3.水中に火を求む─1
すいません 所々、水委が芙蓉って呼んじゃってるので直してます
芙蓉たちと別れ薊國に入った汀眞は、薺家当主苑華に会うために馬を走らせた。
葵國と茜國が手を組んだ、この事態に最も危機感を持つべきは実は薺家なのである。
薺商連が本拠地を置く薊國が貴族派と手を組めば、確実に今と同じ規模の商売は難しくなる。他国との玄関口として機能する薊國を追われれば他国との交易もきっと行えなくなるだろう。
執務室に鎮座した苑華は汀眞の報告を聞いて顔を青醒めさせた。
まさかこんな方法で葵家が動き出すとは誰も想像できなかったのだ。
隣に立つ汀眞の兄汀寛と同じく姉殊寧は、そんな主人を甲斐甲斐しく世話している。二人の耳には苑華の瞳と同じ色の紅玉の耳飾りがあり、相変わらずその主従関係の強固さを示していた。
「苑華様、大丈夫ですか~?」
「苑華様、無理しないでくださいね。この後も商談入ってるんで」
相変わらず口調は軽いが、いつも気丈な彼女のそんな姿に二人は少なからず驚いているようだった。殊寧は主人の額に浮かんだ汗を拭きながら冷たい果実水を指し出している。
「……そうか、葵家と茜家が手を組んだとはな。全く、あいつらこっちには全然情報を回してこないから困ったものだ」
やっと口を開いた彼女は気丈に吐き捨てた。その瞳は葵家への侮蔑と憎悪の色を含んでいる。
薺家にとって薺の花は誇りだ。
他の家と違って生まれる子供たちが皆同じ色彩を持つわけではなく、遠くは麓の血も混じる。
例え野の花だと罵られても血の繋がりが薄くても、薺の花を旗印に集まった商人たちはその生業に誇りを持っている。
それが奪われることの意味は、ただの没落を示しているわけではない。
「すいません、俺がこの事態を止めることが出来ていれば。……そのために俺は官吏になったはずだったのに」
汀眞がそう言うと苑華は手で制した。
こんな事態を一官吏が止められるとは彼女も思っていないようだった。
「いや、私たちも薄々はおかしいと思っていたことが今全て繋がったよ。実は薊國でもおかしな動きがある。殊寧、汀寛」
彼女はそう言って手を叩くと、近侍二人に目で合図する。
「はい、苑華様!」
「こちらになりま~す!」
二人はやっといつも通りに戻った主人の指示を受けて、懐から根付や筆記具を取り出すと転がすように汀眞の前に置いた。
汀眞はそんな二人のふざけた様子に戸惑いながら目の前に置かれた細工品を手に取る。
「あのさ、ふざけてる場合じゃないんだけど。お兄様方……何これ?象牙?」
「こいつらはこれくらい元気なくらいがちょうどいいだろう」
主人の言葉にひひひとおかしな笑い声を立てる殊寧はこれでも蔦家で適う者のいない目利きだ。
姉は根付に彫られた薔薇の模様を撫でながら汀眞を値踏んでいるようであった。
「綺麗でしょう。こんな細工、大陸でも珍しいのよ」
「……うーん珍しいけど。これあんまり流行ってる彫刻じゃないよね?形だって花ならもっと違うものを使うはずじゃないの?」
それぞれの國が象徴する花を掘るのが通例であり、人気も高い。薔薇のように華美な花は庶民の装飾にも合わせにくいので不人気なのである。
その答えに、殊寧も汀寛も大げさに手を広げた。
「もう、汀眞!最近、商人としての目が濁ってるんじゃないのぉ?」
「これじゃ苑華様の婿には当分やれないなぁ」
「えっ何!?」
「汀眞、薔薇だぞ」
苑華の言葉に思わず眉を顰める。
「……ひょっとして、これ国内向けの商品じゃないの?」
そういうこと、と姉と兄は二人声を合わせて歌うように言う。
国外、たとえばそれが北の大国麓に向けた商品であるならば話は別である。
おかしな動きがあると言った苑華の言葉は段々と分かってきた。薔薇は麓の王家の紋章であり、あちらでは貴族だけではなく庶民にも人気がある。
「面白い話があるんだ。お前は葵 月英を知っているか?」
「……知ってますよ、官吏なら誰でも知っています」
つい最近聞いてばかりの同僚の父の名前に汀眞は思わず苦笑した。いったいどこまで影響を与えれば気が済むのだろうか。
「月英はたった十五で紹の国を退けた。その時に使ったのが砂漠の薔薇だ」
「聞いたことがありますね」
葵 月英と砂漠の薔薇の話。
それは官吏ならだれでも聞いたことがある、まるで夢物語のような話だ。
砂漠の薔薇というのは薔薇の花に似た鉱物である。
月英はこの鉱物を麓の穀物庫と呼ばれた秋瑾に送り、この街を熱狂の渦に巻き込んだ。そうして、花興が手を汚さずして、麓に農業国である紹の財源を奪わせた。
きっと遠くで舞った蝶が起こした嵐だとは誰も気づかない、と彼が言った話は有名だ。
「でも、考えすぎなんじゃ……」
「これを作っているのが、葵國だとしても?」
汀眞の声にかぶせるように汀寛が言った。
ああ、そこまで証拠がそろっているなら答えは一つしかないじゃないか。
分かっているのなら最初からそう言ってほしいと二人を睨むと汀寛も殊寧も呆れた顔をしているから腹立たしい。
長い間離れていたせいで忘れていたが汀眞は昔からこの二人に揶揄われてばかりなのだ。
「目的はおそらく外貨の獲得だ」
他国の貨幣を手に入れようとするということはつまり、それを使って動き出そうという意味だ。
苑華の言葉に、汀眞は神妙な顔で確認するように問いかける。
「一國が麓と直接取引をしようっていうの……?」
考えたくないことだが、もし他の国の力を借りて葵家が花興を掌握しようとしているのだとすれば放っておける問題ではない。
そんなことは苑華も既に分かっているようであった。
「その通りだ。そんな一派に私たちは加担することなど出来ない。そこでなんだがな、汀眞」
苑華がそう言うが早いか、殊寧ががっちりと汀眞の肩を後ろから掴んでいた。こうなるともう、末の弟である汀眞には逃げ場がないのだ。
おそるおそる振り向くと彼女の濃い口紅が三日月のように綺麗な半円を描いている。
殊寧は女性にしては背があるため汀眞の耳元で囁くように告げる。
「ねぇ、汀眞。あんたの隣にいたすっご~く頭の良い官吏ちゃん。あの子って葵家の子よね」
苑華とその近侍二人が以前、薺玉手形の偽造を芙蓉が見破った件で彼女と顔見知りになっていた。
官吏ちゃん、その呼び方からして芙蓉が既に女性であることもバレている。
汀眞自身もすぐに気が付いたのでこの目の良い姉と兄が気が付いていないわけがなかったのだ。
「あー、あはは……えぇと……」
言いよどんでいる汀眞の反対の肩に手を置いて、今度は汀寛も距離を詰めて言う。
「その割には貴族派臭くなくて、俺たちの味方になってくれそうだったよね」
双子に距離を詰められて行き場をなくした汀眞の正面から今度は苑華が言う。
「汀眞、私たちは莢官吏に会いたい。手配してくれるだろう?」
「はぁ!?」
その日、汀眞の声は商連本部に響き渡ったという。
※
「蒼郭の『そう』という字は蒼と書くのでしょう。ねぇ、きっとわたくしが花嫁になるときは蒼郭を持っていくのよ」
どういう意味かと聞くと、異国の伝承なのだと白燐は言った。
女性が嫁ぐときは新しいもの、古いもの、借りたもの、そして青いものを身に着けると幸せになるのだという。彼女はその青いものに、従者である蒼郭を指定した。
七つも下の少女に物扱いされて、それでも嫌な気持ちがしなかったのは既に蒼郭の心が白燐のものだったからだろう。
「ええ、お嬢様。どこまでもお供いたします」
彼女にとってそれが子供の口約束でも、蒼郭にとっては永遠の誓いだった。
『綺麗な蓮の花が咲いていても、池には近づいてはだめよ。泥の中に落ちてしまったら、ゆっくり沈んでいってもう二度と元の体には戻れないの』
蓮家の遠縁であった蒼郭も当然白燐同様にそう言われて育った。
どちらが先にその沼に落ちたのかと言われると、きっと自分だったのだと思う。
他の少女とは違う冷たく燃えるような瞳を持った白燐は美しく、そして強さを持った少女だった。
出会ったときには既にその苛烈なまでの生命力に惹かれていた。
彼女から戻ってくるものが全幅の信頼でもそれで良かった。どんな形でも思いあっていられるのが幸福だった。
この思いは何かを得ることができない代わりに、失うこともない恒久性を持って蒼郭の中にあり続けると信じた。
彼女が東宮妃になるかもしれないと分かった時は正直安心してしまった。
そうでなければきっ白燐は蒼郭をその傍近くに置き続け、蒼郭もそれを拒むことはできない。無理にでも蒼郭と白燐を引き裂けるのは後宮の分厚い壁くらいしかない。
そうでもしなければ彼女とは離れられない弱い自分を責めながらも、そうやって運命を受け入れていくはずだった。
けれど白燐は蒼郭の思いに応えてしまった。
十三の頃、池に身を投げた彼女の瞳には自分に向けた熱い感情が込められているのがすぐに分かった。
ずっと求めていたものだから、目の前に現れたときは喜びで飛びつきそうになった。
そして最悪だ、と彼女を胸に抱き込んで自分たちの運命を呪った。
蒼郭は白燐からの思いを得てしまった。
得てしまったからには、その喪失に怯える日々を送り続けることは分かり切っていた。そして喪失の日を超えれば一生、身体の半分を失ったような苦しみに苛まれなければいけない。
そして今、白燐は蒼郭と最後の時を惜しむようにその傍を離れない日々が続いている。
今も白燐が龐玉と離宮で涼をとるというので付き添っているが、正直婚約者の隣で日々美しく成長する彼女を見ているのは辛かった。
そう思って席を外していたはずなのに、見ると龐玉が蒼郭のいる方に手を振っている。
「蒼郭!」
そう呼ぶと、彼は蒼郭のいる四阿に傘を持つ従者を伴って歩いてきた。
金の髪に濃紺の上衣は良く映える。美しい金獅子のような少年だといつも思う。
隣に白燐がいる様子もない彼に、蒼郭は急いで立ち上がり礼をした。
「殿下、何をしていらっしゃるんです?」
「いつも君は退屈そうにしているから遊んでやろうと思って」
聞くと、案外子供っぽい東宮は声を出して笑った。
「殿下もお嬢様も、少し距離が近すぎます」
「手が届いてしまうのかと錯覚するくらいにか?」
「っ……!」
その言葉に思わず黙ってしまう。
少年は全てを見透かしたように金の瞳を細める。
龐玉が聡いのか白燐と蒼郭が分かりやすいのかというと、間違いなく後者だろう。
特に白燐は最近残り少ない時間を惜しむように蒼郭をどこにでも同行させる。
龐玉が四阿の椅子に腰かけると従者たちは甲斐甲斐しく彼の衣を整えた。
「余は君が、白燐を連れ去ってくれたらいいと思っていたよ。そして白燐はきっとそれを拒まないだろうとも思った」
「貴方はお嬢様を私に取られてもいいと思っていらっしゃるんですか?」
まさか他にも従者がいる場所で、そんなことを言い出すとは思っていなかったので顔を強張らせてそう聞くと、龐玉は何でもないように言う。
「いいや、余は白燐が大好きだよ」
「ではなぜ?」
「でも余は蒼郭のことも好きだ」
「はっ?」
「水委のことも好きだし、槿花のことも好きだな」
最初は揶揄われているのかとも思ったが、彼の言っている意味が次第に理解できるようになった。
皇帝になることを半ば約束されたような地位に生まれた彼は特別を作ることを許されない。そして生来そういう性質でもあるのだろう。特段そのことを辛がっている様子もない。
執着心は薄いが好奇心旺盛な少年はそういう教育を受けているのだ。
「貴方は本当に生まれながらに王なのですね。皇帝陛下がそうであるように」
蒼郭が少し惨めな気持ちになってそう言うと龐玉は眉を上げる。
「どうだろうか、父上はあれで案外情熱的に初恋の人を思い続けているらしい」
「皇后陛下のことでしょう?民草の間ではお伽話のように語り継がれる金の王と銀の皇后の物語ですよ」
慶朝は二十で蓬樹を娶るまで他の后妃を迎えなかった。そして彼女を正妃とし、今でも深く愛していると聞く。
幼い白燐が羨ましそうにその話に聞き入るのを見て自分が惨めになったこともある。どう頑張っても蒼郭は白燐の夢見る金の皇太子にはなれないのだから。
しかし、龐玉はその言葉に首を捻った。
「父上と母上は良き友人だ。そんな甘い関係ではないよ、と言ったら国民を幻滅させてしまうかな」
そして、龐玉は蒼郭の目を覗き込んで侍女や宦官たちには聞こえないように言う。
「蒼郭、余は白燐を一番にはできないよ」
それは確認のようで、それでいて蒼郭を唆すような言葉でもあった。
「……お嬢様もそれは理解してらっしゃいます」
「父上にとって母上がそうであるように、余にとって白燐は良き友人だ。そして余は友人の幸せを願っているんだ」
「そんなことをおっしゃるのはおやめください」
気丈に言ったはずの声があまりに情けなく聞こえる。
あの日確かにこの胸に抱いた彼女に、手が届くのではないかと勘違いしてしまう。
これ以上期待させて、これ以上自分を惨めにするのはやめてほしい。
蓮 白燐は幸せになるために王都にやってきた。彼女自身がそう言ったのだ。
けれどその言葉に他ならぬ自分が疑問を持ち始めていることが何より蒼郭を苦しめていた。
※
東宮妃、蓮 白燐の披露目を兼ねた祭祀に携わることとなった芙蓉には気になることがいくつかあった。
年間を通して幾度か開催される祭祀というのものには大きく大・中・小に分かれており、今回はそのうちの中祀にあたる。この場合、全ての國主と國令が一介に集うらしくその機会に白燐を龐玉の妃として紹介しようという考えらしい。
それ自体におかしなところは一つもない。
しかし、國令や官の配置を確認していた崔星がおかしなことを言い出したのだ。
「莢官吏、あの。自分の見間違いかもしれないのですが、これいつもと配置が違うんです」
彼はそう言って歴代でも用いられた祭祀での席表や諸々の配置図を見せてくれた。
どうやら全てを頭に入れているらしく、芙蓉の目の前にはあっという間に十年以上の同様の祭祀の資料が並べられていた。
本当に僅かな違いしかないので芙蓉も紙を日に透かして見てやっと分かったくらいだが、確かに配置がずれている気がした。
他の年のものも確認したが、今回の分だけがずれている。
彼の目がなければ気が付けなかった事態に芙蓉も素直に感心した。何より、彼が失敗を恐れずそう声を上げてくれたのは嬉しかった。
けれど、気が付いただけでは物事は前には進まないのだ。
この程度の違いを上司に訴えたところで、ではなぜ変える必要があるのかと問われて答えることができない。
芙蓉もこれがただの思い違いではないような気がしてならないので頭を悩ませていた。
「槿花、考え事?さっきから、同じところ何回も読んでるけど」
「えっ、ああ、ちょっと。……昼の仕事の方が立て込んでまして」
水委の言葉に我に戻った芙蓉は手元の帳面を落としそうになって急いで体勢を立て直した。
水委との時間は後宮を探るための手段でもあるが、官吏になってから初めてできた女友達と言うこともあって案外気が休まる。
水委は才気あふれる少女だが、それを本人が自覚していないせいもあってか奢らず、何事にも興味関心を持って接する。そういうところが芙蓉には好ましく思えた。彼女は芙蓉を心配してか顔色を伺う。
「大丈夫?そんな時に呼び出しちゃってごめんね」
「いえ、良いんですよ。私も助かってますし」
「助かる?ああ、槿花ってば本当に翆湅様が好きね」
「あはは……。まあ、そういうことで構いませんけど」
芙蓉が助かっているのはまた別の意味でなのだが、彼女は本気で芙蓉が翆湅に恋をしていると思っているらしい。
どんな高官の手先かもわからないような男を好くはずもないのだが、否定するのも面倒な芙蓉は適当に相槌をうつ。後宮では案外宦官が妻を持ったり妾を持つことも珍しくはないらしい。
しかし、それにしては水委の言葉に以前のような勢いがないことが少し気がかりだ。
そう思いながら、翆湅と龐玉の講義の内容を読んでいるとある部分が目に留まった。
「水委、この部分って」
「ああ、これは翆湅様にお聞きしたときの分ね」
気になって水委に確認すると、彼女は快く教えてくれる。
もしかしたら国家機密ものの情報をこうして手軽に手に入れられているのかと思うと流石に冷や汗ものだ。
「この『東宮殿下は東側にお座りになるかと思われますから、きっと舞もよく見られるでしょう』って部分本当に翆湅様がそう言ったんですよね」
「ええ、私が間違うはずがないわ。確か龐玉様が前の祭祀の時に見えなくて悔しがってらしたので教えてくださったのよ」
祭祀の後に行われる饗宴、そして芸能の席では舞が披露されることが予定されているがその具体的な配置に関しては礼部以外の官吏には伝えられていない。
官吏を統率する機能を有する御史台所属の彼が持っているはずのない情報なのである。
それは明らかに彼が御史台以外の官吏ともつながっているという確固たる証拠であった。
目の前で少女はそれがどうしたんだと言うように首を捻っているが素晴らしい収穫だ。
まさかこんなところで彼が襤褸を出しているとは思わなかった。水委が何やら書き留めていようとそこまで子細に会話を残されていようとは思ってもみなかったのだろう。
それにしても恐ろしい速筆術である。この少女がいれば、一つの襤褸も出せない。
毒にも薬にもなる能力に、芙蓉は冷や汗を流した。
水委は芙蓉が何を思っているかを知らないままに、いきなり神妙な顔になる。
「ねぇ、槿花。私がこう言うのはどうかなと思うんだけど、翆湅様のことが気になるならやめた方が良いわよ」
「……どうしたんです?この間まであんなに応援してくれていたのに」
水委のおかしな様子に今度は芙蓉の方が気になって彼女との距離を詰めた。
「もう、あれは忘れてよ。私だって初めてできたこんなに話の合う友達を失いたくないのよ」
「やけにもったいぶりますね」
「……いい?私に聞いたって絶対言わないでね」
そう確認してから水委は芙蓉の耳に口を近づけると、囁くような声で言う。
「翆湅様って、茜太師の元に通っているっていう噂があるのよ」
「茜太師が……!?っんぐ!?」
芙蓉が驚いて声を出すと、水委は急いでその口を塞ぎ周りを見渡した。
「誰が聞いてるか分からないんだから大きい声は出さないで!……つまりはそういうことよ。美少年好きの貴族って多いのよねぇ」
「そ、そうなんですね」
少しずつ、絡まった紐が解けてきたような予感がする。
三公と呼ばれる要職の一つ、太師職にある茜 牙鴇は現茜國主である茜 紅鳶の大叔父であり、芙蓉の叔父である月樺と積極的に手を組んだ人物である。
翆湅が彼と情を交わしているということは否定できないが、きっとそれ以外の意味もある。少なくとも茜家に所縁のある官吏が後宮に出入りできていることは大問題だ。
「礼部で最近侍郎職に空きが出たらしいんだけど、それは翆湅様にちょっかい掛けようとした官吏が左遷されたかららしいのよ」
芙蓉は内心でなるほどと頷いた。芙蓉も書庫番をしていた時に襲われかけて鈴扇と嬰翔に救われたことがあるが、そういえばその人物も礼部の侍郎職にあったはずだ。
水委が知らないだけで他にも犠牲になったかもしれない官吏のことを考えると気の毒になる。
「でもね、代わりに来られたという菫様はそれはもう美しいらしいのよ。兄さんに会わせてもらえるようお願いして見ようかしら」
「水委のお兄様は礼部で働いていらっしゃるのですか?」
貴族然とした美形の多い朝廷とはいえ、鈴扇ほどとなるとやはり噂も回るのかと思いながらうっとりとした顔をする水委に妙にもやもやした気持ちになって既に知っていることを口にしてしまった。
その気持ちがなんなのか、芙蓉自身ほとんど分かっているのでさらに嫌になる。
水委はさほどの興味もないのか話題の転換にも気にせず応じてくれる。
「うん、っていっても官吏じゃなくて文官よ」
水委はそのまま悪態でもつくのかと思っていると、大きな溜息を吐いた。彼女の瞳からは兄の前で見せた侮蔑の色は感じられない。
「槿花はたまに、私に才能があるって言ってくれるじゃない?でもね、兄さんは正真正銘の天才なのよ。一度見たものは絶対に忘れないの。その代わりに算術が全然できないんだけどね」
やはり芙蓉が感じたように、彼女が兄に向けているのは憧憬とそれゆえの憤りなのだろう。
その様子を見るに、嫌っているわけではないようだ。
天才、それを言うなら水委だってそうだと芙蓉は思う。
少なくともこれだけの執念を持って勉学に立ち向かえる人間は、何か使命を持って生まれたに違いない。
「水委は算術の飲み込みが一番早いから真逆ですね」
「そうなのよ。私たち小さい頃は一緒に講義を受けていたんだけど、兄さんは算術の講義の時だけは帳面を見せてほしいと頼み込むのよ。他のことなら一目見るだけで勉強なんて必要なかったのに。私の考えた文字だって一目で記憶してしまったのに」
そう笑いながらも水委の瞳が左右に揺れるのを見て、芙蓉は何とも言えない気持ちになる。
水委は男に生まれていればきっと有能な官吏になった。それくらい彼女の呑み込みの早さには目を見張るものがあった。
「槿花がいると錯覚してしまうの、私にも手が届くんじゃないかって」
「……水委」
「ごめんね、こんなに私は恵まれてるのに。それが腹立たしいなんて贅沢よね」
水委の瞳からは次第に涙が流れていた。それは悲痛な叫びだった。
官吏の家系に生まれ、教育を受けた水委は普通の女性よりずっと彼女の夢に近い場所にいる。それが余計に彼女を苦しめているのだ。
水中で火を求めても手に入れることはできない。けれど水は透明で、その明かりだけは水中にも届く。
『鴻鵠が、能力を持った人間が貴賤に関係なく自由に飛び回れる国。それが真の鴻鵠の国です』
嬰翔の言葉を思い出しながら芙蓉は水委の震える肩を抱いた。
今の芙蓉には彼女が羽を広げて飛び回る国を思い描くことすらできない。
それを思い描くためには、やはり慶朝の手を取る必要があるのかもしれない、とも思う。
実は鈴扇や嬰翔の思い描く鴻鵠の国を作るためには、彼らが厭う博士という席に芙蓉がつくことが一番の近道だ。
芙蓉が一言声を上げれば、慶朝は全てを叶えてくれる。けれど、そんな国は理想であるものかと考えを一蹴する。
その晩芙蓉は水委が泣き止むまで、彼女の背中をさすり続けた。
そしてこの夜の出来事が後に彼女たちの人生を大きく変えることになるとは、少女たちはまだ知らないのであった。




