴扇の後ろに回りこまれ、四方八方から剣戟を受けなければならなくなる。


「しかしこの数には勝てないでしょう。やってしまえ」

「くっ!」


 鈴扇目がけて今にも剣が振り下ろされそうになった時であった。


「鈴扇様!」


 突然に後ろから響いた芙蓉の声に振り返ると、丁度矢を番えた彼女が草むらから鈴扇に剣を振りかざす兵に向かって矢を射ようとしているところだった。


「芙蓉っ……!……っ!?」


 そう彼女の名を呼んだ彼の声に妙な間があったのはその矢が鈴扇の頬を掠めたからである。

 矢はヒュウっとおかしな音を立てると、あろうことか鈴扇の顔を目がけて飛んできたのだ。

 そのあんまりな音に敵が気を取られて鈴扇が剣先を避けることができたのが唯一の幸運だ。


「れっ、鈴扇様ご無事でしたか……?」


 いきなり現れた少年に気を取られた兵たちの間をぬって気まずそうに鈴扇の隣に立つと、一応といった顔でそう聞く彼女に鈴扇は珍しく声を荒げる。


「……お前なんだその弓の腕は?!なんの援護にもならんぞ!」


 援護どころか鈴扇が矢鴨になるところだったのだ。


「だっ、だから言ったでしょう!私の弓術なんて付け焼刃なんですよ!」


 鈴扇の胸ぐらをつかみそうな勢いに気圧されながら芙蓉も必死に自らの腕を弁護する。

 自慢ではないが、会試での芙蓉の弓術の点数は史上最低合格点なのだ。

 当てなかっただけ褒めてほしい。


「お前さっきは特別製だとか言って自信満々だっただろう!」

「私だって恥ずかしいんです!大きな声を出さないでください!」


 いきなりぎゃんぎゃんといがみ合いだした少年と國令に私兵たちがどよめく中、一人の私兵が斉玄に耳打ちをする。


「斉玄様、あの少年。最近着任したという國令副官と同じ特徴を持っています」

「あんな少年が副官だと?ははは、副官と國令が自ら出向いてくるとはとち狂ったのか!面白い方々だ。捕らえろ!」


 まずい、すぐに言い争いをやめ目を合わせた二人は村の入り口に向かって駆け始める。


「芙蓉、この後はどうするんだ!」

「とにかく走ってください!」


 二人の後ろには少なくても三十ほどの私兵が追ってきている。状況は最悪だ。


「無理だ!もう追いつかれるぞ!」


 鈴扇がそう言った瞬間、


「止まって!!」


 と芙蓉が彼の袖を引いた。

 鈴扇と芙蓉が(きびす)を返すと目前に私兵たちが迫っている。

 その中央からは可笑しくて仕方がないというような様子の斉玄がこちらを見ていた。


「もう逃げられませんぞ、國令殿」

「どうするつもりだ、芙蓉」

「大丈夫です」


 何が大丈夫なのだ、と声を上げたいが張り詰めた空気を壊すと一気に襲い掛かられそうな状況だ。


「ああ、本当に残念です。私たちは幸せだった。村人たちは少ない税収で暮らせるし、十分な飯も食わせてやった。私たちの生活も、村人たちの生活も潤っていたのだ。それが勉学などと不相応な夢を抱いたせいで、私たちの理想郷は崩れたのだ」

「……何が幸せですか、人を奴隷のように扱っておいて」


 恍惚とした表情で理想郷を語る彼を芙蓉は怒りに満ちた目で見つめる。

 彼女の頭にはかつて父を、そして自分を力によって閉じ込めた葵家のことがあった。

 自由を奪われ、その能力を利用されても父はけして()まなかった。その瞳は何物にも左右されず、真実という一点を見つめ続けた。

 その魂のなんと高潔で美しいことだろうか。


「勉学はたとえ雪の中にあっても砂漠の中にあってもその蕾を開く花です、その花を手折ろうとする汚れた手に私は屈したりしません!!」


 その声と同時か少し遅れてすぐ近くで複数の獣の遠吠えが響いた。


 間に合った、と芙蓉は胸を撫でおろす。

 それと時を同じくして、村の中の火が一斉に落ちた。


「何だ、村の明かりが一斉に消えたぞ!」


 月明かりにまかせて殆ど火を持っていなかった私兵たちがどよめき始めると芙蓉は不敵に微笑んだ。


「良いことを教えてあげましょう、弓は当てる以外にも使い道があるんです」


「……まさか、嚆矢(こうし)か」


 そのまさかだと、芙蓉は鈴扇の言葉に頷いた。

 嚆矢、それは本来なら戦の開始を告げる音を発する矢だ。


「音を使って狼たちに合図を出したんですよ、()()()()()()()()()ってね」


 彼女は嚆矢を、狼を呼び寄せる犬笛として応用したのだ。

 指笛や金属で作った笛で呼び寄せると言う話を聞いたことはあるが、そんな矢の使い方は聞いたこともない。


()()()ですから安心してください』


 芙蓉がそう言った理由を今なら理解することができる。

 あれは狼たちにこの村の居場所を伝えるための弓矢だった。

 元より芙蓉が弓を敵に当てる必要などなかったのだ。

「音?そんなもの聞こえなかったぞ!」

 周りに集まりだした複数の獣の気配に明らかに斉玄は狼狽え始める。

「狼たちははるかに私たちより耳がいいんです」

「わっ、私たちを狼に襲わせるつもりか!?」


「狼は刃を向けない限りほとんど人間を襲いません。あなたたちを殺すのにそんな不確かな方法はとりません。知っていますか?羊を多く飼う(ろく)の一部では犬をしつけて放牧した羊を追わせるのです」


「狙いは家畜か!!」


 いまさら気が付いても、もうすべてが遅い。芙蓉が矢を使って狼たちに呼びかけ、彼らはそれに答えた。

 その時点ですでにこの村は芙蓉の術中だ。

「鈴扇様に時間を稼いでいただいた間に家畜小屋の扉を全て壊しました。もともとは、森の動物ではない家畜たちは狼に追われて平地へと下るでしょう」

「な、そんなことが……!!」

「この国では家畜の数は戸部で管理されています。記録にないはずの家畜が大量に現れたら地方戸曹だけではさすがに手に負えませんよね?」

 続々と集まる複数の獣の気配に、芙蓉は高らかに「さあ!」と呼びかける。


「獲物はここです!あなたたちの大好きな肥え太った家畜がたくさんいますよ!」


 そう言ってもう一度弓を放った。

 今度は先ほどより遠く、村の中に飛んでいく。

 矢が向う方向に大量の気配が向っていったのを鈴扇は感じた。

 彼らの銀灰色の身体が、雪を散らしながら走ると月の光を受けて幾筋もの光の大群が移動しているように見えた。

「お前たち戻れ!こいつらより家畜だ!逃がすな!山を下りられたらたまったものじゃない!」

 私兵たちは波が引くように芙蓉と鈴扇に向けた剣を収めると村に向かって駆けもどり始める。


 鈴扇に私兵たちの目を引き付けさせている間に家畜小屋の扉を壊し、自らは矢によって狼をおびき寄せ、彼らに家畜を(ふもと)まで追わせる。そして(ふもと)で待つ嬰翔たちに家畜を捕獲させる。


 全て彼女の作戦通りであった。

 芙蓉、そう呼びかけようとして鈴扇は息を飲んだ。


 狼の行く先を見つめる芙蓉の瞳が月の光を受けて銀色に輝いている。

 その、一点の曇りもなく前を見据える瞳があまりにも美しかったのだ。


 そう思ったのもつかの間、芙蓉は目の前から姿を消した敵に腰を抜かして地面に尻もちをついた。


「ほら、手を出せ」


 鈴扇がその手を掴むと呆けたようなその顔に、徐々に喜色が浮かび始める。


「あ、安心したら腰が抜けてしまって……ありがとうございます」

「お前、このために嬰翔を(ふもと)に置いてきたのか、まったく知恵が回る」

「はい、嬰翔様ならきっと分かってくださいます。……にしてもここまでうまくいくとは思いませんでした。父に狼を呼ぶ方法と、退ける方法を教えて貰っていてよかったです」


 狼を意のままに操れるとはどんな商人だと言いそうになるが、興が覚めそうなので口をつぐんだ。


「見てください、家畜の道ができていますよ」


 芙蓉の指さすほうを見ると、鈴扇たちが来た道をすでに羊や山羊といった家畜たちが下りていくのが見えた。

 信じられない奇策だ。

 彼女はいわば自然から兵を借りてきたのだ。


「なぜ、突然明かりが消えたんだ?」

「獣は火を恐れるためこの地域では家の周りに火を焚きます。これを消して下さいと祥凛、私の友に頼みました。そして住民には家の中に隠れ、明かりを消すようにしてくれと」


 ここまでくると鈴扇にも彼女の考えが手に取るようにわかった。


「お前、村人に協力させたことで刑を軽くするつもりか」

「さすが鈴扇様」


 家の火を消す、たったそれだけの意思表示。

 しかしその行為は十分に芙蓉たちの計画の成功に貢献した。


「私たちは民を苦しめたいわけじゃない、それに彼らに罪はありません」


 それは彼女自身の優しさかもしれないが、それはどうにかして村人の罪を軽くできないかという鈴扇の期待にも答えるものだった。


「刑を免れるわけではないぞ」

「知っています。さあ、鈴扇様。ここからは私を守りながら麓に降りる仕事です」


 すでに二人の近くには先ほどの嚆矢で集まりきらなかった獣が集まり始めていた。

 鈴扇は芙蓉を背に匿うともう一度剣を抜いた。


「簡単に言ってくれる。お前、狼から身を守る手は何か考えてこなかったのか」

「ちゃんと考えて来たじゃないですか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……私か」


 芙蓉は猿の骨に驚いて腰を抜かす嬰翔をそういう意味では全く信頼していなかった。

 彼は貴族の中でも商家の出なのでそれも仕方のない話だ。

 その点、六大家の出身である鈴扇であれば武芸一般は修めているであろうと思った。


「これは信頼ですよ」

「どう考えても怠慢だろう」


『信頼と怠慢が同義になってはならないのです』


 少し前に自分たちに説教した彼女を同じ言葉で罵りたくなった。



 ※



 ここよりもっと西の国では眠れない夜に羊を数えると言う話を、嬰翔は目の前に現れた光景を見て思い出した。

 山からは一匹また一匹と羊や山羊が飛び出し、それを追うように牛が、そしてその背にはすぐに狼が追ってきている。


「さあ、降りてきましたよ、皆さん。動かぬ証拠ならぬ、()()()()()()()()がね」


 次第にその数は増えていくが狼を火で威嚇し、家畜を罠にかけるだけなので案外猟は簡単だ。

 嬰翔は彼女が家畜は戸部で管理されているかと尋ねた理由がすぐに理解できた。

 特に牛の少ない蘭國なら、すぐにその数のおかしさが明るみになるだろう。

 何も言わずに嬰翔なら理解できると信頼してくれたのは嬉しいが、どうやって狼を引き寄せたかは後で聞かなければならない。

 まったく謎ばかりが多くて困る。


「本来ならあなたの仕事の範疇ではないのですが申し訳ありません(はん)國尉殿」


 隣で指揮を取っていた男に嬰翔は軽く頭を下げてそう言う。何を隠そう口元に立派な髭をたくわえた男はこの國の軍の指揮を行っている汎 佑徳(はん ゆうとく)その人であった。


「いえ、なかなか面白いものを見せてもらいました。それにしても、どうして芙蓉殿はこちらに狼が下りてくると分かったのでしょう」

「酒ですよ、獣は酒の匂いを嫌うので、ここ以外の麓には酒を撒いておけと言われていたんです」


『嬰翔様には私たちが追い込んだ獲物を捕まえる“網”になっていただきます。そしてその網はこれで作っていただきます』


 彼女が言った結界とはこのことだったのだ。

 家畜を捕まえるための網であり、狼を寄せ付けないための結界となった酒の開いた(かめ)を見て嬰翔は苦笑いする。山の上から、ここまですべてが彼女には見えているのだ。


「抜け目がないですなあ……」

「まったくです」

「僕がここに残された理由が分かりました。狼なんて僕にはとても相手にできません」

「武官たちも楽しんでいるようですよ。こんな奇抜な作戦、芙蓉殿ではないと思いつきません。では私も捕獲に戻ります」


 かつて遊牧民族であった茜國(せんこく)の出身である彼の同行を願い出たのも芙蓉の提案だ。

 ここまでくると全てが彼女の手の平の上にあるようで恐ろしくなってくる。


「鈴扇、芙蓉殿を頼みましたよ。()()は僕らの、鳳の雛なんですから」



 ※



「鈴扇様、すごいです。思った通り、剣術の腕も達者なのですね」


 目前に迫った狼たちを一刀両断し、のしてしまった鈴扇に芙蓉は素直に称賛の声をかけた。


「所詮貴族の嗜みでしかない。武官には遠く及ばないぞ」


 それは普通の武官の話ではない。彼が言っているのは武官の国試を受けて朝廷に上がる国直属の武官のことだろう。

 官吏である鈴扇にそこまでの腕があればそれこそ天は彼に何物を与えることになるのだろうか。


「夜明けを待って村人を助け出すのだろう。その頃には、斉玄も観念するだろう」

「はい、すでにほとんどの家畜たちは山を下っています。それまでに嬰翔様たちと合流して協力を仰ぎます」

「ふむ……では夜が明けるまでの間少し無駄話に付き合ってくれるか」


 鈴扇は近場にあった岩を(はら)い、芙蓉に横に座るよう促すが彼女は警戒してすぐには座ろうとしない。


「なんだ、その顔は」

「……鈴扇様の無駄話って何なんですか?ひょっとして、無駄な人間をクビにする話の略ですか?」

「お前は私を何だと思っているんだ」

「だってそういうの嫌いそうですし……」

「黙って聞け。芙蓉、この国は文化や芸術、制度の流通が極端に遅いと感じたことはないか」


 どうやら本当に普通に話をするつもりらしい。

 芙蓉は警戒をとくと、その隣におそるおそる腰をかけた。


「確かに國ごとに文化はかなり異なりますね。しかし私は他の国を知りませんので」


 父にいくつかの国の文化や人間性について聞いたことはあるが、そこからは時流の速さを伺うことはできなかった。


「私は昔、(ろく)に遊学したことがある」

(ろく)に?」


 大陸で最も大きな北の大国、(ろく)。その国土の大きさは花興の四倍にも及ぶと言われるが、今でもその国境は彼らの巨大な力によって拡大を繰り返していると聞く。

 新しい物好きの彼らは他国から文化を奪い、財を吸収することによってその欲望を満たし続ける。野蛮だが、彼らの文化の発展と融合には目を見張るものがあるとかつて父も言っていた。


「麓は大国だが、驚くことに文化の流通は我が国よりも早い。それは商人の往来が多く、人々の行き来が盛んだからだ。我が国は依然(くに)同士の独立性が高くその文化は異なり、商家と言えば薺家が台頭している。薺家のみが持つ薺玉手形も市場の独占を優位にしている。こんなことで国は発展するのだろうかと私は悩んだ」


 芙蓉、と鈴扇は彼女の名を呼んだ。

 深い紫の瞳が芙蓉を真摯に見つめている。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。國を失くし、國主と國令といういわば二権力の横行を廃止しようと考えている」


 芙蓉はいつしかその話に聞き入っていた。

 國制の廃止、きっとそれはこの国の有識者なら誰もが考えたことがある夢物語。

 数百年かかっても誰も成しえなかった夢のまた夢の話だ。


「嬰翔にしか話したことがない私の夢だ。何人もの官吏が断念した悲願だ。私はこれを、お前に手伝ってもらうことはできないだろうかと思う」

「私を?」


 不思議そうに聞く芙蓉に、そうだと鈴扇は言い聞かせるように言う。


「お前はまだ、自分の才能を全て分かりきってはいない。嬰翔はお前の目が良すぎると言うが、お前はただの天才ではないと私は思う。お前ならこの国の全ての人間を導けるような、そんな予感さえする。その才能を私は心から欲しいと思う」


 芙蓉は話を聞き終えるとそっとその目を閉じ、しばし黙ってから口を開いた。


「……これからする話は、無駄話と思ってお聞きください。私を飼っていた人間は私を『人心を解する化け物』だと言いました。人心を解したところで、人と交われはしないと」


 陶月は人と交わることを殆どしなかった月英を『化け物』と呼び、人の表情を読み解く術に長けた芙蓉のことを『人心を解する化け物』と呼んだ。


 お前たち親子は普通には生きられない、檻の中にいるのがお似合いだとそう言った。


「お前を飼っていたのは貴族か?」


 貴族が平民の子を養子にして国試を受けさせるのは珍しいことではない。

 鈴扇も芙蓉がどこかの貴族の養子なのだろうと予想はしていたのだろう。そこまで驚きはしなかった。

 まあ、芙蓉の場合は少し事情が違うのだが。


「はい、しばしの(いとま)を頂いているのです。私がその暇を延長できる条件が一年以内に四士以上の官位を得ることだったのです」


「私と嬰翔はまんまと利用されてしまったわけだな」


 芙蓉は反射的に鈴扇の袖を握っていた。

 その瞳には、薄く涙が浮かんでいる。


「鈴扇様、あなたに化け物を飼いならす覚悟はおありですか?」


 父の命を売って生き永らえた化け物を受け入れる人間などいないと、芙蓉は自分に言い聞かせ続けた。希望を持っても、空しいだけだと。

 俯いていると、ふいに花の香りが芙蓉を包み込んだ。

 鈴扇に抱きしめられているのだと気付くのに少し時間がかかった。


「兄上の子供も、今のお前のような顔をしてよく泣きついてくるんだ」

「……私は子供ではありません」


 女だとばれたかと一瞬焦ったが、子供だと思われていたらしい。それはそれで屈辱だ。

 とんとんとその背を優しく叩かれると、昔父にそうされたのを思い出して懐かしくなった。

 子供をあやしているようなのに、鈴扇はいつもと変わらぬ淡々とした声で言う。


「子供ではないな。しかし、お前は人間だ。化け物が、自分が育った村が滅んだと聞いてあんなに取り乱すだろうか、化け物が誰も死なない優しい作戦を立てることができただろうか。

 自信と誇りを持って言うがいい、お前は立派な人間であると」


「うぅ……うっ……」


 芙蓉はそれでも涙を流して泣こうとはしなかった。

 嗚咽を上げ、唇を噛んでも必死に耐えた。

 泣いたらこの幸せが逃げてしまうようで怖かった。


 人間だと、父と別れて芙蓉をそう言ったのは鈴扇が初めてだったのだ。


 (おおとり)の雛、眠る龍。

 そう言われてもどこか遠くに自分を置かれたようで嬉しくもなんともなかったのだ。

 ああこんなにも自分は人間らしいのかと、湧き出してきた感情に芙蓉は戸惑いながら歓喜していた。

 

 しばらくそうやってあやされていたが、急にこの男はとんでもない美形で、八つ上の上司であることを思い出し、恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔を上げて胸を押し返した。


「なんだ、もう少しあやしてやっても良かったが」

「も、もう大丈夫でございます!」


 そうか、と少し寂しそうに彼は言う。


「鈴扇様。私は近くのことばかりにかまけて、まだ、夢というものを持っていません」

「言っていたな、王宮に咲く花を探しに来たと」

「私はここに来て自分の夢を見つけたいとそう強く思うようになりました。鈴扇様の夢に寄り添うことで、自分の夢を見極めてもよろしいでしょうか」

「お前の将来をほとんど私に費やすことになるかもしれないぞ。そんなにあっさり決めてもいいのか?」


 芙蓉に残された時間がどれほどか、今はまだわからない。きっとあの檻に連れ戻されるまで、十年はかからないだろうと踏んでいる。

 それでも彼の夢は残り少ない芙蓉の時間を費やす価値があるものだと判断した。

 何より、心から芙蓉を人間として欲してくれた彼に応えたいと思った。


「はい。あなたの手を、取ろうと思います」


 そう言うと僅かに顔を綻ばせた鈴扇が「そうか」とだけ言った。



 莢 芙蓉、十七歳。菫 鈴扇、二十五歳。

 二人はまだこの誓いが後の花興に大きな改革を起こすことを知らなかった。



 ※



「嬰翔様!」


 鈴扇とともに山を下ると、嬰翔と武官たちが捕らえた家畜たちを従えて二人を出迎えた。


「芙蓉殿、鈴扇!よく無事で帰られました。この通り、汎國尉殿と武官たちが見事に家畜をとらえてくれましたよ」

「ありがとうございます、汎國尉」


 武人にしては優しい笑みを浮かべた彼は芙蓉の頭を撫でると豪快に笑って言う。


「いやはや、面白い光景でありました。茜國に戻ったようで面白かったですよ」


 今でも遊牧民の名残が抜けないという茜國の人間は家畜の扱いに慣れていると聞いていたので彼に頼んだのだが、その働きは予想以上であった。

 斉玄たちは逃げたようだが相手は國府ではなく朝廷の戸部だ。追及は逃れられないだろう。

 欲を言えば捕らえたかったが、村人の救助と天秤にかけた時にここが一番良い落としどころだ。

 夜が明けると、一行は村人の救出へと向かった。

 長い夜は終わったと一つ一つの家に声をかけていくと、不安そうな住民たちの中に祥凛と彼女の母である舜凛の姿があった。


「祥凛、もう大丈夫です」


 芙蓉の顔を見るなり飛び出した祥凛はその身体に抱き着いて涙をこぼした。


「芙蓉、芙蓉!」


 その背を叩きながら芙蓉は謝罪する。


「ごめんなさい、祥凛。もっと時間があればいい方法があったかもしれません」

「いいえ、やっぱりあなたは賢いわね」

「あなたにあの時すべてを話す時間があればこんなに不安にさせることはなかったんです」

「いいのよ、いいの、芙蓉」


 そう嗚咽交じりに言う彼女の肩を芙蓉は静かに抱いた。

 嬰翔や鈴扇たちも芙蓉と祥凛に気を使ってくれたようで、


「僕たちは他の方の聴取を行っていますので少し話していていいですよ」


 と二人きりにしてくれた。

 おかげで芙蓉は祥凛に自分が今は官吏であることや男のふりをしていることを伝えることができた。

 そして彼女たちを完全な無罪にはできないことも。

 彼女は知ってたわと言って、刑を軽くしようとしていると言った芙蓉に礼を述べた。


「それにしても、すごいわ。あなた、国試に受かるなんて」

「ありがとうございます、なんだか素直に褒められたのが初めてで新鮮です」


 今まで弓術がひどいだの殿試に受かったのは奇跡だの言われ続けてきたせいか、祥凛の言葉は素直に嬉しかった。芙蓉だって、普通の受験生とは方向性は違えど努力して会試に臨んだのだ。


「そうだ、月英先生は元気?」


「……!」


 祥凛がそう言った丁度そのとき後ろに気配を感じて、思わず芙蓉は振り返って確認する。

 よりによって一番聞かれてはならない情報を誰かに聞かれたかもしれない。


「どうしたの、私何かまずいことを言った?」

「い、いえ、父上は元気ですよ。私の勉強を見てくださったんですよ」

「そう、今度は先生も連れてきてね」


 村の子供たちは父を慕っていた。彼が死んだと知ったらきっと皆が悲しがるだろう。


「……はい」


 できるだけ自分の表情を気取られないように芙蓉は微笑んだ。


 その後ろで嬰翔が声をかけようとして、家の影に隠れたことに芙蓉は気が付いていなかった。





「芙蓉殿」


 また後日処遇について伝えに来ると言い残し、祥凛に別れを告げた時のことである。

 一番最後に村を出た芙蓉が一行から少し離れて山道を歩いていると、いつの間にか嬰翔が隣で芙蓉に歩みを合わせていた。


「はい」


 呼びかけられて返事をすると、嬰翔はいつになく深刻な顔をしている。


「先ほどの少女が言っていた月英先生、とは葵 月英のことですね」


「……!」

 聞こえていたのか、と頭が真っ白になった。


「失礼ながら調べさせていただきました。あなたが持たれている家紋について」


 芙蓉には心当たりがあった。

 芙蓉が仮眠室で眠ってしまった時、やはり鈴扇は午時葵の花紋を見ていたのだ。


「やはり鈴扇様は私の花紋を見ていたんですね」


 ええ、と嬰翔は戸惑うように芙蓉の顔を覗き込んだ。


「私たちも半信半疑でしたが、()()()()() ()()()()()()()()。芙蓉殿」


 一瞬躊躇してから「はい」と言うと、それきり芙蓉は黙り込んだ。

 その姿は彼女には珍しく何かに怯えているように見えた。



 ※



 戸曹への報告と申告漏れの洗い出しが一通り済んだ夜、芙蓉はひとり國令の執務室へ呼び出されていた。

 芙蓉が部屋に入った途端、鈴扇がその顔を見て深い溜息をついた。

 流石の芙蓉も傷つきそうになるが、嬰翔が先に怒ってくれる。


「鈴扇、露骨に面倒そうな顔をするもんじゃありません」

「葵家に繋がるとは思っていたが、まさか月英の子供だとは。お前、すごい拾い物をしたな、嬰翔」

「ええ、どうりで賢いわけですよ」

「あの、父上ってそんなにすごい人なんですか?」


 彼らを見ていると、芙蓉は本当に自分の父親について何も知らないのだと思い知らされる。

 二人も芙蓉が何も知らないことに驚いているようで、顔を見合わせている。


「前も話した通り僕たち官吏にとっては伝説級の人物です。彼が登用されたときの話など眉唾物ですよ。たった十五歳で蝗害を予想してその対策を打ち立てたのです。しかも彼自身は全く動かず、ずっとその様子を花額山の上から見ていたと」


 父は十から十五までの間、花額山で草花や虫について観察をしていたと言っていたがそのことだろうか。確かに飛蝗についての知識は芙蓉も一通り、父から聞いている。


「飛蝗の話なら私も聞いたことがありますが」


 そう言う芙蓉に嬰翔は諭すように言う。


「あなたが知識は頭に入っているというのはこのことだったのですね。あなたはこの国で最も良い()()()に掛けられた知識のみをその頭に詰め込んでいるのですね、芙蓉殿」


 あっ、と思わず口に出ていた。その通りだ。

 芙蓉は書庫にいたころ片端から本を読んだが、良書を見つけるのは難しく学習法に悩んだことがある。父といたころのように知識を吸収できないのは歳のせいかと思っていたが、知らぬ間に自分で知識の良し悪しを割り振っていたからだと今更ながらに気付いた。

 自分は親の選んだ最高級の餌だけを貰って育った雛だったのだ。

 二人の顔を見て逃げられないと観念した芙蓉は、とつとつと自らの半生を語りだした。


「父は自分や母について何も語らずに死にました。私が生まれる前から、既に葵家を追放されていたので葵家についても長い間知らなかったのです。けれど、私が十を過ぎたころ急に葵家の刺客に追われる日々が始まったのです」


「それまで自分の出自を知らなかったのか?」


「父上は、自分は六大家の生まれであるてその時初めて教えてくれました。今頃になって刺客を送ってきたのは子供のことが恐ろしくなったのだろうとも」


 天下の月英の子供だ。いいか悪いか芙蓉は葵本家の予想通り頭の回転が速く、非常に賢い子供に育ってしまった。


「父は生きる書物でした。朝廷の書物は全て暗記していて、夜毎私に聞かせてくれました。私は父と違って一回では覚えられないので何度も聞いて次第に暗唱できるようになりました」


「恐ろしい英才教育ですね、芙蓉殿でないと耐えられないかと」


嬰翔は恐ろしいものを見るような顔をするが芙蓉には全て良い思い出なのだ。


「ある日父は私を逃がすために、葵家の刺客にその身を委ねました。私の元にはこの木簡と一人分の通行手形が唯一残っていました。私は手遅れだとわかっていて、葵家に赴いたのです」


「葵家の当主と言えばあの冷酷な陶月殿だろう。よくすぐに切り捨てられなかったな」


「すぐに切り殺されそうになりましたよ」


「どうして手形を持ってそのまま逃げなかったのです。薊國は他国への交通の便も整っていたはずでしょうに」


 薊國出身の嬰翔が言うのだからその通りなのだろう。

 それを聞いても、芙蓉の答えは未だに変わらない。


「父親を殺された子供をみすみす逃がすほど叔父上は馬鹿ではありません。私は父の死を無駄にしたくはなかったのです」


その言葉に鈴扇も嬰翔も押し黙る。


「私は叔父上に外部から葵家を壊す子供をその場で殺してしまうか、葵家の内部に飼って生かすかと問いました。叔父上も父上の才能は惜しかったのでしょう。条件をもらって、私は生きながらえることに成功しました」


「条件?」


「葵の名を捨てることと婚姻関係を結ばないことです。そうやって私に与えられたのが莢、中に実を成さないさやという名前でした」


 聞き終わった鈴扇と嬰翔は未だに信じられないような顔をしている。


「お前を飼っていたというのは葵家か」

「そういうことになりますね。前も話した通り、今回の件で副官になれなければ強制的に地下牢に戻されます」

「これだけの事を収めたのですからおそらく受理されるとは思いますが、これは報告書も念を入れて書かねばなりませんね」


 ありがとうございます、芙蓉は深く礼をした。二人がいなければ、おそらく芙蓉は一年を待たずして葵家に連れ戻されていた。


 二人には父を誤解して欲しくなくて、芙蓉は再び口を開く。

 父は芙蓉の前で、紛れもなく父の顔をした優しい男だった。決して叔父の言う化け物などではなかった。


「嬰翔様から聞く父の話は全て私の知る父とは違いました。父は官吏に向いている人間ではありません。生まれながらの学者気質で権力にも名誉にもまるで興味を持たない人でした。ただ、自分が大河に落とした数滴の絵の具が下流で交わるさまを静かに見ているような、そんな人だったのです」


「芙蓉殿から聞く話も僕たちが聞いた話とはずいぶん違いますよ。その数滴の絵の具がどれだけこの国を変えたか、あなたはこれからまざまざと見せつけられるでしょう」


「はい、受け止めるつもりです」


「芙蓉、お前は私の夢に寄り添うと言ってくれた。それはもしかしたらお前が父を超えなければたどり着けない境地かもしれない。それでも共に夢を見てくれるか」


 鈴扇こそいいのだろうか、葵家というこの国でも最高権力を持つ家を敵に回すかもしれないのに、と思ったが彼の瞳はすでに決意したようだった。

 ならば、芙蓉も決断しなければならない。

 いや、すでに答えは出ているのだ。


「父は私に想像力はどんな獣より早く、この国を走り抜けることができるのだと、そう言ったことがあります」


『僕は早くに家を出され、花額山(かがくさん)に隔離された。僕はそこからゆっくりとこの国とそれを取り巻く自然が変化するのを観察していたんだ。そしてずっと夢想していたよ、僕がここに一石を投じたら何が変わるだろうと』


 地下牢の中で、芙蓉は父の言葉にならい(まぶた)の裏に夢を描いた。それが現実になる日など、来るわけがないと諦めていた。


「地下牢の中で私はその言葉に従って、いつも目を閉じてこの国の未来を夢想していました。しかし私はもう、目を瞑って夢を見なくてもいいのですね。

 どんなにか、それは幸せなことでしょうか」


 二人を見つめる芙蓉の瞳には強い意志が宿っていた。





 その後鈴扇への聴取の報告が終わり、執務室を出た時にまたもや嬰翔が芙蓉に声をかけた。


「芙蓉殿、ちょっと」

「なんですか?ちゃんと手の内はさらしましたよ」


 芙蓉が身構えて歩みを早めると、それに合わせて歩きながら嬰翔はとんでもないことを口にした。


「あなた、女人でしょう?」


「ひっ…」


 思わず、声に出すと逆に口を押えられて静かにと言われてしまう。


「嘘がつけない方ですね。鈴扇には黙っておきますから安心してくださいよ」

「な、なんで分かったんです?私一度もそのような素振りは」


 自慢ではないが芙蓉は貧相な体つきだし、この国で髪が長いのは男女共通である。しかも声は女性にしては低いため、怪しまれたことは殆どなかったのだ。


「僕も若い頃の鈴扇で見慣れすぎて麻痺していましたが、確信したのは村を視察した時あなたを後ろから抱き込んで止めた時ですね。男にしては柔らかすぎる」


 その発言に思わず芙蓉は両肩を抱く。


「……実は結構遊んでます?嬰翔様」


 その仕草に嬰翔はムッとしたような顔をする。


「人聞きの悪い。僕は姉妹が多いんですよ。その点鈴扇は、女性関係疎いので全然気づいてないですから安心してください。もっとも、あなたのことは気に入っていますし、なんとなく気になってはいるみたいですけど」

「確かに鈴扇様に胸を貸していただいた時も全然気が付いてなかったですね」


 芙蓉の口から聞いた言葉に今度は嬰翔が目を見開いた。


「胸を借りた!?鈴扇、本当にあなたのことを気に入ってるんですね……いやぁ、でもあの人鈍感だからなあ」

「何の話ですか?」


 こっちもこっちで鈍感なのだろう。

 芙蓉も世離れした節があるからこの二人の恋を応援しようとしたら、きっと嬰翔は苦労することになる。


「それにしても、葵家の空莢姫(からさやひめ)とはあなたのことでしたか、芙蓉殿」


 空莢姫、久しぶりに呼ばれたその名に芙蓉はいかにも不服そうな顔をする。

 葵家では嫌と言うほど聞いた呼び名だが、改めて呼ばれるとひどく不快な気分になる。


「どうしてその名を?」

「有名な話です。葵家が政治に口を出し始めたのは葵家が空莢姫と呼ばれる女人を迎えたからだと。陶月殿の愛人だという話でしたが、まさか月英の娘だったとは驚きました」

「愛人!?」


 初めて聞く話だった。確かに月英は世間的には失踪したことになっているのでその娘だと考える人間はいないだろうが愛人と思われていたとは心外だ。


「なんでも寵愛してるから外に出したがらないとかいう話でしたね。それにしても、最近の葵國政策の原案はほとんどあなたによるものでしょう。あなたのせいで葵國の國令は相当に苦労したでしょうね」


 それこそ彼が芙蓉を送り出した張本人なのだが、芙蓉を煩わしく思ったのだろうか。


「実は私の後見になっていただいたのは葵國の國令なのです。こんなところは早く出なさいと、初めて私に言ってくださったのもその方です」


『古くから眠れる龍、鳳凰の雛という例えがあるが君はまるで翼を窮屈に折りたたまれた鳳凰だ。その翼が折れないうちにこの牢を出ないといずれ空を飛べなくなるぞ』


 芙蓉の顔を見るなり驟雨が言ったその言葉を芙蓉は忘れることができない。

 悪態をつきながらも、芙蓉の馬術や弓術の面倒を見てくれたのは全て彼なのだ。芙蓉はなんやかんやで彼に感謝している。


「会ってみたいものです。あなたを檻から出した張本人に。そのおかげで僕たちはあなたに出会うことができたのですから」

「ええ、きっと会えますよ。……嬰翔様がばらさなければの話ですがね」

「安心してください。僕はね、別に女性に偏見はありません。百人以上いた僕たち当主候補の中で選ばれた現在の当主は女性なのです」

「薺家の当主が!?」


 六大家に次ぐ貴族の当主が女性、芙蓉には信じられないことであった。


「はい……と言っても並の男ではかなわない豪快な方ですがね。僕は彼女を心から尊敬してるんですよ。彼女のために官吏になってしまうくらいにはね」

「女性が、当主になることがあるんですか?」

「今までも何回かあったことだそうです。だから芙蓉殿、女性であることに負い目を持ってはいけませんよ。僕があなたを見る目は変わらないということをどうか知っていてくださいね」


 嬰翔の瞳は真摯に芙蓉を見つめている。彼もまた芙蓉の能力を買ってくれているのだ。

 弱みを握られるかと思ったら、思わぬところで協力者を得たようだった。


「ありがとうございます」

「ということで、何か困ったことがあれば僕がお助けしますよ。あなたは僕たちの大事な鳳凰の雛ですから」


 その胡散臭い笑顔に、何故か逆に不安になる芙蓉であった。



 ※



 二月、脱税騒ぎが収まり、芙蓉が新しく他の部署の改革に勤しみ始めたころのことである。

 鈴扇は珪をその執務室に呼び出していた。


「鈴扇様、どうされたのですか?」

「良くお越しいただきました、珪殿。戸曹は滞りなく回っておられますか」


 そう聞く嬰翔に彼は不思議そうな顔をしながらも彼は報告する。


「はい、掾史代理に立てていただいたおかげで芙蓉様も各曹を回って少しずつ制度を見直していらっしゃいます。私塾の方では来月に小吏の試験を受けるという方もいらっしゃいますのできっと、三月になればもっと仕事も回りやすくなるでしょう」


「代理の件だがな、代理ではなくお前を戸曹の長に据えようと考えている」


 強気な鈴扇の言葉に対し、珪は及び腰になっている。

 今までも小吏を特例に取り立てるという例はあったが、その多くが自分の経歴に負い目を感じ辞退していた。


「光栄な話ですが、私は地方官吏の試験にしか通っておりません。他の方を派遣していただいたほうが宜しいかと存じます」

「珪殿、芙蓉殿が提案した算官の推薦制度の件が中央に認められたんです」

 珪は芙蓉を孫のように可愛がっているだけあり、それを聞いて嬉しそうな顔をした。

「それはよろしいことですな」


「私はお前に最初の推薦書を出そうと考えている」


 鈴扇の言葉に珪は腰が抜けるほど驚いたのかよろけて近くの机に手をついた。


「わ、私が!?こんな老いぼれよりももっとふさわしい人物がいるでしょう。お考え直しください」

「何度考え直しても変わらない。お前の働きぶりも指導も、芙蓉から推薦するにふさわしいと聞いている。そしてここにいる嬰翔も私も同じように考えている」

「もったいのうございます」

「私は今、歳や身分に関係なく有能な部下を増やしていこうと考えているのだ。お前にはその旗印になってほしい。心配するな、お前なら立派に勤め上げられるだろう」


 鈴扇の強い意志を秘めた紫の瞳と態度に圧倒されたのだろう。

 ついに、珪は観念したように拱手して首を垂れた。


「鈴扇様、私はあなたがいらしてからこんなにも蘭國府が変わるとは思っていなかったのです。芙蓉様は私たちを導く鳳なのでございます。その芙蓉様が推薦してくださると言うのなら、こんなおいぼれで宜しければ謹んでお受けいたします」

「ああ。頼んだぞ」


 その相変わらずの鉄面皮に僅かに安心したような笑みが浮かんでいると気付けるのは長年の付き合いがある嬰翔だけであった。




「ちょっと、格好つけすぎじゃないですか?もう、菫家の力は使わないから引き抜いてくることはできませんってちゃんと言えばいいのに」

「……私があいつの実力を買っていたのは事実だぞ」

「ええ、知っていますよ。意地悪を言いましたね」


 國制の廃止、という鈴扇の悲願に向けて芙蓉は一つ彼に提案したことがあった。


『鈴扇様、貴方が國という制度を変えたいのでしたら菫家の威光を借りて官吏を引き抜くことをおやめください。六大家の台頭をやめようと言っているのに、あなたがそれを利用していては本末転倒でしょう』


 それはまことに道理にかなった指摘であり、そう言われた鈴扇は従うよりほかはなかったのだ。

 まんまとやり込められた鈴扇を見て嬰翔はほくそ笑んだ。良い兆候である。


「鈴扇、僕はあなたに着いてきてよかったと最近では切に感じますよ」


 彼女は変えたのだ。この、鉄面皮で人の話など一つも聞かない男を。


 蘭國にも新しい春が近づいていた。



 ※



「芙蓉様、文が参っております」


 丁度その頃、芙蓉に二つの知らせが届いていた。

 一つは副官となることを認めるという吏部尚書の判が押された辞令。

 もう一つは芙蓉の後見人である候驟雨からである。

 国試において芙蓉の後見となった驟雨は時折思い出したように芙蓉に文を寄越す。

 書庫に押し込められた芙蓉に『良いザマだ』と短文の文が届いたときはすぐに破り捨てて燃やしたものだ。

 今回はおそらく、葵家が芙蓉に下す処遇について記された手紙だ。

 おそるおそる開いてみると、中身は単純明快なものだ。

 彼の美しい文字で

『万事休す、精進せよ』

 とだけ書かれていた。

「驟雨様らしい」

 なんだか気が抜けて芙蓉は思わず笑ってしまった。

 芙蓉の腰かけた階段の石に落ちた雪は積もらずにゆっくりと溶けていく。

 まだ遠いことのように感じるが、春はすぐにやってくる。

 春が来ると芙蓉は官位を得るために朝廷に一度戻ることになるだろう。

 芙蓉は父との約束を果たすためにも、この官職を手放すわけにはいかなかった。


「私が芙蓉の花を探したのって外朝だけなんですよね。内朝に入る手も考えてみますか」


 芙蓉が朝廷に入った時、彼女の夢はたった一つ「芙蓉の花を探す」だけであった。

 それが今は二人と同じ夢を持つことができている。


 こうして鳳凰の雛は遥かなる空に向けて旅立つ日を迎えたのである。



 ※



「二つの村の脱税をたった十数人の兵で収めた灰色の瞳の少年、か」



 報告書を読んだ男は寝所の窓に杯を傾けると外の雪が地面に落ちて溶けるのを見た。

 蘭家はどうやら足手まといになる分家筋を切ったらしい。

 戸部を通して男の耳に入ったのは蘭國の貴族という情報だけだった。

 しかし、常に張り巡らせた各國の密偵より情報は入っている。いざという時の切り札として取っておくかと、その不祥事を懐に仕舞うことにしたのだ。


 男の名は桜 慶朝(おう けいちょう)、金の髪に金の瞳を持つ彼はこの国の皇帝である。

 間も無く春がやってくる、月英をこの王宮に迎えた春が。

 そしてその娘もまた、慶朝に会いに王宮の門をくぐる。

 そう思うと年甲斐もなく胸が高鳴った。


「懐かしいな、月英。其方(そなた)がたった一人で(しょう)を転がして見せたのは十五の時だったな」


 葵國の仙人と呼ばれていた月英を花額山から降ろした折、家臣の殆どが国試も受けていない年端もいかない少年に官位を授けることを快く思わなかった。

 月英と同じく年端も行かぬ王であった慶朝の世迷言だと誰もが彼を糾弾した。

 困った慶朝が皆を納得させるためになんでもいいから手柄を立てろと言うと、月英は慶朝の与えた官舎の一室から一歩も動かずに花興の横に位置する(しょう)という国の花興への侵攻を止めて見せた。

 慶朝は国がたった十五の少年の手のひらの上で踊らされたのを見た。

 これならだれであっても納得するだろうと思っていたのに今度は、慶朝は朝廷に化け物を迎えるつもりだと噂が立った。


『陛下、なりません。この少年は化け物ですぞ』


 そう、慶朝を戒める家臣に月英は反論するどころか同調して自分の登用をやめるように勧めた。


『慶朝、今ならまだ僕は山の中の仙人に戻れる。君は化け物を地に引き摺り出した皇帝にならなくてすむ』


『余の後ろ盾を失った其方(そなた)はどうなる』


 そう問うと何でもないことのように彼は言ったのだ。


『死ぬだろう、それが僕の運命だ』


 まるで何年も生きた太古の生物のように揺らぎを知らない瞳で、それが天命だと言った彼を慶朝が登用したのは結局どうしてか今でも分からない。

 一つ言えるのは、それは哀れみではなく希望であった。

 こんなに何でもできるのに諦めきった瞳をした少年とともに未来を夢見たいと思ったのだ。

 そんな風に運命に逆らうことを知らなかった男が唯一運命を覆しても育て上げた娘、それが芙蓉だ。

 進士式で一度見た彼女は父親にそっくりの顔で、()()()()()()()の相貌で慶朝を見ていた。

 今はまだ他の少年たちと大差ないが、きっと美人になる。誰もが彼女から目が離せなくなるだろう。

 そういう星のもとに生まれた少女だ。


「芙蓉とは実に分かりやすい。朴念仁の其方にしては良い名を付けた。月英、其方の芙蓉は未だ余のもとで咲き誇っておるぞ」


『慶朝、必ず僕は戻ってくるよ。僕たちの国のために』


 最後に会った十七年前、まだ生まれたばかりの娘を抱えて王宮を出た月英を慶朝は昨日のことのように思い出すことができる。

『余を、花興を導く鴻鵠(こうこく)になってくれ』と、そう言ったその日から月英は慶朝の最愛の友であり、最愛の臣下であり続けた。

 その最愛の友が残した、この国の切り札になるだろう鴻鵠(こうこく)(ひな)



「もし天が余にこの国を救う命を下すなら、其方と余は巡り合う運命にあるだろう。今はその時を待とう、我が鴻鵠(こうこく)(むすめ)よ」


一か月お付き合いいただきありがとうございました。祥凛→芙蓉の呼び方を流石にばれるかなと思ったので「ちゃん」よびから呼び捨てに変えています。悪しからずです。

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