3.死者の村
「ふむ、これだけ正確にこの桁の計算をできるとは。算官に目指してみるのもいいかもしれませんね」
芙蓉の提案した制度の意義が認められ、試験的な運用が決まった。
とは言っても一から制度を考えるのは難しいということで、既に朝廷にある制度を参考にしてはどうだろうかと、嬰翔は助言した。
それが算官制度である。
「算官というのは何です?」
聞きなれない言葉に青年が尋ねると、嬰翔は面食らったような顔をする。
本当に貴族と平民の認識には齟齬があるのだ。
「そうか、そう言ったこともなかなか知られていないのですね。二十年ほど前に始まった制度で、算術に長けている人間を登用する制度です。官吏より俸禄は下がりますが試験範囲も限られますので、官吏の受ける国試より内容は平易です」
「じゃあ、この分厚い本暗記してなくてもいい給料もらえるってことですか?」
「はい、逆に言うと文官は算術をそこまで勉強する必要はありません」
芙蓉も入朝するまで知らなかった制度だが、朝廷には官吏のほかに「算官」と「文官」という職があり、三士以上の官位には上がれないが専門分野に長けた人間を登用している。
そして、算官もしくは文官で入朝しても後からもう一方の試験に受かれば官吏の資格を得ることもできる。
「良い制度ですよね、算官で入朝して文官の資格も後から取れば官吏として登用されますし」
「ええ、確か名官吏として名高い葵 月英が考案した制度ですが、芙蓉殿?どうしました?」
「い、いえ。お気になさらず」
こんなところで父の名前を聞こうとは思わなかった芙蓉は思わず咳き込む。学問以外に興味のない父のことだから、無名の官吏だろうと思っていたのに意外にも名が知れた官吏だったようだ。
「その、葵 月英とはどんな人物だったのですか?」
好奇心で芙蓉が聞くと嬰翔はまた驚いた顔をする。彼の反応を見るに父は相当有名人のようだ。
「ご存じないのですか?芙蓉殿は博識なのに貴族社会や朝廷のことについて疎いというか。僕たちは太学の教師から口酸っぱく彼のようにはならないようにと言われたものです」
「彼のようにはならないように……?」
ええ、と嬰翔が苦笑する。
「月英は十五で現在の皇帝陛下、慶朝様に取り立てられますが二十にして朝廷を出奔しています。天才の彼に朝廷暮らしは合わなかったのだと言われていますが、慶朝様も多くは語らないそうです。その官吏人生はまさに太く短く。たった五年であり得ないほどの功績をあげていますが、その分反感も多かったようで」
父が二十の年、今から十七年前、それは芙蓉が生まれた年だ。
つまり芙蓉が生まれた年に父が宮廷を出なければならない何かが起こったのだ。そしておそらく父について口をつぐんでいる皇帝はその何かを知っている。
宮廷仕えの女官にでも手を出したのだろうか、いや父に限ってそんなことがあるのかとさまざまな疑問が頭を駆け巡った。
「そんなに若いのに官位の高い方だったのですか?」
気になりだしたら止まらなくなってしまうのが自分の悪いところだ、と分かってはいるのだが質問を重ねてしまう。何せ、父の口からもほとんど聞くことのなかった父の官吏時代の話だ。
「これが面白いところで、官位はそこまで高くありません。朝廷に連れ帰ったはいいものの月英の才を持て余した慶朝様は彼のために新しい官職を作ったんですよ」
「官職を作った!?」
途方もない話だ。
父が登用されたのは十五、つまりたった一人の少年のために時の皇帝は官位を作って与えた。彼をその傍に引き留めるために。そんなことが本当にあるのだろうか。
驚く芙蓉に嬰翔は続ける。
「だって考えてもみてください。いきなり天才が現れてもやっかむ人間はいるわ、たいていの人間は話についていけないわで組織の一員としては言ってしまえば邪魔でしょう」
「まあ、そう…その通りです」
芙蓉は初めて配属された部署で同年に配属された進士が次々に嘆願書を提出した自分の経験を振り返った。
つまり自分は父と同じ轍を踏んだのだ。
「彼が得た官職の名は『博士』、官位は三士で國令と同じですが直接皇帝に上奏する権利を持つ皇帝の相談役です。今までにこの官職を持ったものは葵 月英ただ一人なのです」
「すっ、すごい話ですね」
皇帝の相談役、そんな話を芙蓉は父から一度も聞いたことがなかった。国家権力の中枢ではないか。
父は皇帝に直接取り立てられ、学者肌の彼に居心地が悪いだろう朝廷に新しい席を作らせた。彼だけが据わることができた特別な椅子を。
「賛否両論ありますが彼はまさしく天賦の才を持った人間です。それを御した慶朝様も王器がおありなのだと思います」
「慶朝様はどんな方なのですか?」
慶朝には官位を授けられたとき一度だけ謁見を許されたが、彼が口を開いたのは芙蓉たちが進士となることを認めると、たったそれだけだ。
一度だけ見た彼はさすがは王族、金の髪に金の瞳の偉丈夫で御年は月英が生きていれば同じく三十七だが、とても四十を手前にした男性とは見えなかった。
しかしそれ以外芙蓉は彼について何の情報も持っていない。
「噂では市井にもお忍びでよく出られていて、僕たち官吏にもお声をかけてくださる方なのだとか。あなたが副官として正式に着任されれば着任式で会うこともあるでしょう。さ、そのために今は仕事ですよ」
「あっ、はい!算官になるために必要な知識や書物についても検討します」
嬰翔に言われて芙蓉は我に返る。
彼は良い上司だ。芙蓉の扱い方が分かっている。
「中央への推薦制度を作るのもいいですね。国家を支えるのは財政と土木を支える算官ともいいますし、優秀な人材を発掘する必要があります」
「いいですね、それも考えてみましょう」
芙蓉が意気揚々とそう答えた時だった。
「芙蓉様、少しお時間よろしいですか?ちょっとおかしなことになってまして。今の戸部の長は芙蓉様でよろしいんですよね?」
「はい、そうですが」
戸部の官吏の一人である廉という男が深刻な顔で部屋に入ってきた。芙蓉と嬰翔はその様子に首をかしげる。
「芙蓉様が試験的に運用してらっしゃる私塾に入塾したいという人間の件です。肖という男なんですが、戸籍を調べると三年前に死亡したことになっているのです」
「どこの村の方ですか?」
「瀝青村です」
ああ、と芙蓉の後ろで算盤を弾いていた青年の一人が声を上げた。
「瀝青村の人間だったらしょうがねえよ、あの村は三年前に疫病で滅んだんだ」
「滅んだ……?どういうことですか?」
芙蓉が振り返って尋ねると隣で嬰翔がああ、と合点がいったような顔をする。
しかしその表情は深刻なものだ。
「あの村の出身の方でしたら仕方のないことかもしれませんね」
「嬰翔様もご存じなのですか」
「お医者様も原因の分からない疫病で隔離するしかなかったんだよ。あの村にはだれも立ち入れなくなって今ももぬけの殻さ。縁起が悪いから立ち入るなって言われてるんだ。確か緑青って村もいっしょに滅んだんだったかな」
緑青、その名が青年の口から出た途端芙蓉の顔が曇りはじめる。
それは幼少期、芙蓉が父と暮らした村の名前だ。葵家に追われたことで挨拶も出来ないまま別れた友人やその家族が今もそこに暮らしているはずだ。
「緑青村が……!?嘘です、そんな……そんなはず……父上が飲み水は沸かすよう教えていたし、鼠も駆除方法を教えていたはず……」
月英は疫病や害獣にも明るかったため、村の人々に濁った水は虫を殺すために沸かして飲むように、倉庫には鼠が寄り付かないように鼠返しを付けるようにと教えていた。そうそう疫病が起こる状況ではなかったはずだ。
「芙蓉殿、どうされたのですか」
あきらかに様子のおかしい芙蓉に嬰翔が問いかける。
「……緑青村は私が以前住んでいた村です」
「それは…お気の毒でした。あの村は僕と鈴扇が赴任する前には既に疫病が広がるからと近づけませんでしたし、僕もお力添えはしたかったのですが」
「鈴扇様と嬰翔様が赴任される前ということは蘭家が政治に多く携わっていた時ということですか?なんて惨いことを……民を見捨てるなんて國主のすることじゃない……!」
嬰翔は鈴扇が腐った國府から膿を出したと言っていたが、これはその膿の一部なのだろう。
碌な支援もせず、村人を放置するなど信じられない愚行だ。
「幸いその二つの村だけで被害はとどまったときいていますが、今でもあの付近は立ち入り禁止になっています。…まさか行きたいなんて言い出しませんよね」
「私を何だと思っているんですか、もし土や水に疫病の原因があった場合は今でも罹患する可能性は十分にあります」
口ではそう言うが芙蓉は自分の目で見たことしか信じない、そのことを嬰翔は知っている。そして、その目が他の人間には見えない真実を見つめていることも。
きっと行きたいと言い出すだろうと嫌な予感がした。
「芙蓉殿は疫病にも知識がおありで?」
「はい、父に教えられた範囲だけですが。あの、嬰翔様、当時の調査書は残っていますか。……やはり納得がいきません」
「それでしたら府庫に所蔵されていますよ」
「分かりました」
意外にすんなりと芙蓉が引き下がるので嬰翔の方が質問を返した。
「おや、行かなくてよろしいので?」
「自分の仕事を見失う訳にはいきません。調査書を見るだけならそこまで時間もかかりませんし、こちらの仕事を終わらせてから行きます。戸籍の再発行は戸部を通さねばなりませんよね」
芙蓉と嬰翔のやりとりを聞き、申し訳なさそうにしていた廉は芙蓉に頭を下げる。
「はい、そうですが。申し訳ありません、お忙しい時に。ここに彼をお呼びしてもよろしいですか?」
はい、と芙蓉はぎこちない笑顔で返事をした。
「戸曹の仕事でしたら塾生の皆さんも要領を得て来たようですし、少しなら席を開けても大丈夫です。それに本人から聞いたほうが話は早そうですし」
「かしこまりました」
廉が部屋を出ていくのを見守って、嬰翔は新しい雇用制度について記した書簡を整理する芙蓉に声をかけた。
「ふむ、芙蓉殿。そちらの書簡、反対に向けても読むことはできませんよ」
「……」
見るとそう言われて固まった芙蓉は書簡を上下反対に向けて目を通そうとしていた。
明らかに仕事に身が入っていない。
気まずそうな顔をしてすぐに持ち直す芙蓉の手から書簡を取ると、嬰翔は溜息をついた。
「気もそぞろな状態で仕事に支障が出ても困ります。一日で必ず戻ってくること、その間だけ調査を許します。彼の話は僕がひとまず聞いておきますよ」
滅びた村の戸籍を失った青年。嬰翔にもこの件には少し引っかかるところがある。芙蓉の目がその引っかかりを辿ってくれるなら願ったりかなったりだ。
「申し訳ありません、嬰翔様…」
「今回だけですからね」
申し訳なさそうに頭を下げる芙蓉に嬰翔は早く行きなさいと手を振った。
※
「戸籍もないのに税は納めていたのですか?」
芙蓉が府庫に籠って、一日が経った朝。
嬰翔と珪は、肖という男を手続きの書類を書かせるために副官の執務室に呼び出していた。
「は…はい…」
返事をしてしまった後で、まずいことを言ってしまったというような顔をする肖に珪も嬰翔も顔を見合わせて首を捻った。
戸籍もなく、当然納税義務もない死者がなぜ税など治める必要があるのか。
「しかし死んだはずなら納税義務もないでしょうに、その税はどこに消えていたのでしょうか?現在は青磁村に住まれているんですよね……そこの村長が着服しているのでしょうか」
「それはなんとも…」
嬰翔が追及するように問うても、彼の答えは何とも要領を得ない。
「これは本当におかしなことになってきましたね」
と、珪も困惑している。彼に事情を聴いて、戸部に取り次ぐ予定がこれでは税着服の嫌疑をかけなければならない。しかもこの調子では、まずは犯人探しからしなければならないだろう。捕り物を上げるには武官に話を通さねばならないしどんどん話はおかしな方向に向かっている。
「嬰翔、ここか」
「鈴扇、すいません。ちょっと僕たちだけでは手に負えなくなってきまして、聴取に協力していただけますか」
「構わない。……ところで、芙蓉が見当たらないようだが。また余計なことをしているわけではないだろうな」
嬰翔同様、鈴扇も芙蓉の行動には振り回されているせいで敏感になっているのだろう。
「芙蓉様なら、昨日から書庫に籠られています。彼の出身の村は芙蓉様の昔住んでいた村らしく、調べずにはいられないのでしょうね」
珪が答えると鈴扇は分かったと返事をして男を一瞥した。
肖はいきなり現れた美しい男に委縮している。
「もうすぐ戻ってくると思いますよ、時間は守る子なので」
「もっ、申しわけありません、官吏様にこんなに時間を割いていただくようなことになるとは思ってなくて……!」
続々と官吏が集まってくる様子に肖は事態が大きくなってしまったと勘付き、怯えている。
このままでは聞ける事情も聴けなくなると思ったが、無理やり聞き出すには証拠があまりにも少ない。
「あの時はたくさんの人が死にましたから混乱で他の人間と間違えたのでしょう、しょうがありませんよ」
珪はそう優しく諭すが嬰翔にはやはりどこか引っかかる。
早くその引っかかりの原因を見つけた芙蓉が帰って来ないものかと気を揉んでいたところに執務室の扉が開いた。
おそらく寝ていないのだろう、すこしふらつく足の芙蓉が入ってきた。
「遅くなりました、嬰翔様」
「芙蓉殿、お待ちしておりましたよ。何ですか、その書簡の量は……?」
嫌な予感がする、と嬰翔はこめかみに手を置く。
芙蓉は一人で抱えきれるぎりぎりの大量の書類を鈴扇たちの前に置くとその中のいくつかを開いて並べ、これを見てくださいと全員をその机の前に集まらせた。
「嬰翔様に教えていただいた資料にあった緑青村と瀝青村で亡くなった全ての方の症状に目を通しました」
「お前、また寝てないのか」
「それは今はいいんです」
良くないだろう、と鈴扇と嬰翔の瞳がじろりと芙蓉を睨むがどこ吹く風だ。
明らかに様子のおかしい少年が加わったことにますます怯えた様子の肖に嬰翔は苦笑した。
彼はもう逃げられないだろう、この好奇心の化け物に捕まって骨まで食べられてしまうのだ。
肖の前に芙蓉は一つの書簡を突き付けた。
「これはあなたの死亡診断書ですね、肖 芳斉さん。嘔吐、平衡感覚の消失による目眩と運動障害。最終的な死因は呼吸麻痺。これは病の症状ではありません。河豚毒の症状です」
芙蓉がそう言うと明らかに男の表情が変わった。
「死ぬ寸前まで意識があったのでしょう、まだ死んでいないのだと誰にも伝えることもできないのはさぞ苦しかったでしょうね」
「河豚毒だと?」
それを聞いて、鈴扇が一番に疑問の声を上げた。
「やはり鈴扇様はお聞きになったことがありますね。海のある國の貴族なら知っているのではないかと思ったのですが」
「河豚とは何なんです、芙蓉様?」
商業國の薊國出身である嬰翔は少し置いてから聞いたことはあるような顔をするが、海のない國である蘭國出身の珪は不思議そうに聞き返した。
芙蓉はその灰色の目で肖の一挙手一投足を見逃さないようにしながら、その質問に答える。
「茜國で主に漁獲される魚です。内臓部分に毒を持つため調理が難しく、技術を持った料理人を要するためほとんど流通していません。おそらくこのあたりの医師だと知らない人間も多いでしょう。この毒の症状と同じ症状がほとんどの死亡診断書に記されていました」
「疫病ではなく、村人が心中を図ったということですか」
「近いです、嬰翔様」
ちょうど窓から日が差し芙蓉の瞳が銀色に輝いた。
「河豚毒は制御できる者が扱えば人間を仮死状態にできると聞いたことがあります。
あなたは正確には死んだと勘違いされたのではない、一度死んで生き返ったのですね?」
男の顔色がどんどん青くなっていく。
幽霊でも見るかのように芙蓉の顔を、目を見開いて見つめている。
「あ…あんた……なんで」
「どういうことだ、芙蓉」
「河豚毒を使えば人間を死んだように見せかけることができるのです。人間は死ぬと様々な権利を手放しますが、一つだけ解放されることがあります」
「ひょっとして税か……?」
鈴扇の言葉に芙蓉が是と答える前に男が彼女の服の裾を掴んで縋り付いた。
「どっ、どうか勘弁してください。國都に庶民でも通える私塾ができたって聞いて、俺の出来心だったんです、これ以上の追及はよしてください……!」
「残念ですが脱税は立派な罪です。他の人たちの場所もお聞きすることになります」
芙蓉の口調は淡々としたものだがその顔は苦しそうに歪んでいる。
悪いのは彼だけではない。少なくとも、私塾への入塾を考えてやってきたという彼に邪な気持ちがあるとは思いたくなかった。
その様子に嬰翔と珪が待ったをかけた。
「ちょっと待ってください。話が違いませんか?肖殿は税金を納めていたんですよね?」
先ほどの聴取で彼らは肖から税を治めていたと聞いていた。そうなると彼が取り乱す意味が分からない。
今度は芙蓉がその話を聞いて目の色を変える番だった。
「税を納めていた……!?それでしたら話はもっと大きくなります。あなたたちの納めた税を懐に収めた人間がいるのですね!?」
「……なるほど、そういうことですか」
これだけとんとんと話の点をよく繋ぐものだと嬰翔は素直に感心する。
つまり、村人の心中を扇動した者がおり、その人間は彼らから税と称して徴収を行っているということだ。
「誰なんです…!?誰が一体そんなことを……!?」
芙蓉はすっかり怯えあがってしまった彼の肩を掴んでさらに話を聞こうとするが、寝不足のせいかふらついて横にあった机に手をついてしまう。
その様子を見ていた鈴扇が動いた。
「嬰翔、少し席を外す」
「ん?……え!?」
鈴扇は芙蓉にしがみ付いていた男を引きはがすと、そのまま彼女を横抱きにして歩き出す。
それを見た嬰翔は芙蓉に言われて見返していた書簡を落としそうになった。
あの冷酷非道で、女どころか傍には人っ子一人寄せ付けようとしないことで有名な菫 鈴扇が一官吏を抱き上げている。
隣を見ると珪もあんぐりと口を開けていた。
「ちょっと、何するんですか鈴扇様!?」
「お前、飯も食べていないのか。子供のように軽いぞ」
いきなり抱き上げられた芙蓉は暴れるが案外力のある鈴扇には抵抗むなしく、されるがままになってしまう。
「おろしてください!まだ聞きたいことがあるんです!」
「聴取は私たちで行える。感情的になるな、お前は少し休め。嬰翔、すぐに戻る。できるところまで話を聞いておけ」
「……はい、分かりました…」
ほとんど放心状態の珪の肩を叩きながら、嬰翔は頷いた。
「ちょっと!離してください!なんでこんなに力あるんですか!?」
副官室を出て、次第に遠ざかっていく芙蓉の声とともに嬰翔も我に返る。
「嬰翔様、私はもしかして夢を見ているんでしょうか?」
ようやく意識を取り戻した珪が嬰翔の顔を見て呆けたように言う。
あはは、と嬰翔は乾いた笑い声をあげた後、
「どうやら現実みたいですよ。……鈴扇、あなた本当にどうしちゃったんですか?」
と、そう呟いた。
※
「おい見たか今の!?」
「嘘だろ、鈴扇様だぞ……!」
「ひぃっ、明日には天変地異が起こる!」
仮眠室への廊下を歩く鈴扇を行き違う官吏たちが幽霊でも見たかのように彼を二度見して去っていく。
その腕の中にすっぽりと、先日着任したはずの莢 芙蓉という可愛らしい少年が収まっているからだ。
芙蓉が暴れているせいで今の鈴扇はその美麗な容姿でさえなければ人攫いにしか見えない。綺麗な顔に生まれてよかったな、と誰もが心の中で思ってしまう。
「降ろしてください!鈴扇様!」
そう何度も腕を抜け出そうとする芙蓉を鈴扇は駄目だ、と短く叱責する。
「嬰翔も言っていたがお前、言っていることとやっていることがまるで噛み合っていないぞ」
「私が一人の手で救えるものは限られていると言ったことですか?あれは、私の目標であって私の信条ではありません」
「屁理屈ばかり言うな。お前が無理をすると周りも手を焼く。少し加減を覚えろ」
そう言われて芙蓉は唸りながらようやく黙った。
父にもよく無鉄砲だと怒られたのでそう言われてしまうと何も言えなくなる。
芙蓉の軸はいつも父の教えなのだ。
「……はい」
「あとその不満そうな顔をやめろ」
それには答えないでいると仮眠室にたどり着いたらしく、寝台の上に体を横たえられた。
ありがとうございます、と一応礼を言うとその横の椅子に鈴扇が腰かける。彼はその長い足を組むと、じっとそこから芙蓉の顔を眺めている。
「あの、何をしているんですか?」
「お前が寝るまでの見張りだ。お前が寝ないと執務が滞るぞ、早く寝ろ」
鈴扇ほど綺麗な顔がじっとこちらを見ているとさすがの芙蓉も気が滅入りそうだった。どうしても自分の顔と比べてしまい、情けなくなってしまうのだ。
仕方なく目を閉じるとやはり疲れていたのかすぐに眠気が襲ってきた。
すぐに静かな寝息が聞こえ始め、鈴扇は拍子抜けしたようにその寝顔を見つめた。
随分とあっけなく眠りについた芙蓉の眉間に深く刻まれた皺を、鈴扇は手を伸ばして広げてみせる。
そうしてみても芙蓉は寝返りを打つだけで起きる気配はなかった。
「もう寝たのか」
おそらく病死した人間の症状を夜通し眺めていたのだろう。大した胆力だ。
それにしても先ほどは驚かされた。
鈴扇でさえもほとんど口にしたことがない、物好きな貴族が好むという河豚。どうしてこの少年はそんなものを知っているのか。
「つくづく不思議なやつだな……ん?」
寝返りを打った際に、芙蓉の胸元から木彫りの札のようなものが転がり出たのを見つけた鈴扇はその美しい眉を顰める。
「これは、花紋?」
それはこの国では貴族以外持ちえない花の紋章だった。
不思議に思い、すぐに目に焼き付けると芙蓉に掛けた布団に滑り込ませる。
芙蓉を男だと思い込んでいる鈴扇であってもその可愛らしい寝顔を見ていると、胸元に手を突っ込むというのは憚られた。
「私も少し疲れているのか」
そう、こめかみに手を当てて無表情な顔で呟くと鈴扇は仮眠室を後にした。
※
「鈴扇、あなたが他人の面倒を見るなんて珍しいですね。いつもなら自分の管理もできないやつが國の管理ができるかって一蹴するのに」
戻ってすぐにそう冷やかす嬰翔を鈴扇は煩いと一括した。
「聴取はどうだった。何か有益な情報は聞きだせたか」
「いいえ、何も。刑曹に引き渡してもいいですが、手荒な真似はしたくないので芙蓉殿が起きるのを待とうかと思っていました。彼の言葉は暴力よりも効果があるようなので」
「あれはもう暴力だろう。誰だってあの知識の波に晒されたら泣きたくもなる。
ところで嬰翔、こういう花紋に見覚えはあるか」
鈴扇は手元の紙に先ほど見た花の紋章を描いて嬰翔に見せた。
「なんですかこの花紋、見たことがありませんけど」
嬰翔はふむ、とその紙を裏返したり逆さにしてみたりするが分からないようだった。
「さっき芙蓉を寝かしたとき、この花紋の木札が胸元から転がり出たんだ」
鈴扇がそう言った途端またもや嬰翔は持っていた紙を落としかける。
「あなた女が嫌いだと思ってたら、まさかそっちの……」
「違う、たまたま落ちたのを拾っただけだ。……そんな顔で見るんじゃない」
「思いのほか気に入っているみたいなので。菫の刺繍が入った上着なんか貸しちゃって」
花紋の入った上着を渡すなど自分のものだと言っているようなものだろう。
まあ、鈍感な上司にそういう邪な気持ちは一切ないことを嬰翔は知っているのだが。
思った通り、嬰翔の軽口など鈴扇はまったく気にしていない。
「私は菫家の人間だ。貴族の紋章なら大体見たことがあるが、これは初めて見る花紋だ。形だけで言えば、葵に似ている気もしたが中央部に斑点がある。こんな花は見たことがない」
「花の家紋を持っている時点で貴族であることは間違いありませんよ。しかもかなり高位の」
嬰翔も鈴扇も彼を家のことで問い詰めるつもりはないが身分を詐称しているとなると話は違う。場合によってはただちに地方監察官である刺史に報告する必要がある。
それにしても平民が高位の貴族と偽るなら分かるが、高位の貴族が平民として入朝するのは違和感がある。官吏になるうえで平民という身分は立身出世の邪魔にしかならないのだ。
「姓というのはこの国では特例でもないかぎりなかなか変えることを許されない。つまり戸籍を書き換えられるほどの人間が関わっているということだろう。
昔、蘭家を追われた人間が鈴蘭の家紋を持ったという話を聞いたことがある。鈴蘭は蘭と言う名が付きこそすれ、蘭ではない。蘭にして蘭にあらず、という皮肉だ。もし彼の家紋がそれを示しているのなら」
「どこかの貴族を追放された人間であることは確かなのではないでしょうか。花に詳しい商人を当ってみましょう」
「頼んだ」
相変わらず表情一つ変えず、鈴扇は執務に戻った。
※
「……んっ……私結構寝て……?」
芙蓉が身を起こすと既に窓から見える空は夕焼けの色をしていた。
自分がかけた覚えのない掛布団を見て、鈴扇は本当に寝るまで見張っていたのかと呆れる。しかしそのあと、いつの間にか布団の中に落ちていた木彫りの花紋を見て芙蓉は顔を青ざめさせた。
「バレてないですよね……」
そもそも葵の花紋とは形が違う上、中央に模様も入っている花だ。普通の人間が見てもただの木札だと思われるだろう。
それを見たかもしれないのが六大家の人間だから怖いのだが。
すぐに木簡を懐にしまうと同時に芙蓉殿、と外から嬰翔の声がした。
「はい、起きています!」
返事をすると盆に食器を乗せた嬰翔と鈴扇が扉を開けて入ってきた。
「失礼します。そろそろ起きられるかと思って、夕飯をお持ちしました」
「嬰翔様が作られたのですか?」
嬰翔は慣れた手つきで芙蓉に粥の載った盆を渡す。
「簡単なものですけどね」
それからすぐに茶器を準備し、鈴扇の前にそれらを並べていく嬰翔を見ていると何故か寂しい気持ちになってきた。その姿が堂に入りすぎているからだろう。
芙蓉は粥を口に運びながら、もしかして午時葵の花紋を見られていたのではないかと鈴扇の様子を伺うが、当然その顔から表情は読み取れない。
「起き抜けに仕事の話をして申し訳ないのですが、ご勘弁くださいね。あのあと、肖殿に話を聞きましたが村の人間は全員生きていることくらいしか頑として話してはくれませんでした」
芙蓉はそれを聞いてその灰色の瞳を瞬かせる。
「村人は生きているのですね……!それはよかった……」
生きている、ひとまずそれを聞いて芙蓉は落ち着いた。
しかしすぐにでも、幼いころ父と自分に世話を焼いてくれた葉や友である祥凛の無事を確認したいという気持ちが逸った。
「感傷的になっているところ悪いんですがちっとも良くないですからね。それだけの人数が脱税に関わっているんですよ」
「貴族が私利私欲を肥やしているんでしょう」
芙蓉の指摘に嬰翔は舌を巻く。
『莢進士を得た時はもう一本腕を得たように執務が楽になるのに、莢進士を失った時は二本腕を奪われたように執務が回らなくなる』
そう言われていたのはこの理解力の高さも一員なのだろう。
「さすが、説明する手間が省けます。誰かとまでは言いませんでしたが、そのことも肖殿は話してくれました」
「そもそも河豚は珍味で値も張ります。当然その毒は庶民が手を出せるようなものではありません。あのあたりの村には疫病が流行る前に旱魃が見られたという記録がありました。おそらく税が納められなくなった村人に唆した者がいるんです」
「おそらく蘭家だ」
それまで黙って茶をすすっていた鈴扇が初めて口を開いた。それを聞いた芙蓉は驚いて思わず鈴扇を見つめる。
「蘭家が……!?」
「正確には末端も末端の分家筋だがな。嬰翔がお前に言われて顔馴染みの商人に確認したが、確かに四年前に河豚を購入したという記録があったらしい。表向きは催事に用いるためと言っていたそうだが、このあたりでは魚料理は珍しいし怪しいものだ」
まったくその通りだ。
これも父に聞いた話だが、蘭國と葵國の貴族は魚を食べる習慣が殆どない。魚は庶民の食するものと考えられており、特にこのあたりでは少ない牛となると殆ど庶民の口には入らないらしい。
「よくそんな記録を辿れましたね」
こういう時、彼らの持つ家柄という武器は強い。芙蓉には絶対に使えない武器だ。
「ちょっと伝手がありまして。にしても、蘭家が関わっているとなるとうーん…これ現場を抑えないと検挙は相当難しいですよ」
「どうしてですか?」
「これで蘭本家が脱税に加担でもしていたら少なからず陛下は蘭家の権力を削ぐ。この国には國は七つだが、家は八つだろう」
「そうか、薺家が控えているんですね…」
この国の人間ならだれもが知っているこの国のかたちの話だ。王族として王都である桜國を治める桜家、六つの國を治める葵・蓮・蘭・薊・菫・茜の家に加え、商業によって名を挙げた薺家のみがその姓に花の名を持つことを許されている。そして薺家のみが國を持っていない。
他の家に比べ薺は特にその領土確保に野心的なのだ。
「薺家は商業の拠点は増えるだけ良いと考えていますし、薊家は自國に他の家がいることを手狭に感じていますからね」
「おそらく蘭家は必死に隠蔽しようとするだろう。流石に國主が動いたら勝てないぞ」
「蘭家の息のかかった武官や官吏にバレずに抑えるとなると……そんなことできるんですか?」
嬰翔は頭を抱える。
つまり、芙蓉たちは未だこの地に広く張られた蘭家の網を潜って物的証拠を上げなければならないのだ。
「肖さんはどこまで私たちに話してくれたんです?」
「詳しい場所までは教えられないと言われました。弱みを握られているんでしょうね。もちろん無理やり吐かせることもできますができるだけ手荒な真似はしたくありませんしね」
「そうですね。もし私ならの話ですが、病によって隔離された村は自然に出来上がった結界として十分に機能すると思います」
「なるほど、一理あります。鈴扇」
嬰翔の呼びかけにうむと短く返事をすると鈴扇は二人を見据える。
「芙蓉、嬰翔。緑青村及び瀝青村への視察を命じる。なんでもいい、手掛かりを見つけてこい」
嬰翔と芙蓉は顔を見合わせると御意に、と返事をして拱手した。
※
夜明けと同時に青漣を出た芙蓉と嬰翔は、緑青村への道を急いでいた。
藍は他の國に比べても平地が多く、桜國からこちらに来た時よりは幾分かましだが慣れていない芙蓉にはつらい道のりだ。
おまけにこの時期は雪で馬の足が滑る。芙蓉は感じたことがない揺れに何度も意識を失いそうになりながら、胸の悪さを耐えるしかなかった。
「芙蓉殿、僕も気絶した人間を運ぶのには慣れないので頑張ってくださいね」
馬を走らせながら嬰翔がそう呼びかけると、案の定気分を悪くした芙蓉が苦しそうに返事をする。
「うっぷ……はい…」
辛そうな彼女を見て嬰翔は、仕方なく馬を失速させる。
「あーほら、そうやって腹を折りたたむから余計に変な力が入るんです。背を伸ばして」
「はい……」
嬰翔は芙蓉の背を支えて姿勢を正すがそれでもすぐに前に上体を倒してしまう。
相変わらず虚ろな目をしている芙蓉に嬰翔は溜息をついた。
そもそも会試に課される弓術と馬術はこの国のいびつな形が原因となった試験制度である。
一つの国の中に未だ王族意識の抜けない國の貴族を六つも置いてしまったせいで、彼らの不穏な動きから朝廷を守れるように全ての官吏が一定の武術を修めておく必要があるとされているのだ。
前時代的で古風なこの制度のせいで、貴族の養子にでも入らなければ馬に乗ることの少ない庶民はほとんどこの試験を突破できない。
仕方がないと判断した嬰翔は芙蓉の肩を引き自分の方にその背を持たれ掛けさせた。
「ほら僕に背を持たれかけさせていいですよ、ここで吐かれでもしたら時間がもったいないので」
「ありがとうございます、少し楽です」
「あなた、御史台に配属されでもしたらどうするんです。彼らは官吏の監察のために国中を走り回っているんですよ」
「しばらくは異動する気はありません」
「たしかに次異動するとなると官位も上がるでしょうしね」
「それはどういう意味ですか」
「今のままでは出世は難しいという意味です」
嬰翔は面倒見のいい男だが、優しいばかりではない。
淡々とした口調で芙蓉の短所を次々と述べていった。
「あなたの能力は上司向きではありません。人に指示される前に動くのが得意な一方、人に指示するのが不得手でしょう。あなたが何でも分かってしまう人間だから他者を理解できないのかと思っていましたが、違います。人間と関わった経験が浅いのか怯えているのです」
「つまり、私には出世は無理だと?」
「補佐が得意な人間が出世する方法がありますよ」
「というと」
「より高位の人間の補佐役になればいいのです」
「それってずっと鈴扇様の補佐官でいろと言ってます?」
はい、と悪びれもせず嬰翔は言った。
「僕は鈴扇に変わって欲しいと思ってます。我が國は見ての通り完全実力主義で、能力があるものしか登用されません。鈴扇が使えないものは切り捨てるからです。育てるということをまるでしようとしない」
「確かに、蘭國府にいるのは優秀な人たちばかりですね」
芙蓉がこちらに来て驚いたことはまずそれである。彼らは芙蓉の能力の高さを見ても僻んだり陥れようとしたりせず、学ぼうとする者が多い。
芙蓉と接すると怠惰になってしまうものが多かった礼部と比べると、新鮮な職場であった。
「しかし困ったことにそうやって集められた全員が凡人を理解できないのです」
「そんなところに一年に満たない私を呼び出したのですか?」
「あなたは貴重な人材です。賢く、鈴扇の言うことを的確に理解し、仕事ができる。それでいて、あなたの感覚は平民に近い。平民出身の官吏というのはそういう意味でも大変貴重です。鈴扇があなたのような人間を気に入るのは珍しいことなのです」
「気に入っているのですか?あれは」
鈴扇の、芙蓉の行動を見る怪訝な顔を思い出して首を捻った。
嫌われているわけではないとは思うが、好かれているとは思い難い。
「芙蓉殿はあんなに先のことが次から次へと予想できるのに、人の感情が読めるわけではないのが面白いですねえ」
「精進します」
先ほどから褒められているのか貶されているのか分からない芙蓉はよく分からないが改めるべきだと思い、そう返事をした。
「いや別に改めろと言っているわけではありませんよ……芙蓉殿、着きましたよ。緑青村です」
嬰翔が馬の歩みを止めた。
芙蓉は虚ろだった目を見開くと、一面足跡のない雪の奥に縄によって何重にも囲まれた村落のようなものが見えた。
もはやそれは村と言えるようなものではない。
雪の積もった住居跡は全てが焼け焦げていた。
「焼き払ってしまったのですか…!?」
「僕もここに来たのは初めてですがここまで閑散としているとは……ちょっと芙蓉殿!?」
芙蓉は勝手に馬から降りると丁寧に紙垂のついた縄を持ち上げ、その地に足を踏み入れていた。
先ほどまでのしおらしい様子はなんだったんだと問いただす間もなく、馬を近くの木に繋ぐとその背を追って仕方なく嬰翔も村の中に足を踏み入れる。
誰かにつけられている様子はないが、嬰翔は周りを確認しつつ歩いた。
意外にもしっかりとした足取りで歩いて行った彼女は一つの家を見つけて立ち止まる。
そこは父と芙蓉が十年間共に暮らした場所だった。
父が葵家に勘付かれないようにほとんどのものを置いて家を出たため、焼かれていなければ中は芙蓉と父が暮らしていたまま保存されているはずだった。
まさかこの場所にこんな形でもう一度訪れることになろうとは思いもしなかった。思わず手を触れそうになると、後ろから追ってきた嬰翔が「こら」と声をかける。
「住居には近づかないでください、おそらく崩れやすくなっていますから」
「申し訳ありません。……少し懐かしくなってしまいました」
「お心痛み入ります」
「いえ、申し訳ありません」
芙蓉と嬰翔が歩みを進めると、村の中心部にまとまって複数の墓が建てられていた。
誰も手入れをしていないその墓は雪を払うと苔にまみれている。
住居に立てかけられていた鋤を二つ持ってくると、その一つを嬰翔に渡す。
「掘り起こしますよ」
やっぱりか、という顔をした嬰翔は鋤を受け取ると苦笑する。
「さすがに気が引けますね」
「村人は全員生きていると言っていましたし、この墓が建てられている理由はただの目印でしかありません」
そう言うと芙蓉は地面の雪をはらって土に鋤を入れる。おそらく長い間ほとんどの人間が踏み入れていないだろう土は芙蓉の手でも簡単に掘り返せるほど柔らかい。
「あなたの推理ならここには何が埋まっているんです」
嬰翔も芙蓉に倣って掘り進めていく。
芙蓉といると初めてのことばかりで興味深いが、まさか墓を掘り起こすことになるとは思わなかった。
「嬰翔様なら何を埋めますか?誰にもばれない秘密の隠し場所ですよ」
芙蓉がそうほくそ笑むのを見て嬰翔の罪悪感も薄れていった。
「僕なら無難に金子ですかね……ひっ!芙蓉殿、人骨が出たじゃないですか!話が違いますよ!」
嬰翔の鋤の先端にぶつかった硬い感触は頭蓋骨のようだった。驚いた拍子に腰をついて芙蓉を睨む。
しかし芙蓉はその頭蓋骨を拾い上げ、丁寧に土を掃うと嬰翔に笑いかける。
「落ち着いてください、左右に並んだ目、明らかに発達した顎。これは猿の骨です。よくこれで隠し通せると思いましたね」
「は?猿?……確かに言われて見ればちょっと人間とは違うような……」
そう言われても人骨を見たことなどない嬰翔は半信半疑で骨を持ち上げた芙蓉から距離を取る。
「芙蓉殿は人間の骨を見たことがあるのですか……?」
「ありませんが、人間の骨については大体分かります。知識は頭に入っています」
芙蓉は父が読んだ本の殆どをその小さな頭に収納しているのだが、それを知らない嬰翔からしてみればその言い方は妙に感じるだろう。
「書物を読んだわけではないんですか?」
「私が自分で買うお金はなかったので父から伝え聞いただけになります。猿の骨については実物を見たことがあるので、自信はありますよ」
芙蓉は頭蓋骨を足元に置くと、骨の横に見えた陶器のようなものを引っ張り出した。
「ほら、見てください。亡霊の隠しものです」
芙蓉は恐ろしさに身を引く嬰翔の前に、陶器の蓋を取って差し出した。
「これは…!?」
「嬰翔様の言う通り、金が出てきましたね」
壺の中には金が大量に詰まっていた。見るとその奥にも壺のようなものが顔を出している。
「本当にこんなことが……」
唖然とする嬰翔に芙蓉はさらに、自分の足元の雪を払って何かを拾い上げて見せた。
「嬰翔様、見てください。雪の下にこんなものが埋まっていましたよ」
「……これは確かに、三年前に存在するはずのないものですね」
芙蓉が拾い上げたのは花興全土に流通する銅貨だ。
ただし、一年前に流通し始めたはずの新しい銅貨である。
「新しい銅貨がなんでこんなところに落ちているのでしょう。亡霊がとってきたのでしょうか。答えは簡単です。 ここを通り道にしている人間がいる、ということです」
嬰翔は銅貨を見つめる芙蓉の瞳が日の光に照らされて銀色に光るのを見た。
目を僅かに開くからなのか分からないが、考え事をしていて何か思いついたときのこの少年の瞳は灰色に光が差し僅かに銀に光る。
「まさかそんな……あなたが言った通りここは結界として機能しているのですか?」
芙蓉はええ、と返事をすると墓の後ろにあった山道に繋がる林に目を向ける。
そこまでゆっくり歩いていくと上を見上げて嬰翔にこちらに来い、というように目配せした。
「やはり、ここだけ蜘蛛の巣がありません。ここの低木をどかしていただくことはできますか」
確かに芙蓉の言う通り、その部分だけ蜘蛛が巣を張っていなかった。この時期は蜘蛛が活動しないため新しく張りなおすことがないのだろう。
嬰翔が低木に手をかけると、その低木には根が張っておらず扉のように道が開けた。
「見てください、新しい足跡です」
丁度その低木をどかしたところに、まだ新しい足跡がいくつか見えた。低木が傘となって雪が積もらなかったのだろう。
「一体、どういうことなんです……?」
「予想はできますが、断言はできません。行きましょう、嬰翔様」
※
『これは午時葵だね、人気がある花ではないよ。こんな花よく知ってたね』
河豚の入手経路を尋ねた際に、商人が口にした芙蓉が持っていたという花紋の花の名は嬰翔が聞いたこともないものだった。どうやら西方の花らしく、この国では殆ど見かけないらしい。
『その名前の通り昼までしか咲くことがない半日花さ。この植物が怖いのは自らの油で発火するところだね。山火事はこの花が原因で起こったりするんだよ。自殺する花なんて言われて忌み嫌う地方もあるよ』
忌み嫌われる『葵』の花紋を持つ、黒髪の、類まれなる知識と慧眼を持った少年。
天才と呼ばれた月英の出身である葵家と同じ色を髪に持つ彼は、確かに月英という人物の名に興味を持っていたようだった。
しかし、気になるのはその瞳だ。
隣を歩く少年の瞳は山猫のような野性的な灰色である。
他の一族と交わるのを極度に嫌う葵家の血は濃く、その全ての人間が黒髪に黒い瞳を持って生まれると聞く。ではどこの血が混じったのだろうか。
「葵家より血の濃い一族なんてこの国にはいないですよね……」
頭の中で考えていた言葉がつい口に出てしまった。
「何か言いましたか、嬰翔様?」
「いえ、何も!」
そう言うと芙蓉はその人差し指を唇に当て静かにという合図をした。
「ここから先はあまり音を立てずに進みましょう。おそらく見つかると戻れなくなります」
六大家の人間は何故か姿かたちの整ったものが多いというが、それで言うと彼も十分その条件にあてはまるだろう。
冬の長い葵國や蘭國に多いという白皙の肌、すっと通った鼻梁に、見開かれると僅かに銀に瞬く灰色の大きな瞳、唇は貴族の女性が羨むような天然の薔薇色だ。
全体的に地味な色合いのせいで分かりにくいが彼もまた鈴扇に並んで遜色ない美少年である。
明らかに彼は異質な存在だ。
それでも今はこの少年に事の顛末がかかっているのだ。嬰翔はもう一度目を向け、「分かりました」と小さく返事をした。
※
林を抜けた先、山を中腹まで登ると変に光が差している木々を見つけ嬰翔と芙蓉は身をかがめながらそこに近づいた。
光の元に目を向けた嬰翔が驚いて声を上げそうになる。
「本当にこんな山奥に村が……?」
その場所は森を切り開いて作った小さな村落となっていた。
今は雪のせいで分かりにくいが、畑には野菜が顔を出しており、いくつかの住居が並んでいる。
何人かの住人が野菜の野菜を刈り取っている様子からして、立派に村として機能しているようだった。
「嬰翔様、あれって……」
「ええ、蘭家の私兵です。ばっちり青い布が見えました」
ふとその視界の隅に兵士の姿が見え、芙蓉が指摘すると嬰翔は面倒そうに言った。
自分たちが絶対に絡みたくない相手が絡んでいたのだ。
蘭家とは二年前の鈴扇の着任からいろいろとやりあってきたのに、まだ鈴扇の目を誤魔化すつもりだったのかと呆れてしまう。
私兵を置いて村人たちを監視させているのだろう。
芙蓉はじっと見ていた村人の中に、少し青みがかった黒の髪に淡い青の瞳を持った同年代の少女を見つけ思わず立ちあがった。
「祥凛っう…うぐ……!」
目の前を通ったのは明らかに芙蓉の友である祥凛だ。背が伸びているせいで面立ちが少し変わっているが、間違えるはずがない。
懐かしい幼馴染を見つけ思わず大きな声を上げてしまった芙蓉の口を、すぐに嬰翔が後ろから抱き込むような形で抑え込む。
「なっ、何やってんですか!今回は視察に行ってこいと言われただけなんですよ!僕たち二人見つかったところでさっきの猿の骨の代わりにされるだけですよ!何こっちからばらしてるんですか!?」
「芙蓉……?芙蓉なの…!?」
幸いにもその声は祥凛の耳にだけ届いていたらしく、彼女は草むらをかき分けて芙蓉と嬰翔に近づいてきた。
「ああ!ほらどうするんです!」
芙蓉もさすがにまずいと思ったが、機転を利かせた祥凛が二人の手を引っ張った。
「しっ!こっち!」
「どうしたんだ!」
遠くで男の厳しい声がする。
「すいません!鼠がいたので追い出したらすぐに戻ります!」
不審に思った兵士の声に祥凛がそう答えたおかげで難を逃れることができた。
丁度大木の影にある部分に祥凛が引っ張り込んでくれたことで事なきを得たが、嬰翔は呆れた顔で芙蓉を見ている。
「あなたといると心臓が何個あっても足りません……」
一方芙蓉を見つけた祥凛はその頬を両手で挟み込むと、泣きそうな顔をした。
「芙蓉!心配したのよ、あなたがいなくなってから大変なことばっかり起きて…」
芙蓉はそのまま泣き崩れそうになる祥凛の肩を持って支えると、その瞳を見つめて問う。
「祥凛、今は詳しいことを説明してる暇はないんです。ここは何なんですか?どうして地図に載っていない村になっているんです」
「私たち地図なんて見ないもの、読み方だって知らないわ」
「そう…ですよね、ではこの村の一人当たりの税は一年で何石ですか?」
「一石よ」
それを聞いた嬰翔が眉を顰める。
「通常の半分ですよ、信じられません」
やはり、通常より軽い税を課すことで村人たちを外に出ていきにくくしているのだ。
巧妙なやり口だ。
「ねえ、芙蓉さっきからこの人は誰なの?」
「僕たちは國府の使いです」
嬰翔が短く告げると祥凛は驚いた顔をして二人を見た。
「國府の?芙蓉ってば、官吏になったの?そうね、あなたは村の中でも一番賢かったもの。……私たち今は斉玄様に飼われてるのよ」
「斉玄様とは、誰ですか?」
「嗣 斉玄様、蘭家の分家筋の方よ。四年前の干ばつで旱魃で生活に苦しんだ私たちに、楽にしてやるからこれを飲めって、毒を渡してきてね。すっごく苦しかった、死んだと思ったわ。目が覚めたらここに運び込まれてて、税を軽くしてやる代わりに自分たちのために働けって。外に出たってもう死んだことになってるから生きてはいけないって」
そう言ったところで祥凛はまた涙をこぼす。
彼女は三年間、何の身分も持てないことに怯えながらひたすら耐えて生きてきたのだ。
常に自分たちを監視している蘭家の私兵がいつ隠蔽するために自分たちを殺すかもしれないという恐怖におびえながら、それでも必死に。
「お願いよ。私たちを助けて……!」
ぽろぽろと涙を流す祥凛を見ていた芙蓉はふと何か思いついたように彼女に尋ねる。
「祥凛、この村に家畜はいますか?」
「……家畜?山羊と、あとそうね、豚や牛もいるわ。それがどうしたの?」
なるほどと呟くと、ついで嬰翔に質問する。
「嬰翔様。この国では家畜の数は戸籍を元に戸部で管理されていますよね?」
「はい、税の徴収のためにそうしているはずですが…それがどうしたんです?」
「一つ方法を思いつきました」
「本当ですか?」
嬰翔はそう言いながら芙蓉の瞳が何かを見つけたようにきらめいたのを見て確信する。
この子は何か妙案を思いついたのだと。
芙蓉はええ、と頷く。
「ですが、今すぐには無理です。一度戻って鈴扇様に意見を仰ぎます。祥凛、私たちは二日後の夜必ず戻ってきます」
「う、うん。分かったわ」
「私がきたことは絶対に誰にも言っては駄目ですよ。それから祥凛、二つお願いしたいことがあります。二日後の夜、やってほしいことがあるのです」
芙蓉は念を押してから、祥凛の耳元で何やら囁いた。
それを聞いた祥凛は意外そうな顔をして聞き返す。
「そんなことでいいの?」
「あなたたちに危険なことはさせません。……嬰翔様、行きましょう。祥凛が疑われてしまう」
「はい……ってあなたのせいですからね」
木陰から腰を上げ、立ち去ろうとする芙蓉と嬰翔に祥凛は「芙蓉」と呼びかけた。
「待ってるわ、必ず戻ってきてね……!」
「はい、必ず助けに戻ります」
芙蓉は力強く頷くと踵を返した。
その姿が完全に見えなくなってから、祥凛はふと我に返って呟く。
「なんで男物の官服なんか着てるのって聞きそびれちゃったな」
※
嬰翔と芙蓉を見送った鈴扇は通常の執務に加え、脱税に関する令の項を読み返していた。
「土地没収の後、追放刑」という重い罰を、村人たちは受け入れられるだろうかと思う。
おそらく彼らは通常よりは軽い税をかけられている、税と言っても個人的な徴収に過ぎないのだから当たり前だが、それを捨ててまで重い税をかけられ罪を受け入れて新しい戸籍を望むだろうか。
それでもその村を抜け出し、私塾を志した人間がいるということは鈴扇にとって驚くべきことであり、希望であった。彼の勉学を志す気持ちは、力で民を押さえつけるという野蛮に屈しなかったのだ。
その志を、鈴扇は國令として汲むべきだ。
「何か彼らの罪を軽くする方法があればいいがな……」
「鈴扇様、國主様がお見えになられました!」
侍従の声を聴いた鈴扇は望んでもいない来客に深い溜息をつく。
「こんなときに……」
通せと、鈴扇が声をかける前にじゃらじゃらと無駄に大きな装飾品の揺れる音がして一人の青年が鈴扇の部屋に入ってきた。青みを帯びた黒髪に少し垂れた深い青の相貌、蘭家の特徴を煮詰めたような鈴扇には劣るが美しい青年だ。しかし、ごてごてとした装飾品が彼の魅力を半減させている。
「鈴扇殿、何か新しい取り組みを始めたと聞いているが私には報告が上がっていないようだが。人が足りていないのではないか?」
「鵬舜殿、これは國主自ら國府に赴いていただき光栄です」
蘭 鵬舜、鈴扇とは六大家同士であり、朝廷で顔を合わせることも多々ある青年である。
齢二十七である彼は、現菫國主である鈴扇の兄と同じ年だと聞いているがいつまで経っても子供っぽさが抜けない。
それが無邪気なものならいいが、いたずら好きの子供がそのまま大人になったような男でどうも知力と判断力に欠ける。それでも、長子だからという理由で國主に収まっているのだからこの國は駄目なのだ。
若くして國主に着いたことで良いように利用されていた彼を救ってやったのは紛れもなく鈴扇なのだが、頭の回転が良くない彼は自分の統治の邪魔をする厄介者くらいにしか思っていない。
彼は皮肉を言ったところで顔色を変えない鈴扇に舌打ちをする。
こんな時はいつも嬰翔がおべっかを並べて助け船を出すのだが、今日はそれがないせいで一層険悪な空気が流れている。
「二年前お前が赴任してきてからというものの碌なことがない。お前は小さい頃から慶朝様のお気に入りだったからな。頼めば國の一つくらいどうにでもなるのだろう」
「陛下はそういった贔屓をされる方ではありません」
「その顔で高官に取り入ったのだろう。お前は六大家の中でも蓮家に並ぶほどに美しいからな」
「わが国で最も位の高い葵蓮二家に並べられるとは私も出世したものです」
「ふんっ、すぐに化けの皮が剥がれる。いくら六大家と言えども菫の序列は薊の次に格下。蘭家を侮ると痛い目を見るぞ」
「後ほど、新しい制度についてまとめた書簡を送らせますのでお目通し下さい」
彼の戯言に付き合っている暇はない。鈴扇は自らへの侮辱もものともせず淡々とそう告げた。
早く帰ってくれ、という思いが通じたのか彼は鈴扇の顔を一瞥するとすぐに踵を返した。近くでそれを見守っていた侍従は震えているが鈴扇にしてみれば日常茶飯事だ。
それよりも鈴扇にはどうしても許せないことがあった。
『その顔で高官に取り入ったのだろう』
先ほどの鵬舜の言葉を思い出すとまた苛立ちが込み上げてきた。
完全無欠、高潔無比の美貌を持つ彼は自分の顔が大嫌いだった。それを虚仮にして、自分が軽んじられることはもっと嫌いだ。
「私の顔を馬鹿にしたことを必ず後悔させてやろう」
珍しくその薄い唇を吊り上げると恐ろしい声でそう呟いた。
※
「真っ黒だな」
帰還した嬰翔と芙蓉の話を聞いた鈴扇はそう呟いた。
疑いの余地なし、これは立派な脱税行為であるということだ。
「戸籍のない子供っていうのは結構いますがここまで大規模なのは初めて見ました。よくこの長い間ばれずに済みましたね」
「鈴扇様たちの怠慢でもあるんですからね」
芙蓉が二人を見ると嬰翔はともかく鈴扇も気まずそうな顔をしていた。
「これちゃんと捕り物上げないと、僕たちも裁かれるんですよね…嫌だなあ。ねえ、鈴扇」
「ああ、私も職を失って菫家に戻されるのだけは真っ平ごめんだ」
「鈴扇様って次男なんですよね?鈴扇様に戻ってほしいのですか?」
珍しく弱っている様子の鈴扇にそう聞くと嬰翔が代わりに答えてくれる。
「菫國は菫家自体がかなり政治に関わってますからね。有能な人材はいくらいても足りないくらいなんです。特に鈴扇の兄上は鈴扇に当主になってほしかったみたいですしね」
「……兄上は私の顔を見るたびに早く隠居したいと言ってくる」
「長子以外が跡を継げるのですか?」
葵家ではあり得ないことだ。
思慮深く、排他的な葵一族はそうやって余計な後継者争いを失くし、自分たちを血の穢れから守ってきたと言われている。
「これに関しては家によりますからね。薺家の当主の選び方を知っていますか、芙蓉殿」
花興三百年の歴史において百年前に皇帝に花を授けられた薺家は六大家と違った文化や考え方を持った新興貴族である。
彼らは薺商連という自らの同業者組合を持ち、皇帝から「薺玉手形」という無条件でどこの國であっても通過できる特別な権利を与えられている。
「商家だから商売の腕で決まったりするんですか?」
「その通りです。薺家には蔦家という家が連れ添っているのです。蔦家は表向きは目利きの家系ですが、最も大事な役割は薺家当主の選定。薺家の傍に常にあり、その当主候補を値踏みます。そこに血の濃さは関係なく、最も商才が長けていると蔦家が判断したものが当主の座に就くのです」
「なんというか、薺家らしい合理的なやり方ですね」
外に一族を客観視する機関を持つことで後継者争いを防ぎ最も優秀なものを選ぶ、実に商家に合った合理的な方法である。実際、六大家と違って明確な領土を持たない彼らにとって優秀な当主は絶対に必要不可欠な存在なのだろう。
「嬰翔は薺家の分家の生まれだぞ、芙蓉。こいつにも当主になる権利はあった。河豚毒の入手経路がすぐに分かったのもこいつの顔の広さのおかげだ」
「そうだったんですか、嬰翔様」
高位の貴族であるだろうとは思っていたが薺家の分家とは驚きである。
つまりこの場に国で最も高位の七つの貴族の血縁者がそろっているということになるのだが、それを知っているのは芙蓉だけだ。
「まあ、否定はしませんが陸家は数多ある薺家の分家の一つです。言っておきますが、薺家は血は混ぜてこそ子孫は増やしてこそという他の貴族とは随分違う考え方ですので親戚は山ほどいます。僕と同じ時期に生まれた子供だけでも二十人はいます。当主候補だとそれ以上です」
「それなのに、なぜ官吏になろうと思ったんです?」
芙蓉が聞くと、嬰翔は笑いながら鈴扇を横目で見た。
「頼まれたんですよ、現薺家当主に。薊家がいてやりにくいから官吏になってくれと。それで結局鈴扇に引き抜かれてしまったので彼女もカンカンです。さすがにもう気にはしていないようですが」
「鈴扇様、嬰翔様も引き抜いてきたんですね」
「もう時効だ」
相変わらず、何の感情の揺れも感じさせない彼の表情筋の硬さには驚かされる。
そうそう、と嬰翔が立ち上がると書簡を取って戻ってきた。
「引き抜きと言えば、芙蓉殿の件なのですが。さすがに國令副官となると吏部がすぐには許可できないという話でして。つまりは副官が二人必要だという証明をしないといけないんですね。ということで芙蓉殿、手っ取り早く手柄を上げてしまいましょう」
「それって……」
嫌な予感がした。
「ええ、芙蓉殿、頼みましたよ。あなたの頭脳の冴えわたることを期待しております」
こうして芙蓉は何が何でもこの脱税騒ぎを、中央の納得する形で納めなければならなくなってしまったのである。